三味線の渡来
概要
中国の三弦が琉球に入って三線になり、蛇皮を張った。それが16世紀の半ば、堺に来た。日本には蛇がいないので、猫と犬の皮を張った。琵琶法師が、撥で弾く技法を持ち込んだ。棹に勘所を示す印がなく、音程を耳で取る。この楽器が、浄瑠璃と歌舞伎と、遊里の音楽を担った。町人の音楽の中心になり、江戸の音の風景を変えた。
場所
34.57°N 135.48°E · 大阪府
本文
中国には三弦という楽器がある。長い棹、蛇の皮を張った小さな胴、三本の弦。北方の遊牧の民の楽器が元や明の頃に中国に広まったものとされる。これが琉球王国に伝わり、三線になった。ニシキヘビの皮を張り、水牛の角などで作った爪を指にはめて弾く。琉球の王府では、三線は士族のたしなみでもあった。
16世紀の半ば、琉球と交易していた堺の港に、この楽器が入ってきた。永禄年間(1558年〜1570年)のこととする説が江戸時代の書物に見えるが、確かな記録ではない。最初にこれを手に取ったのは、琵琶を弾きながら『平家物語』を語っていた盲目の琵琶法師たちだったとされる(『平家物語』と琵琶法師)。17世紀のはじめには、石村検校という盲人の音楽家が楽器を改め、三味線のための最初の本格的な歌曲である組歌を作ったと伝えられる。新しい楽器は、まず盲人の音楽家の芸として磨かれたのである。

日本に来て、楽器はいくつも姿を変えた。まず皮である。日本には大きな蛇がいないため、猫の皮と犬の皮を張るようになった。猫の皮は薄く、よく響き、乳の跡が残るものもあった。次に弾き方である。琵琶法師たちは、琉球の爪ではなく、琵琶の大きな撥を使った。撥は弦をはじくと同時に皮を叩く。そのため三味線は、弦の音に、太鼓のような打つ音が重なる楽器になった。棹は三つに分けられる作りになり、持ち運びが楽になった。
もう一つ、琵琶から受け継がれた仕掛けが「さわり」である。いちばん太い一の糸だけを上の駒に掛けず、棹の一部にわずかに触れさせる。すると、弾いたときに「ビーン」という濁った響きが長く尾を引く。西洋の楽器が雑音として取り除こうとしてきたものを、この楽器はわざわざ作り出して音の味にした。棹にはギターのような音程の印が無く、弾き手は正しい場所を耳と指で覚える。

三味線を得て大きく変わったのが、語り物である。浄瑠璃姫の恋を語る物語から名を取った浄瑠璃は、それまで扇で拍子を取ったり琵琶を伴ったりして語られていたが、三味線と結びつき、16世紀の終わりごろには操り人形とも組んだ。17世紀の末、竹本義太夫が大坂に竹本座を開き、近松門左衛門がそのための台本を書いた。太い棹の三味線の腹に響く低い音が、心中や親子の別れの悲劇を支えた。
歌舞伎も三味線とともに育った。出雲阿国のかぶき踊りの頃の踊りの伴奏から、やがて細い棹で華やかに弾く長唄が生まれ、鳴り物と合わせて舞台の音を作った。上方では、当道座に属する盲人の音楽家たちが地歌を磨き、箏や胡弓と合わせる三曲の合奏を作った。遊里の座敷では、端唄、小唄、都々逸が酒とともに歌われた。常磐津、清元、新内と、三味線の音楽は流派ごとに枝分かれし、江戸の町を歩けば、どこかの家から稽古の音が聞こえるほどになった。町人の娘にとって三味線や長唄の稽古は、武家の屋敷へ奉公に上がったり良い縁談を得たりするための教養ともされた。
この楽器を支えた人々の多くは、社会の周縁にいた。弾き手は、当道座の盲人、遊里の女性、町々を回る芸能の民だった。皮をなめす仕事は、身分の上で差別された人々が担っていた。町人の娯楽の中心にあった音は、そうした分業の上に成り立っていた。
明治以降、三味線は西洋の音楽の陰に回ったが、消えはしなかった。津軽では、門付けをして歩いた盲目の芸人たちの三味線から、叩きつけるような撥さばきの津軽三味線が生まれ、20世紀の後半に全国に広まった。義太夫、長唄、地歌は、それぞれ棹の太さと音色を変えながら、いまも続いている。猫の皮はいまではほとんど手に入らず、犬の皮や合成の皮が多く使われている。