人物

ウンム・クルスーム

Umm Kulthum
AD1898年頃 – AD1975年2月3日(享年77・推定)
エジプト重要度 3

概要

毎月第一木曜のラジオ放送で、アラブ世界の街から人が消えたと言われる歌手。一曲を1時間かけて歌った。

関わったできごと(1)

ウンム・クルスームの木曜の夜AD1937年頃 · 歌手

本文

1898年頃(1904年とする説もある)、ナイル・デルタの村タマーイ・アッ=ザハイラで生まれた。父は村のモスクのイマームで、婚礼や祭りに呼ばれて宗教歌を歌い、わずかな謝礼を得ていた。娘はコーランを暗唱して育ち、父が兄に歌を教えるのを横で聞き覚えた。その声に気づいた父は、娘を自分の一行に加えた。ただし、少年の服を着せ、頭に布を巻いてである。女の子が人前で歌うことは、村ではとても認められなかった。

ウンム・クルスームの肖像
ウンム・クルスームの肖像Wikimedia Commons Unknown - probably dead the photo was first published in Egypt and taken by a government photographer working for the lo · Public domain

デルタの町々を回るうちに評判が広がり、1920年代の初め、一家はカイロへ出た。都の舞台では、田舎の宗教歌の娘は垢抜けないと笑われた。彼女は詩人アフマド・ラーミーから古典の詩を学び、作曲家ムハンマド・カサブギーからウードの伴奏で歌う歌を得た。ラーミーは生涯に彼女のために百を超える詞を書いたとされる。カイロの歌手として頂点に立つまで、10年ほどかかった。

1934年、エジプトに国営のラジオ放送ができた。彼女の名声を決定づけたのは、この新しい機械だった。1930年代の後半から、毎月第一木曜の夜に開く演奏会が、生でラジオに流されるようになる(ウンム・クルスームの木曜の夜)。その時間、アラブ世界の街から人が消えたと言われる。カイロでも、バグダードでも、ベイルートでも、モロッコの町でも、人々はカフェのラジオの前に集まった。

幼いウンム・クルスームと父イブラーヒーム
幼いウンム・クルスームと父イブラーヒームWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

歌い方が独特だった。一曲が1時間を超えることも珍しくない。詩の同じ一行を、その日の客の反応を見ながら、節回しを少しずつ変えて何度も繰り返す。客席から「もう一度」と声がかかれば、また繰り返す。歌い手と聴き手が一体になって高まっていく状態を、アラビア語でタラブと呼ぶ。同じ歌が、二度と同じにならない。舞台では、いつも手にハンカチを握っていた。

映画にも出た。1936年の『ウィダード』を最初に、1940年代までに6本の映画で主演し、歌う姿をスクリーンに残している。一方で、契約や出演料の交渉は自分で取り仕切り、音楽家の組合の長にも選ばれた。舞台の上でも外でも、男たちの業界で誰にも従わない女性だった。

エルサレムでのウンム・クルスームの演奏会を告げるポスター(1920年代)
エルサレムでのウンム・クルスームの演奏会を告げるポスター(1920年代)Wikimedia Commons Private collection of Saleh Abdel Jawad · Public domain

1952年、自由将校団の革命で王制が倒れた。かつて国王の前で歌ったことから、旧体制の歌手として放送から外されかけたが、それを知ったガマール・アブドゥル=ナセルが取り消させた、という話が伝わる。真偽はともかく、彼女とナセルの時代は重なり合った。ナセルの演説の前後に彼女の歌が流れ、彼女はアラブの一体を歌う愛国の歌も歌った。

1964年には、それまで対抗する存在と見られていた作曲家ムハンマド・アブドゥルワッハーブと組み、「あなたは私の命」を発表した。アラブ音楽の二人の大家の共演は、それだけで大きな事件として迎えられた。1966年の「廃墟」は、失われた愛を歌う詩でありながら、聴く人々は国の運命を重ねて聴いた。

若き日のウンム・クルスーム(1927年)
若き日のウンム・クルスーム(1927年)Wikimedia Commons Unknown · Public domain

1967年、第三次中東戦争でエジプトは惨敗した。彼女はその年の秋からパリのオランピア劇場をはじめ、国内外を回って演奏し、その収益をエジプト政府に寄付した。敗戦に沈む人々にとって、彼女の演奏旅行は誇りを取り戻す出来事として受け止められた。

晩年は腎臓と甲状腺の病に苦しみ、目を守るための黒い眼鏡をかけて舞台に立った。1975年2月3日、カイロで死去。葬儀には400万人が集まったとされる。棺は群衆に担がれて、予定とは違う道を進み、何時間もカイロの街を回った。「東方の星」と呼ばれた歌手の死だった。

勲章を授与された後のウンム・クルスーム(1944年)
勲章を授与された後のウンム・クルスーム(1944年)Wikimedia Commons جريدة الاهرام · Public domain

死後50年がたっても、カイロのタクシーやカフェで、彼女の歌が流れている。録音された演奏会は、1時間を超える長さのまま聴かれ続けている。ラジオという新しい技術が国境を越えたとき、それに乗ってアラブ世界に共通の時間を作ったのは、政治家ではなく一人の歌手だった。

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