概要
804年、無名の私度僧として遣唐使船に乗り、長安の青龍寺で恵果に会った。恵果は「私は長くこの日を待った」と言い、3か月で密教の全部を伝えて、その年に死んだ。806年帰国。816年、嵯峨天皇から高野山を賜った。曼荼羅、真言、灌頂、即身成仏。彼は書の名手で、辞典を作り、日本最初の庶民の学校を開き、満濃池を修築した。835年、入定。いまも生きているとして、毎日、食事が運ばれている。
場所
34.21°N 135.59°E · 和歌山県
関わった人(1)
空海AD774年–AD835年 · 開いた本文
774年、讃岐国多度郡(香川県善通寺)。父は郡司の佐伯氏、母は阿刀氏(学者の家)。幼名は真魚。
15歳で、母方の叔父・阿刀大足(桓武天皇の皇子の家庭教師)に漢籍を学び、18歳で大学寮(官僚を養成する学校)に入った。しかし、儒教の経典の暗誦と、それによる出世に、意味を見出せなくなった。
ある沙門から「虚空蔵求聞持法」を教わった。虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えると、あらゆる経典を記憶できる、という行。彼は大学を中退して、山に入った。阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎。「谷、響きを惜しまず、明星、来影す」(『三教指帰』序)。室戸の洞窟で、明けの明星が口の中に飛び込んだ、と自ら記している。
24歳、『聾瞽指帰』(後に『三教指帰』)。戯曲の形式。放蕩息子を、儒者が説き、道士が説き、最後に仏教者(仮名乞児)が説く。儒教と道教を超えて仏教が最上である、という宣言。出家の届けを、この形で出した。
804年、31歳。遣唐使船。無名の私度僧(正式な僧の資格がない)だったのが、なぜ選ばれたのかは分かっていない(阿刀大足の縁、あるいは、密教の経典を求める朝廷の意図)。同じ船団の別の船に、最澄がいた(最澄は既に天皇の信任を得た高僧で、通訳を連れた「還学生」=短期留学。空海は20年の「留学生」)。
4隻のうち2隻が遭難した。空海の船は福州の海岸に漂着した。上陸の許可が下りず、40日以上、船に留め置かれた。大使が書いた嘆願書が拙く、空海が書き直した。その文章の見事さで、上陸が許された、と伝える。
長安。西明寺に住み、インド僧般若三蔵にサンスクリットを学び、諸寺を巡った。
805年5月、青龍寺の恵果(けいか)を訪ねた。恵果は当時の密教の最高の継承者で、60歳、弟子1000人。空海を見て言った、と『請来目録』にある。
「我、先より汝が来ることを知り、相待つこと久し。今日、相見ゆ、大いに好し、大いに好し。報命、竭きなんと欲するに、付法に人無し」。
6月、胎蔵界の灌頂。7月、金剛界の灌頂。8月、伝法阿闍梨位の灌頂。3か月で、密教の全部を伝えた。「遍照金剛」の号。
そして12月15日、恵果が死んだ。弟子1000人の中から、空海が碑文を書くよう選ばれた。
806年10月、帰国。20年の留学を2年で切り上げた(規定違反。しばらく大宰府に留め置かれた)。持ち帰ったもの。経典216部461巻、曼荼羅、法具、そして書と詩の書。『御請来目録』。
809年、入京。嵯峨天皇と、書を通じて親しくなった(天皇、空海、橘逸勢を「三筆」と呼ぶ)。
816年、高野山を賜った。紀伊の山中、標高800メートルの盆地。「四面高嶺にして、人蹤蹊絶えたり」。伽藍の造営は、彼の生前には終わらなかった。
821年、讃岐の満濃池を修築した。決壊を繰り返していた灌漑用の溜池を、アーチ型の堤(水圧を分散する)で作り直した。彼が現場に立つと、人夫が集まった。3か月で終わった。
823年、東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教の道場にした。講堂に、21体の仏像を曼荼羅の配置で並べた(立体曼荼羅)。
828年、綜芸種智院。私立の学校。身分を問わず、無償で、儒教も道教も仏教も教える。日本で最初の、庶民に開かれた学校とされる。彼の死後、10年で廃絶した。
思想。『十住心論』(人の心のあり方を10段階に分け、最下位の本能のままの心から、最上位の秘密荘厳心(真言密教)まで、諸思想を配置する)。『即身成仏義』——この身のままで仏になる。三密(身・口・意)の加持。『声字実相義』——音と文字が、そのまま真理である。
835年3月21日、高野山で入定した。62歳。
真言宗では、彼は死んだのでなく、奥之院の廟の中で、いまも禅定に入って、弥勒の下生を待っている、とする。1200年、毎日、朝6時と10時半に、食事が運ばれている(生身供)。運ぶのは維那という役の僧で、廟の中を見た者は語らない。