物語

インドと仏教

出てくるできごと BC1500 – AD1930
できごと 80人物 32国 5
この物語に出てくる図版:Guru and DiscipleI
この物語に出てくるウパニシャッドの成立から。Guru and DiscipleI Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。

この物語について

一人の出家者の考えが、なぜ千年かけて国境を越えて運ばれたのか。運んだのは、信仰の力だけではない。

釈迦が生まれる前、ガンジス川の流域にはすでに長い思想の積み重ねがあった。祭式の言葉を集めたヴェーダの成立以来、バラモンと呼ばれる祭司が神々への祭りを取り仕切り、身分の秩序の頂点に立っていた。やがて『ウパニシャッド』の思想家たちは、生き物は行いの報いによって生まれ変わりを繰り返し、その輪から抜け出すには、自分の本体と宇宙の根本が一つだと悟ることだと説いた。紀元前6世紀から5世紀ごろ、この流域では都市と商業が育ち、祭式の権威を疑う出家者たちが次々に現れる。ジャイナ教を開いたマハーヴィーラも、その一人だった。

マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)座像(15世紀)
マハーヴィーラWikimedia Commons unknown Indian sculptor · Public domain

ゴータマ・シッダールタは、ヒマラヤの麓の小さな国シャーキャ族の王子として生まれたと伝えられる。年代は南方に伝わった説と北方に伝わった説で1世紀近く違い、紀元前6世紀から5世紀のあいだとも、紀元前5世紀から4世紀のあいだともいわれる。29歳で家を出て、厳しい苦行を続けたがやめ、35歳ごろ、ブッダガヤーの木の下で悟りを開いた。釈迦の悟りの後、最初に教えを説いたのはベナレス郊外の鹿の園で、そこから80歳ごろに亡くなるまで、ガンジス川の流域を歩いて教えを説き続けた。

釈迦が説いたのは、生きることには苦しみが付きまとい、その原因は執着にあり、正しい修行によって執着を離れれば苦しみから自由になれる、ということだった。変わらない自分という本体は無い、とも説いた。神々への祭りも、生まれによる身分も、悟りには関係がない。教団には商人も職人も、のちには女性も加わった。ただ、釈迦自身は何も書き残していない。教えは弟子たちの記憶によって伝えられ、文字に書かれたのは数百年後のことである。

広まる転機は、釈迦の死から百数十年から二百年あまり後にやってきた。紀元前4世紀の末、チャンドラグプタがマウリヤ朝を開き、インドで初めて大部分をまとめる王朝ができた。その孫のアショーカ王は、即位してしばらく後、東海岸のカリンガ国を征服した。自らの碑文によれば、15万人が連れ去られ、10万人が殺され、その何倍もの人が死んだという。戦いの後、アショーカは深く悔い、仏教に帰依したと碑文に刻ませている。カリンガ戦争とアショーカの改宗は、征服した王自身が悔いを言葉にして残した、珍しい記録でもある。

カリンガ戦争とアショーカの改宗に関わる図版:Chandragupta Maurya Empire
カリンガ戦争とアショーカの改宗Wikimedia Commons Jagged 85 at English Wikipedia · Public domain

アショーカは、武力ではなく「法(ダルマ)」による統治を掲げ、その言葉を各地の岩や石柱に刻ませた。生き物を無益に殺さないこと、親や年長者を敬うこと、ほかの教えの人びとを尊重すること。碑文は土地ごとの言葉と文字で書かれ、西の端のカンダハルではギリシア語とアラム語でも刻まれた。アショーカ王の碑文は特定の教義を押しつけるものではなかったが、王は仏教の僧団を保護し、伝承ではスリランカへ王子を使者として送ったとされる。一人の思想が、国家の後ろ盾を得て伝わり始めた。

マウリヤ朝が崩れた後、北西インドにはギリシア系の王たちが入ってきた。紀元前2世紀の王メナンドロスが僧と問答した記録は『ミリンダ王の問い』として残る。紀元1世紀から2世紀には、中央アジアから来たクシャーナ朝がガンダーラを中心に大きな国を作った。クシャーナ朝の王カニシカは仏教を保護し、この頃、それまで足跡や菩提樹で表していた仏を、人の姿で刻むことが始まった。ギリシア風の顔立ちと衣のひだを持つガンダーラの仏像である。同じころ、自分だけの悟りではなく、すべての人を救うことを目指す大乗の教えが広まり、ナーガールジュナがその理論を固めた。

ミリンダ王の問いに関わる図版:Folios of the Bhikkhuni-patimokkha (BL IO Man.Pali 21)
ミリンダ王の問いWikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · CC0

インドから東へ教えを運んだのは、僧だけではなかった。ガンダーラから中央アジアを抜けて中国へ至る道は、絹と香料の通る交易の道でもあった。オアシスの町々に寺が建ち、ソグド人をはじめとする商人たちが寄進をして旅の無事を祈った。中国に仏教が届いたのは紀元1世紀ごろとされ、後漢の皇帝が夢に金色の人を見て使いを送ったという話が伝わるが、これは後の伝承である。

中国で仏教が根を張ったのは、漢が滅びて国が割れ、戦乱が続いた4世紀以降だった。儒教の秩序が揺らいだ時代に、生まれ変わりと救いを説く教えは人びとの心をとらえ、北方の遊牧系の王たちも、中国の伝統の外にある宗教として仏教を保護した。401年、西域の亀茲出身の鳩摩羅什が長安に迎えられ、多くの経典を読みやすい漢文に訳した。いま日本で読まれている経文の多くは、彼の訳である。一方、399年には僧の法顕が戒律の書を求めてインドへ向かい、十数年かけて海路で帰った。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』。彼の漢訳は長行(仏典の散文の部分)でも四字句を多用したので、リズミカルで流麗である。写真は江戸時代の読誦用の経本で、経文の右側に「真読」(呉音読み)、左側に「訓読」(漢文訓読)を示す「両点本」である。
鳩摩羅什Wikimedia Commons ウィキ太郎(WikiTaro) · Public domain

ただ、国家の保護は、国家による弾圧と表裏だった。5世紀の北魏の太武帝、6世紀の北周の武帝は、僧を還俗させ、寺と経典を焼いた。寺が土地と人を抱え込み、税と兵役を逃れる場になったからでもある。それでも北魏は後に、雲岡や龍門の岩山に巨大な仏を刻ませた。

629年、唐の僧玄奘は、国の禁を破って西へ旅立った。経典の訳に食い違いが多く、原典を自分の目で確かめたかったのである。天山の南を通り、中央アジアを越えてインドに入り、ナーランダー僧院で学んで、645年に600部を超える経典を携えて長安に戻った。帰国した玄奘は皇帝の太宗に歓迎され、残りの生涯を訳経に費やした。彼が書いた旅の記録は、当時のインドと中央アジアを知る第一級の史料であり、千年近く後には小説『西遊記』の種になった。7世紀の後半には、僧の義浄が今度は海路でインドへ渡り、途中のシュリーヴィジャヤでも学んでいる。

義浄の著書『南海寄帰内法伝』
義浄Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

朝鮮半島には4世紀に仏教が入り、6世紀に百済から日本へ伝えられた。年は538年とも552年ともされる。仏教の日本伝来は、受け入れるかどうかで豪族を割り、蘇我氏が物部氏を倒して決着した。聖徳太子の名で伝わる憲法十七条は「篤く三宝を敬え」と説き、仏教は国づくりの柱になる。8世紀には聖武天皇が国ごとに国分寺を置かせ、752年、奈良の東大寺で大仏の開眼が行われた。釈迦の死から、およそ千年が過ぎていた。

日本に届いた仏教は、そこでも姿を変え続けた。9世紀に唐へ渡った最澄と空海は天台と真言の教えを持ち帰り、平安の末から鎌倉の時代には、念仏だけで誰でも救われると説く法然や親鸞、坐禅を説く栄西や道元、法華経を掲げる日蓮が現れて、仏教は貴族のものから民衆のものになった。

会昌の廃仏に関わる図版:Tang Wuzong
会昌の廃仏Wikimedia Commons Wang Qi · Public domain

皮肉なことに、生まれた土地インドでは、仏教はしだいに力を失っていった。バラモンの伝統は神々への信仰と結びついたヒンドゥー教として立て直され、仏教の考えも取り込んでいく。僧院に頼っていた仏教は、王の保護と寄進が細ると支えを失った。13世紀のはじめごろ、ナーランダーの僧院がイスラーム勢力の軍に壊されたことは、その衰えを象徴する出来事とされる。その一方で、スリランカから東南アジアには上座部の教えが、チベットとモンゴルには密教の色の濃い教えが根づき、ボロブドゥールやパガン、アンコールの伽藍が建てられた。

1956年、インドで不可触民とされた人びとの指導者アンベードカルが、数十万の人びととともに仏教に改宗した。身分による差別を否定する教えとして、仏教をもう一度選び直したのである。生まれた土地を離れて千年以上旅をした教えは、こうして一部が故郷へ戻った。

ビームラーオ・アンベードカルの肖像
アンベードカルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

仏教がここまで遠くへ運ばれたのは、教えそのものの力に加えて、それを必要とした者がいたからだった。広い国をまとめる理念を求めた王、旅の無事を祈った商人、原典を求めて砂漠を越えた僧、国を守る力を仏に期待した朝廷。運ぶ者の目的が変わるたびに、仏教も姿を変えた。いま私たちが寺で目にする仏像も、読まれる経も、葬儀の作法も、その長い旅の途中で付け加えられたものの積み重ねである。

動画(1)

馬場 紀寿「仏教が説く秩序の形成と崩壊」ー公開講座「新たな秩序」2017UTokyo Channel仏教が説いた秩序の成り立ちと崩れ方を語る東京大学の公開講座

この物語が起きた場所

大英帝国White Russiaカナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国ブラジルオーストラリアデンマーク中国の軍閥イギリス領インド帝国フランス領西アフリカアルゼンチンアルジェリアスーダンフランス領赤道アフリカFar Eastern SSRZaire (Belgium)モンゴル南アフリカ連邦ポルトガル帝国新疆メキシコイランLibya (IT)長安(6件) 鳩摩羅什の長安入り 北周の廃仏 最澄と空海の入唐 韓愈「論仏骨表」 円仁の入唐求法 会昌の廃仏6京都(6件) 末法の始まり 法然の専修念仏 親鸞『教行信証』 夢窓疎石と禅の庭 五山の制 神仏分離と廃仏毀釈6平城京(5件) 蘇我氏と物部氏の戦い 国分寺建立の詔 大仏開眼 鑑真の来日 藤原仲麻呂の乱5東京(3件) 六曜が生き残る 除夜の鐘を中継する 創価学会の始まり3パータリプトラ(2件) マウリヤ朝の成立 法顕の求法の旅2ナーランダー(2件) ナーランダー僧院の創建 玄奘の西域行2ヴァーラーナシー(2件) ヴァーラーナシーの火葬 ヴァーラーナシーのガート2南京(2件) 梁の武帝の捨身 『西遊記』2飛鳥(2件) 仏教の日本伝来 憲法十七条2アンコール(2件) 真臘の興り ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トム2ラサ(2件) 吐蕃の高原統一 文成公主の入蔵2江戸(2件) おみくじ 寺請制度2ハラッパー(1件) ヴェーダの成立ガンジス川中上流域(1件) ウパニシャッドの成立ブッダガヤ(1件) 釈迦の悟りパーヴァー(1件) マハーヴィーラの入滅カリンガ(1件) カリンガ戦争とアショーカの改宗サーンチー(1件) アショーカ王の碑文アジャンター(1件) アジャンター石窟の壁画サーガラ(シアールコート)(1件) ミリンダ王の問い洛陽(1件) 仏教が中国へガンダーラ(1件) ガンダーラの仏像タキシラ(1件) クシャーナ朝の隆盛ナーガールジュナコンダ(南インド)(1件) ナーガールジュナの中論国内城(1件) 高句麗への仏教伝来サマルカンド(1件) ソグド商人のネットワーク平城(1件) 太武帝の廃仏雲岡(1件) 雲岡石窟の造営少林寺(1件) 達磨の渡来(伝承)バーミヤン(1件) バーミヤンの大仏カナウジ(1件) ハルシャ王の北インド統一慶州(1件) 元暁の悟りパレンバン(1件) 義浄のシュリーヴィジャヤ滞在仏国寺(1件) 仏国寺と石窟庵ボロブドゥール(1件) ボロブドゥールの造営シュリンゲリ(1件) シャンカラの不二一元論高野山(1件) 空海の高野山開創オルホン渓谷(1件) キルギスのウイグル打倒敦煌(1件) 張議潮の帰義軍プランバナン(1件) プランバナンの造営開封(1件) 後周世宗の廃仏比叡山横川(1件) 源信『往生要集』バガン(1件) パガン朝の成立平等院(1件) 平等院鳳凰堂漳州(1件) 朱子学の成立博多(1件) 栄西と臨済宗東大寺(1件) 東大寺の再建永平寺(1件) 道元の永平寺鎌倉(1件) 『立正安国論』吉崎(1件) 蓮如の吉崎御坊加賀(金沢御堂)(1件) 加賀の一向一揆奈良(1件) 村田珠光と侘び茶龍安寺(1件) 龍安寺の石庭熊野(1件) 熊野比丘尼の絵解き大坂(1件) 石山合戦シカゴ(1件) 万国宗教会議

できごと80件が起きた56か所。 同じ場所で何度も起きていれば、その数だけ大きくなります。国境はAD1930の版図(この枠に大きく入る24勢力)。 物語は何百年にもまたがるので、最後のできごとの年で描いています。人物・国と、場所の分かっていないできごと37件は出ていません。押すと、この物語だけに絞った地図が開きます。

筋(117)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. ヴェーダの成立できごとBC1500年仏教が出てくる前の、その土台口誦で伝えられた讃歌が、後のヒンドゥー教の根になる。カーストの原型もこの時期に現れる。ハラッパー
  2. ウパニシャッドの成立できごとBC8〜BC5世紀仏教はこの枠組みに反論する形で出てくる祭式の手順を伝えるヴェーダから、「私とは何か」を問う思索が枝分かれした。輪廻と解脱という枠組みができ、仏教もジャイナ教もここを土台に反論する形で出てくる。ガンジス川中上流域(位置は特定されていない)
  3. マハーヴィーラ人物BC599年頃 – BC527年頃釈迦とほぼ同時代、同じガンジス流域釈迦とほぼ同時代の王族が、30歳で出家して12年苦行した。あらゆる生き物を傷つけないことを徹底する教えを説く。ジャイナ教の第24代の祖師とされる。
  4. 釈迦の悟りできごとBC528年頃(年代に諸説あり)年代は南伝と北伝で1世紀近く違う菩提樹の下で苦の原因と、そこから離れる道に到った。年代は南伝と北伝で1世紀近く違う。ブッダガヤ
  5. マハーヴィーラの入滅できごとBC468年頃ブッダとほぼ同時代クシャトリヤの家に生まれ、30歳で出家し、12年、裸で歩いて苦行した。「ジナ(勝者)」。教え。全ての生き物に霊魂がある。だから殺さない(アヒンサー)。水を漉し、夜は食べず、道を掃きながら歩き、口を布で覆う。世界は誰かが作ったのではなく、はじめから在る。真理は一つの立場からは言えない(アネーカーンタヴァーダ)。ブッダとほぼ同時代で、二人は会っていない。ジャイナ教は、いまもインドに450万人。パーヴァー
  6. ゴータマ・シッダールタ人物BC463年頃(BC566年説もある) – BC383年頃(BC486年説もある)苦の原因と、そこから離れる道を説いた。生没年は南伝と北伝で1世紀近く食い違う。
  7. マウリヤ朝国BC322年 – BC185年インド亜大陸をほぼ統一した最初の帝国。アショーカ王は征服の惨禍を悔いて仏教に帰依し、碑文を各地に建てた。
  8. マウリヤ朝の成立できごとBC322年チャンドラグプタがナンダ朝を倒し、インド亜大陸初の広域帝国が生まれた。アレクサンドロスの死の翌年にあたる。パータリプトラ
  9. アショーカ王人物BC304年頃 – BC232年カリンガ征服の惨禍を悔いて仏教に帰依し、法(ダルマ)による統治を掲げて碑文を各地に建てた。
  10. カリンガ戦争とアショーカの改宗できごとBC261年大量の死を出したことが改宗の契機になる十万を超える死者を出した征服の惨禍を悔い、アショーカ王は仏教に帰依して法による統治へ転じた。カリンガ(位置は特定されていない)
  11. アショーカ王の碑文できごとBC260年頃一人の思想が国家の後ろ盾を得た法(ダルマ)による統治を石柱と岩に刻ませた。インド最古級の文字記録でもある。サーンチー
  12. アジャンター石窟の壁画できごとBC200年岩を掘り抜いた寺院に仏教絵画が残る。この様式が中央アジアを経て中国・日本へ伝わる。アジャンター
  13. ミリンダ王の問いできごとBC150年頃車は名前だけインド・グリーク朝の王メナンドロスが、僧ナーガセーナに問うた。「自我はあるか」。「車は、輪か、軸か、車体か。どれでもない。名前だけ」。ギリシアの王とインドの僧の対話。パーリ語で残った。プルタルコスは王の遺骨を都市が分け合ったと書いた。サーガラ(シアールコート)
  14. メナンドロス1世人物? – BC130年頃救済者王サーガラ(シアールコート)の王。パンジャーブからガンジスの中流まで。硬貨は「救済者王メナンドロス」、ギリシア語とカローシュティー文字。仏教に帰依したとパーリ語の本は言う。ミリンダ。「彼の遺骨を都市が分け合った」とプルタルコス。仏舎利のように。
  15. 仏教が中国へできごとAD1世紀白い馬に経典を載せて後漢の明帝は、夢に金色に輝く人を見て、西方の仏という神だと教えられ、使いを西域へ送った。使いは白い馬に経典を載せた僧を連れて帰り、洛陽に白馬寺が建てられた、と伝えられる。実際には、シルクロードを行き来する商人たちとともに、仏教は少しずつ入ってきていた。インドの言葉の経典を漢字に移すには、道教の言葉を借りるほかなかった。数百年かけて中国の仏教が形づくられ、それが朝鮮半島を経て日本へ渡ることになる。洛陽
  16. ガンダーラの仏像できごとAD1世紀仏を人の姿で刻むことがここで始まった仏を人の姿で刻むことが、ここで始まった。衣の襞と巻き毛はギリシア彫刻の系統になる。アレクサンドロスの遠征から300年後に、その様式が仏の顔になった。ガンダーラ(位置は特定されていない)
  17. クシャーナ朝の隆盛できごとAD127年頃ガンダーラの仏像が東へ広がる中央アジアと北インドを結び、東西の交易と仏教の伝播を担った。ガンダーラの仏像が広がる。タキシラ
  18. カニシカ王人物在位 AD127年頃(即位年には78年説・144年説もある) – AD150年頃中央アジアと北インドを結び、仏教を保護した。ガンダーラの仏像はこの頃に広がる。
  19. ナーガールジュナ人物AD150年頃 – AD250年頃「空」の論理を組み立て、大乗仏教の方向を決めた。東アジアの仏教の諸宗派が、そろって彼を祖と数える。
  20. ナーガールジュナの中論できごとAD200年頃大乗の方向を決めたものごとにはそれ自体で成り立つ本質が無い、という「空」の論理を組み立てた。相手の主張をその論理で崩す方法を使い、大乗仏教の方向を決めた。ナーガールジュナコンダ(南インド)(位置は特定されていない)
  21. グプタ朝国AD320年(チャンドラグプタ1世の即位) – AD550年頃サンスクリット文学と数学の古典期。ゼロを含む記数法、カーリダーサの戯曲、アジャンターの壁画がこの時代になる。フン系の侵入で崩れた。
  22. 鳩摩羅什人物AD344年 – AD413年泥の中の蓮を取れインド人の父と亀茲の王女の母。7歳で出家し、涼州に17年抑留され、57歳で長安に迎えられた。300巻を訳した。王に女を与えられて破戒し、「泥の中の蓮を取れ、泥は取るな」と弟子に言った。舌だけが焼けずに残ったと伝わる。
  23. 高句麗への仏教伝来できごとAD372年半島に仏教が入った前秦の苻堅が僧の順道と仏像と経典を送った。半島に仏教が公式に入った最初で、12年後に百済にも東晋から入る。日本に渡るのはそこから150年後になる。国内城
  24. 法顕の求法の旅できごと399年玄奘の200年前に、同じ道を歩いた人がいる60歳を過ぎて長安を発ち、砂漠を越えてインドへ行き、海路スリランカ経由で帰った。玄奘の200年前。パータリプトラ
  25. ソグド商人のネットワークできごと400年経典を運んだのは商人だったサマルカンドを中心に、中国から黒海まで隊商の網を張った人びと。ソグド語が絹の道の共通語になり、仏教もマニ教もこの商人たちに運ばれた。サマルカンド
  26. 鳩摩羅什の長安入りできごとAD401年日本の経文のほとんどがこの人の漢語亀茲の僧が17年の抑留ののち長安に迎えられ、3000人の弟子とともに経典を訳した。『法華経』『阿弥陀経』『金剛経』『維摩経』。いま日本で読まれる経文のほとんどが、この人の漢語になる。長安
  27. ナーランダー僧院の創建できごとAD5世紀前半数千人が学ぶ、記録に残る最古級の大学になる。中国、朝鮮、チベット、スリランカから留学生が来た。玄奘も5年ここで学んでいる。ナーランダー
  28. 太武帝の廃仏できごとAD446年僧を殺し経を焼いた道教を国教にした北魏の皇帝が、寺に武器が隠されていたのを口実に、僧を殺し寺を壊し経を焼いた。中国の三武一宗の廃仏の最初。6年後に皇帝が殺され、仏教は戻って、雲岡を掘り始める。平城
  29. カーリダーサ人物AD4〜6世紀のどこか(確定していない) – ?サンスクリット文学の頂点とされる詩人・劇作家。生きた年代すら4世紀から6世紀のどこか、としか言えない。
  30. 雲岡石窟の造営できごとAD460年皇帝の顔をした大仏廃仏のあと仏教を戻した北魏が、都の西の崖に石窟を掘った。最初の五窟の大仏は、五人の皇帝の顔で作られたと伝わる。ガンダーラの顔をした仏が、鮮卑の都に並んだ。雲岡
  31. ヴァーラーナシーの火葬できごとAD500年頃体は器であって残すものではないガンジス河畔のこの町で死ねば輪廻から解脱できる、という信仰がある。マニカルニカー・ガートでは、薪の火が数百年、絶えたことがないとされる。遺体は布に包まれて川で清められ、薪の上で焼かれ、灰は川へ流される。墓は作らない。体は器であって、残すものではないという考え方である。焼く薪の量は一体に300キロ前後で、貧しい者には払えない。焼き切れなかった体が川へ流されることが、いまも問題になっている。ヴァーラーナシー
  32. 達磨の渡来(伝承)できごとAD520年頃(伝承)面壁九年南インドの王子が海から広州に来て、梁の武帝に「あなたの功徳は無い」と言い、葦の葉で長江を渡り、嵩山の洞窟で9年壁に向かった。慧可が腕を切って弟子になった。禅の初祖。『洛陽伽藍記』に西域の僧「菩提達磨」が一行だけ出る。他は全部伝説。少林寺
  33. 梁の武帝の捨身できごとAD527年捨身皇帝が同泰寺に入って自分を寺に施し、群臣が一億銭で買い戻した。四度。肉を断ち、一日一食、48年在位して「皇帝菩薩」。侯景の乱で台城に囲まれ、86歳で「自分で得て自分で失った」と言って餓死した。南京
  34. 仏教の日本伝来できごとAD538年(552年説もある)釈迦の死からおよそ1000年後百済から仏像と経典が伝わった。受け入れるかどうかで豪族が割れ、国の形をめぐる争いになる。飛鳥
  35. 真臘の興りできごとAD550年頃扶南に代わって内陸の勢力が伸びた。のちのアンコールにつながる。アンコール
  36. 聖徳太子人物AD574年 – AD622年冠位十二階と十七条憲法を定め、隋へ使者を送った。仏教を国づくりの柱に据える。
  37. 北周の廃仏できごとAD574年300万の僧を還俗させた武帝が仏教と道教を同時に廃し、300万の僧を還俗させ、4万の寺を貴族に与えた。「私は五胡ではない、地獄など恐れない」と言った。4年後に死に、次の隋がすべてを戻す。長安
  38. 蘇我氏と物部氏の戦いできごとAD587年受け入れるかどうかで豪族が割れた仏教を受け入れるかどうかで二つの豪族が争い、蘇我氏が勝った。厩戸皇子が加わっていたと『日本書紀』は書く。以後、蘇我氏の下で仏教と大陸の制度が入ってくる。平城京
  39. バーミヤンの大仏できごとAD600年頃玄奘が見た金色ヒンドゥークシュの谷の砂岩の崖に、高さ55メートルと38メートルの立像が彫られた。表面は泥と漆喰で成形され、顔と手は木の骨組みで作られ、金と朱で彩色されていた。玄奘が630年に見て「金色に輝き、宝飾が煌めく」と書いた。シルクロードの交易と、ギリシアとインドとイランの様式が混ざった場所。2001年3月、タリバンが爆薬で破壊した。空の窪みが残っている。バーミヤン
  40. 玄奘人物AD602年頃 – AD664年国禁を犯してインドへ渡り、17年かけて経典を持ち帰った。『西遊記』の三蔵法師の元。
  41. 憲法十七条できごとAD604年(推古12年)4月仏教が国づくりの柱になる「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」。「篤く三宝を敬へ」。「詔を承りては必ず謹め」。役人の心得。儒教と仏教と法家。憲法という名だが、憲法ではない。『日本書紀』が全文を載せ、後世の作という説が江戸時代から消えない。飛鳥
  42. ソンツェン・ガンポ人物AD605年頃 – AD649年妃が仏教を持ち込んだと伝承は語る高原の諸部族を一つにし、唐とネパールから妃を迎えた。チベット文字はこの王の命で作られたと伝わる。
  43. ハルシャ王の北インド統一できごとAD606年グプタ朝の崩壊後、北インドを一時的にまとめた。玄奘が訪れて、その宮廷と大規模な施しの会を記録している。死後、統一はまた崩れる。カナウジ
  44. 元暁人物AD617年 – AD686年和諍押梁の人。髑髏の水。還俗。瑤石宮の王女と息子薛聡。「無碍」の歌を瓢箪で。80余りの著作。『金剛三昧経論』は中国で『論』の名を許された。日本の華厳と浄土に影響した。「和諍」、争いを和する。韓国で最も大きな僧。
  45. 吐蕃国AD618年頃(ソンツェン・ガンポの即位) – AD842年(ラン・ダルマの死と分裂)仏教を国の宗教にし、チベット文字を作ったソンツェン・ガンポが高原をまとめ、唐と婚姻し、唐と戦った。763年には一時長安を占領している。仏教を国の宗教にし、チベット文字を作った。
  46. 玄奘の西域行できごと629年今度は中国からインドへ経典を取りに行く国禁を犯して出発し、17年かけて経典657部を持ち帰った。旅の記録は当時の中央アジアとインドの一級史料になる。ナーランダー
  47. 吐蕃の高原統一できごとAD630年頃諸部族を一つにし、都をラサに置いた。唐とネパールから妃を迎え、チベット文字を作らせた。以後200年、唐と対等に戦う国になる。ラサ
  48. 義浄人物AD635年 – AD713年玄奘の陸路に対して海路で行った玄奘の陸路に対して、海路でインドへ行き帰りした。往復でシュリーヴィジャヤに滞在し、そこで見た仏教の様子と、海の道の僧たちの記録を残した。
  49. 文成公主の入蔵できごとAD641年チベットへ経典ソンツェン・ガンポが唐に妃を求め、断られ、吐谷渾を攻め、また求めて、太宗が宗室の娘を送った。仏像、経典、絹、種、暦、医書。ラサに寺を建てた。ジョカン寺。チベットは、この妃で、唐の文化と仏教を受け取ったと語る。統一チベットの始まりの物語。ラサ
  50. シュリーヴィジャヤ国AD7世紀半ば – AD13世紀後半(衰退と消滅には諸説ある)義浄がここでサンスクリットを学んだマラッカ海峡を握った港市国家。インドと中国を結ぶ船から通行料を取り、大乗仏教の学問の中心でもあった。義浄がここでサンスクリットを学んでいる。
  51. 元暁の悟りできごとAD661年髑髏の水唐へ向かう途中、暗い所で甘い水を飲んだ。朝、髑髏の水だった。「心が生じれば法が生じる」。唐へ行くのをやめた。還俗して王女と結婚し、瓢箪を叩いて市で歌った。『大乗起信論疏』。仏教を民衆の言葉にした。息子は薛聡。慶州
  52. 行基人物AD668年 – AD749年橋と池と布施屋河内の渡来系の家に生まれ、僧の外出を禁じる法を破って民に説き、橋と池と布施屋を作った。朝廷は「小僧行基」と咎め、それから大仏の勧進に使った。日本で最初の大僧正。民は菩薩と呼んだ。
  53. 義浄のシュリーヴィジャヤ滞在できごとAD671年唐の僧が海路でインドへ向かい、途中の港でサンスクリットを学んだ。海峡の国に千人の僧がいた、とその記録が伝える。パレンバン
  54. 南詔と大理国AD738年(南詔の統一) – AD1253年(モンゴルによる大理の征服)仏教の王が何人も出家した雲南の高原に、唐とも吐蕃とも違う国があった。南詔は唐の軍を二度全滅させ、大理は仏教の王が何人も出家した。モンゴルがここを取ってから、雲南は中国になる。
  55. 国分寺建立の詔できごとAD741年仏の力で国を守る天然痘の大流行で朝廷の有力者が次々に死に、反乱も起き、飢饉が続いた。聖武天皇は、仏の力で国を守ろうと考えた。741年、国ごとに僧寺と尼寺を建て、経典を置いて国の平安を祈らせる詔を出す。都から遠く離れた土地にも、七重の塔が立ち並ぶことになった。各地の寺は、仏教を広めると同時に、都の権威を地方に見せつける建物でもあった。いまも各地の地名に国分寺の名が残っている。平城京
  56. 仏国寺と石窟庵できごとAD751年前世の父母のために統一新羅の宰相金大城が、現世の父母のために仏国寺を、前世の父母のために石窟庵を建てた、と『三国遺事』。多宝塔と釈迦塔。石窟庵の花崗岩の仏は東の海を向く。仏国寺は1593年に日本軍が焼き、木造部分は1970年代の復元。1995年、世界遺産。仏国寺
  57. 大仏開眼できごとAD752年一枝の草、一握りの土国分寺の総本山として、都の東大寺に巨大な盧舎那仏を造ることになった。聖武天皇は、一枝の草、一握りの土を持ち寄ってでも力を貸したい人は加わってよい、と呼びかける。朝廷に弾圧されていた僧の行基が、民衆を率いて協力した。銅四百トン以上を使い、延べで二百六十万人が関わったとされる。752年、インドから来た僧が筆で仏の目を描き入れる開眼の儀式を行い、一万人の僧が集まった。国の財政は大きく傾いた。平城京
  58. 鑑真の来日できごとAD753年五度の渡海に失敗し、失明してから六度目で着いた。僧が正式に僧になる手続きが、これで日本に整う。唐招提寺を開いた。平城京
  59. 藤原仲麻呂の乱できごとAD764年(天平宝字8年)道鏡が法王に光明皇后の甥で、淳仁天皇を立てて「恵美押勝」を名乗った男が、皇后の死で力を失い、孝謙上皇と道鏡に追い詰められて近江で挙兵し、琵琶湖の岸で捕えられて斬られた。淳仁は淡路に流されて翌年死んだ。上皇が重祚して、道鏡が法王になった。平城京
  60. 空海人物AD774年 – AD835年恵果が3か月で全部を伝えた唐で密教を二年で受け継ぎ、高野山に真言宗を開いた。書と土木と辞書編纂にも名を残す。いまも入定していることになっている。
  61. 円仁人物AD794年 – AD864年最澄の弟子。最後の遣唐使で渡って9年半留まり、日記『入唐求法巡礼行記』を残した。帰って天台の座主になる。
  62. ボロブドゥールの造営できごとAD800年頃世界最大級の仏教遺跡。インドから海を渡った信仰が、ジャワで独自の形になった。ボロブドゥール
  63. シャンカラの不二一元論できごとAD800年頃仮面の仏教徒南インドのケーララに生まれ、32歳で死ぬまでに、インド中を歩いて論争し、四方に僧院を建てた。「ブラフマンのみが実在で、世界は幻(マーヤー)であり、個我はブラフマンに他ならない」。梵我一如。『ブラフマ・スートラ』の注釈。仏教を論駁しながら、その論理を吸収したので、後の人に「仮面の仏教徒」とも呼ばれた。ヒンドゥー教が仏教を押し戻し、インドの主流に戻る転換点にいた。シュリンゲリ
  64. 最澄と空海の入唐できごとAD804年同じ船団で渡り、別のものを持ち帰った。最澄は天台、空海は密教。以後の日本の仏教は、ほとんどこの二人の系統から分かれる。長安
  65. 空海の高野山開創できごとAD816年(弘仁7年)即身成仏804年、無名の私度僧として遣唐使船に乗り、長安の青龍寺で恵果に会った。恵果は「私は長くこの日を待った」と言い、3か月で密教の全部を伝えて、その年に死んだ。806年帰国。816年、嵯峨天皇から高野山を賜った。曼荼羅、真言、灌頂、即身成仏。彼は書の名手で、辞典を作り、日本最初の庶民の学校を開き、満濃池を修築した。835年、入定。いまも生きているとして、毎日、食事が運ばれている。高野山
  66. 韓愈「論仏骨表」できごとAD819年儒教の側からの批判法門寺の仏舎利が30年ぶりに宮中に迎えられ、街が熱狂した。韓愈は「仏は夷狄の人、その骨は汚れたもの」と上表した。皇帝は怒って殺そうとし、潮州に流した。儒教の側からの仏教批判の、代表になる。長安
  67. 円仁の入唐求法できごとAD838年外国人が書いた唐の一級の記録最後の遣唐使で渡り、9年半唐に留まった。日記に山と寺と役所と物価を書き、会昌の廃仏を目撃した。当時の唐を知る一級の記録になる。長安
  68. キルギスのウイグル打倒できごとAD840年農耕と仏教の民に内紛と飢饉と雪で弱ったウイグル可汗国を、エニセイのキルギスが襲い、可汗を殺し、オルドバリクを焼いた。100年の可汗国が消えた。ウイグルは西へ逃げて、天山と河西に落ち着き、農耕と仏教とマニ教の民になった。唐は北の敵を失い、843年にはマニ教を禁じた。オルホン渓谷(位置は特定されていない)
  69. 会昌の廃仏できごとAD845年三武一宗の法難のうち最大道教を信じる皇帝が寺4600を壊し、僧尼26万人を還俗させた。教団の富が国庫に入る。中国の仏教は、以後この打撃から完全には戻らない。長安
  70. 張議潮の帰義軍できごとAD848年莫高窟の出行図吐蕃が敦煌を取って60年。吐蕃が内乱で割れると、敦煌の豪族張議潮が立ち、沙州を取り、河西11州を唐に返した。帰義軍。莫高窟に彼の出行図がある。唐が滅んでも、宋が来ても、敦煌は190年近く、この軍の土地だった。11世紀に西夏が来た。敦煌
  71. プランバナンの造営できごとAD856年頃同じジャワにヒンドゥーの大伽藍が並ぶボロブドゥールから数十年で、今度はヒンドゥーの大伽藍が同じジャワに建った。二つの信仰が並んでいる。プランバナン
  72. 空也人物AD903年 – AD972年市聖出自は分からない。醍醐天皇の子とも。市で念仏を唱え、道と橋と井戸を作り、死体を葬った。「市聖」。「阿弥陀聖」。鹿の角の杖、金鼓、鉦。六波羅蜜寺。口から六体の阿弥陀が出ている像は、彼の念仏の姿。念仏を、寺から市へ出した。
  73. 源信人物AD942年 – AD1017年7月6日恵心僧都大和の生まれ。9歳で比叡山。母に「名利を求めるな」と叱られ、横川に籠もった。恵心僧都。『往生要集』。二十五三昧会。『一乗要決』。源氏物語の横川の僧都は彼がモデル。法然が「善導と源信」を師と仰いだ。
  74. 後周世宗の廃仏できごとAD955年三武一宗の最後五代の最後の皇帝が、寺2694を残して3万あまりを廃し、銅の仏像を溶かして銭にした。「仏は身を捨てて人を救う。銅の像が惜しいはずがない」。三武一宗の最後。世宗は北へ南へ攻めて、39歳で急死した。7歳の子が残り、翌年、趙匡胤が。開封
  75. 源信『往生要集』できごとAD985年(寛和元年)厭離穢土、欣求浄土比叡山横川の僧が、経と論から極楽と地獄を集めた3巻。「厭離穢土、欣求浄土」。八大地獄。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間。念仏で極楽へ。宋に送られて「日本の小釈迦」と呼ばれた。地獄の絵は、この本から描かれた。比叡山横川
  76. アノーヤター人物AD1014年 – AD1077年上座部仏教をビルマの国教にしたビルマ最初の統一王朝を作り、上座部仏教を国の柱に据えた。平原に数千の仏塔が建つ時代がここから始まる。
  77. パガン朝の成立できごとAD1044年上座部仏教がビルマの柱になるアノーヤターがビルマを統一し、上座部仏教を国の柱にした。250年のあいだにイラワジ川の平原へ1万を超える仏塔が建てられる。バガン
  78. 末法の始まりできごとAD1052年(永承7年)教えだけ残って釈迦の死から2000年、正法1000年、像法1000年が終わり、末法1万年が始まると計算された。教えだけ残って行も証もない。この年、頼通が平等院を。源信の『往生要集』が読まれ、経を土に埋める経塚が各地に。法然、親鸞、日蓮、道元は末法の中で生まれた。京都
  79. 平等院鳳凰堂できごとAD1053年(天喜元年)極楽をこの世に末法の始まりの翌年、藤原頼通が宇治の別荘を寺にして、池の中島に阿弥陀堂を建てた。定朝の阿弥陀如来。寄木造。52体の雲中供養菩薩。天井の鏡。扉の来迎図。極楽をこの世に。10円玉に、鳳凰堂。1万円札に、鳳凰。平等院
  80. 定朝人物? – AD1057年寄木造康尚の子。法成寺の仏像で道長に用いられ、仏師で初めて法橋、法眼。寄木造。分業。「定朝様」。柔らかい顔、浅い衣の襞、丸い肩。平等院の阿弥陀如来が、唯一確かな作。それから運慶が現れるまでの百数十年、日本の仏像はみなこの顔。
  81. 重源人物AD1121年 – AD1206年南無阿弥陀仏を名乗った醍醐寺の僧。宋に三度渡ったと自分で言った。61歳で東大寺の大勧進。「南無阿弥陀仏」を名乗った。周防の杣、伊賀と播磨の別所、宋の技術、運慶と快慶。25年。86歳で死ぬまで。東大寺の俊乗堂の像は、皺と目の力で有名。
  82. ジャヤーヴァルマン7世人物AD1122年頃 – AD1218年頃民の病が王を苦しめるアンコール・トムを築いた王。仏教を篤く保護し、各地に病院を置いたと碑文に残る。
  83. 法然人物AD1133年 – AD1212年75歳で流された9歳で父を夜討ちに殺され、「敵を恨むな」と遺言された。比叡山で30年学び、43歳で山を下りて、念仏だけを説いた。弟子が女官を出家させた咎で75歳で四国に流された。親鸞はその弟子。
  84. 栄西人物AD1141年 – AD1215年日本の茶の始まり二度宋に渡り、臨済の禅を伝えた。旧仏教に阻まれて博多と鎌倉で寺を建て、京都に建仁寺を開いた。茶の種を持ち帰り、『喫茶養生記』を書いた。日本の茶は、この僧から始まったことになっている。
  85. 親鸞人物AD1173年5月21日 – AD1263年1月16日愚禿9歳で比叡山、29歳で下りて法然に。承元の法難で越後に流され、僧籍を奪われた。「愚禿」。恵信尼と結婚した。関東で20年。「他力」。「悪人正機」。息子善鸞を義絶した。90歳で死に、娘覚信尼が墓を守り、それが本願寺になった。
  86. 法然の専修念仏できごとAD1175年念仏だけで誰でも救われる比叡山を下りた僧が、念仏だけで誰でも救われると説いた。学問も戒律も財産もいらない。貴族の仏教が、庶民のものになる。旧仏教に訴えられ、75歳で流された。京都
  87. ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トムできごとAD1181年四面の顔チャンパにアンコールを焼かれた4年後、王が奪い返して仏教徒の王になった。城壁の都アンコール・トム。中央にバイヨン。四面の顔が200。病院102、宿駅121。「民の病は王の病」。クメールの最大版図で、最後の大王。アンコール
  88. 朱子学の成立できごとAD1190年仏教に対抗して形而上学を朱熹が四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を選び、注をつけて、五経より先に読む基本の書とした。理(世界の筋道)と気(材料)。「格物致知」——物に至って理を窮める。「性即理」。仏教と道教に対抗して、儒教に形而上学を与えた。生前は「偽学」として禁じられ、死後に正統になり、1313年から科挙の答案の基準になった。日本の江戸、朝鮮、ベトナムの官学。漳州
  89. 栄西と臨済宗できごとAD1191年禅と茶を持ち帰った二度宋に渡った僧が、臨済の禅と茶の種を持ち帰った。博多に最初の禅寺を建て、鎌倉に招かれた。『喫茶養生記』を書いて、二日酔いの将軍に茶を勧めた。博多
  90. 東大寺の再建できごとAD1195年(建久6年)勧進1180年に平重衡が焼いた大仏殿を、61歳の僧重源が勧進で建て直した。宋の技術「大仏様」。周防の山から木を切り出し、宋の鋳物師陳和卿が大仏を鋳た。落慶供養に頼朝が来た。南大門の仁王は運慶と快慶。東大寺
  91. 道元人物AD1200年1月26日 – AD1253年9月22日身心脱落内大臣の子と伝える。3歳で父、8歳で母を失った。比叡山で「本来仏なら、なぜ修行するのか」と問い、栄西の門を叩き、宋へ。天童山の如浄に「身心脱落」。帰って「只管打坐」。『正法眼蔵』。北条時頼に呼ばれて鎌倉に半年いて、寺の寄進を断って永平寺に帰った。
  92. 日蓮人物AD1222年3月30日 – AD1282年11月14日日本の柱安房の漁村の子。比叡山で学び、「法華経だけが正しい」と清澄山で唱えた。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊。伊豆と佐渡に流され、斬られかけた。「日本の柱とならん」。身延山。弟子は六人に分かれ、宗派は日本で最も多く分かれた。
  93. 親鸞『教行信証』できごとAD1224年頃非僧非俗流罪から帰った親鸞が、関東で20年、念仏の教えを書いた。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は弟子が『歎異抄』に記した言葉。自分で「非僧非俗」と言い、妻を持ち、寺を建てなかった。死後、娘と曾孫が本願寺を作った。京都
  94. 道元の永平寺できごとAD1244年只管打坐宋から帰った道元は「只管打坐」、ただ坐れ、と説いた。京で比叡山に嫌われ、越前の山に寺を建てた。「永平」は中国に仏教が来た年号。『正法眼蔵』95巻。「現成公案」。「有時」。時間と存在を書いた最初の日本語の哲学。永平寺
  95. 『立正安国論』できごとAD1260年(文応元年)他国侵逼日蓮が北条時頼に建白した。「法華経を捨てて念仏を信じるから、地震と飢饉と疫病が起きる。改めなければ、内乱と他国の侵略が来る」。念仏者に襲われ、伊豆に流され、龍ノ口で斬られかけ、佐渡へ。14年後、蒙古が来た。「私が言った通り」。鎌倉
  96. 夢窓疎石人物AD1275年 – AD1351年7度の国師号伊勢の出。9歳で出家し、初め天台と真言を学び、禅に転じた。各地の山中で修行し、名声が高まると、その都度、逃げるように移った。後醍醐天皇に招かれ、足利尊氏と直義に帰依された。天龍寺、西芳寺、瑞泉寺、恵林寺。庭を作り、詩を書き、『夢中問答集』で禅を平易に説いた。天龍寺船を明へ送って、造営の費用を作った。国師の号を7度、受けた。
  97. 夢窓疎石と禅の庭できごとAD1339年庭が修行の場に後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が建てた天龍寺の作庭を、夢窓疎石が手がけた。曹源池庭園。借景に嵐山を取り込み、水の中に石を組んで滝を表した。彼は西芳寺(苔寺)も作った。天龍寺船を元に送って、造営の費用を稼いだ。後醍醐、尊氏、直義の三人の帰依を、同時に受けた僧。庭が、修行の場になった。京都
  98. 五山の制できごとAD1386年禅が制度になった足利義満が、京都と鎌倉の禅寺に序列を定めた。南禅寺を五山の上に置き、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山とした。幕府が住持を任命し、寺は幕府の外交(明との勘合貿易の文書)と、財政(祠堂銭の金融)を担った。五山の僧が漢詩文を作り、宋学を読み、印刷し(五山版)、日本の学問の中心になった。禅が、政治の制度になった。京都
  99. 蓮如人物AD1415年4月13日 – AD1499年5月14日中興の祖本願寺8世。母は下女で、6歳で去った。43歳まで貧しく、紙を漉いて暮らした。継いだ本願寺は参詣者がいなかった。比叡山に焼かれ、吉崎、山科、石山。「御文」。5人の妻に27人の子。本願寺を日本最大の教団にした。「中興の祖」。
  100. 蓮如の吉崎御坊できごとAD1471年御文比叡山に本願寺を焼かれた蓮如が、越前と加賀の境の丘に坊を建てた。「御文」。平易な言葉の手紙で門徒を作った。「南無阿弥陀仏」の六字を自分で書いて配った。数年で北陸が門徒で埋まり、1488年、加賀の門徒が守護を殺して100年の「百姓の持ちたる国」。吉崎
  101. 加賀の一向一揆できごとAD1488年百姓の持ちたる国本願寺の門徒(一向宗)が、守護の富樫政親を高尾城に攻めて自害させた。以後、約90年、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。実際には、本願寺の坊主と、有力な門徒の土豪が合議で治めた。惣村の寄合と、講の組織が、そのまま政治の単位になった。1580年、織田信長に降伏するまで続いた。日本で唯一、宗教の共同体が一国を治めた例。加賀(金沢御堂)
  102. 村田珠光と侘び茶できごとAD1490年頃一休に参禅した奈良の称名寺の僧で、大徳寺の一休宗純に参禅した。それまでの茶は、唐物の名器を並べて競う書院の茶か、賭けをする闘茶だった。珠光は、四畳半の狭い座敷で、唐物の中に和物(信楽・備前の粗い焼物)を混ぜた。「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」。「月も雲間のなきは嫌にて候」。武野紹鴎、そして千利休へ。奈良
  103. ヴァーラーナシーのガートできごとAD1500年頃サールナートは10キロガンガーの左岸、川が北へ折れる場所。世界で最も古く人が住み続けている都市の一つとされる。84のガート(川へ降りる石段)。夜明けに人が沐浴し、洗濯し、祈る。マニカルニカー・ガートでは、火が絶えず燃えている。ここで焼かれ、灰を川に流されれば、輪廻から解脱できる、と信じられている。年に3万体。ブッダが最初の説法をしたサールナートは、ここから10キロ。ヴァーラーナシー
  104. 龍安寺の石庭できごとAD1500年頃木も水もない幅25メートル、奥行10メートルの白砂に、15の石を5つの群に置いた。木も水もない。どの位置から見ても、必ず1つは見えない。作者も、作られた年も、意図も、記録がない(石の裏に室町末期の庭師の名がある、と言われる)。江戸時代の書には「虎の子渡し」と読む説が載る。20世紀に、世界中の人がここへ来て、意味を探すようになった。龍安寺
  105. 顕如人物AD1543年2月20日 – AD1592年12月27日東西に割れた本願寺11世。12歳で継いだ。石山本願寺で信長と10年戦った。全国の門徒を動かし、毛利、武田、上杉、朝倉、浅井と組んだ。1580年、天皇の仲介で退去。長男教如は退去を拒んで信長と戦い続け、顕如は教如を勘当した。秀吉が京都に土地をくれて、本願寺。死後、教如が東本願寺を作って、東西に割れた。
  106. 熊野比丘尼の絵解きできごとAD16世紀字を使わずに、絵と声で教えを運んだ戦国の世、熊野の社寺は荒れた建物を直す金に困り、尼の姿をした女たちを諸国に送り出した。女たちは巻いた大きな絵を持ち歩き、村の辻や家の軒先で広げて語った。上のほうには、生まれた子が坂を登って老い、坂を下って死ぬまでの一生が描かれている。その下には地獄があり、血の池や、子を産まなかった女が落ちる地獄も描かれている。字の読めない女や子どもが、絵を指でたどりながら話を聞き、寄進をした。字を使わずに教えを運んだのは、紙の上の絵と、語る声だった。熊野(位置は特定されていない)
  107. 石山合戦できごとAD1570年(元亀元年)門徒が立った石山本願寺の顕如が信長に立った。10年。一向宗の門徒、雑賀の鉄砲、毛利の水軍、伊勢長島と越前の一揆。信長は長島で2万人を焼き殺し、越前で3〜4万を殺した。1576年、木津川口で毛利水軍に負け、1578年、鉄甲船6隻で勝った。1580年、正親町天皇の仲介で顕如が退去した。本願寺は焼け、その跡に秀吉が大坂城を建てた。大坂
  108. 『西遊記』できごとAD1592年玄奘の旅から玄奘の求法の旅が、900年かけて、講談と芝居の中で変わり、明代に100回の小説になった。孫悟空、猪八戒、沙悟浄、白馬。石から生まれた猿が天宮を暴れ、五行山に500年封じられ、経を取りに行く。妖怪81難。呉承恩の作とされるが、確証はない。仏教と道教と民間信仰と役所の風刺が混ざった、笑いの本。東アジアで最も広く読まれた物語の一つ。南京
  109. おみくじできごとAD17世紀迷ったときに、決断を外に預ける神仏の前でくじを引き、その答えで物事を決めることは古くから行われていた。いまの形のおみくじは、平安時代の天台僧・良源の名を冠した百枚の漢詩のくじに由来するとされ、江戸時代に天海が広めたと伝えられる。一枚ごとに大吉から凶までの判断と、五言の詩、その読み解きが刷られていた。寺社は参拝者に配って収入を得る。引いた紙を境内の木に結ぶ習わしも生まれた。迷ったときに決断を外に預ける仕組みは、いまも初詣の列を作っている。江戸
  110. 寺請制度できごとAD17世紀半ばキリシタンを見つけ出すため、幕府は、すべての人がどこかの寺の檀家になり、寺がその人はキリシタンではないと証明する仕組みを作った。寛文年間には全国の村で、毎年、家族ごとに宗派と寺を書き上げた帳面が作られる。結婚、奉公、旅にも寺の証文が要った。この帳面は、いまの戸籍の役目も果たした。寺は信仰の場であると同時に、住民を管理する役所の末端になった。葬式と墓を寺に任せる日本の習わしは、この仕組みに根を持つ。江戸
  111. 神仏分離と廃仏毀釈できごとAD1868年千年以上、日本では神と仏は混ざり合い、寺の中に神社があり、神社に僧がいた。1868年、明治の新政府は、天皇を中心とする国作りのため、神社から仏像や仏具を取り除き、神と仏を分けるよう命じる。これをきっかけに各地で、寺や仏像や経典を壊し、焼く動きが広がった。廃仏毀釈である。奈良の興福寺の五重塔が売りに出されたとも伝わる。多くの文化財が失われ、それを惜しんだ外国人が買い取っていった。京都
  112. 六曜が生き残るできごとAD1873年明治の改暦で太陽暦に切り替えたとき、政府は、吉凶を記した暦の注記を迷信として載せないよう求めた。ところが先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六曜は、民間で刷られる暦に残り続ける。戦後、一般のカレンダーや手帳に広く載るようになり、結婚式は大安に、葬式は友引を避けて、という習わしが全国に広まった。もとは中国から来た時刻の占いとされ、仏教とも関係が無い。禁じられた迷信が、禁じられた後にかえって広まった。東京
  113. アンベードカル人物AD1891年4月14日 – AD1956年12月6日数十万人とともに仏教へ改宗した不可触民として生まれ、憲法起草委員長になった。カースト制度そのものの否定を主張し、ガンディーと対立する。
  114. 万国宗教会議できごとAD1893年9月11日禅が西洋へ1893年、コロンブスの到達400年を祝うシカゴの万国博覧会に合わせて、世界の宗教の代表を集める会議が開かれた。キリスト教とユダヤ教だけでなく、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、イスラム、神道などの代表が、同じ壇上で自分たちの教えを語った。インドの若い僧ヴィヴェーカーナンダは「アメリカの姉妹、兄弟たちよ」と呼びかけて喝采を浴び、一躍名を知られた。日本からは臨済宗の釈宗演ら仏教の僧が加わった。釈宗演の縁で、のちに鈴木大拙が禅を西洋に紹介していく。東洋の宗教が、西洋の人々の前に、対等な教えとして現れた場だった。シカゴ
  115. 除夜の鐘を中継するできごとAD1927年古い習わしに見える年越しは、放送が作った大晦日の夜に寺が百八つの鐘を撞く習わしは、もとは禅宗の寺などに限られていたとされる。1927年、東京のラジオ局が寛永寺の除夜の鐘を中継した。全国の家庭で同じ鐘の音を聞く年越しが生まれ、各地の寺もならって撞くようになる。多くの人がいまも古くからの習わしだと思っている年越しの形は、放送が作った面がある。近年は、夜中の鐘がうるさいという苦情で、昼に撞いたりやめたりする寺も出ている。東京
  116. 創価学会の始まりできごとAD1930年11月18日弾圧された宗教が、戦後に大きくなった小学校の校長だった牧口常三郎は、日蓮の仏教の教えに基づく教育の研究会を、1930年11月18日に作った。戦時中、国家神道の神札を祀ることを拒み、不敬の罪で捕らえられ、1944年に獄中で死ぬ。戦後、弟子の戸田城聖が会を立て直し、都市に出てきた人びとの間で急速に信者を増やした。のちに政党を作り、政治にも深く関わるようになる。戦後の日本で最も大きな新しい宗教の一つになった。東京
  117. 菩提達磨人物不立文字禅の初祖。南インドの王子、あるいはペルシア人。「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」。武帝との問答、葦の葉、面壁九年、慧可の断臂、片方の履を持って西へ帰った。すべて後の禅宗が作った。『洛陽伽藍記』の「西域の沙門菩提達磨、150歳」が唯一の同時代の記録。日本のだるまは彼。

重なっているストーリー

同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。

考えることの歴史17件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。日本の古代16件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。表現の歴史14件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。中国の王朝12件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。武士の700年8件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。草原の帝国7件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。誰が書き残したか7件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。コテンラジオで聞く歴史7件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史7件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教7件を共有 / 源平の争乱で焼けた寺の再建と、新しい仏教の広がり。12世紀の終わりから14世紀の初めにかけての、武士と民衆が担い手になった文化。朝鮮半島5件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。都市の歴史5件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。交易路とお金5件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。『サピエンス全史』で読む歴史5件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。探検と発見3件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。技術と産業3件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。帝国と独立3件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。教育の歴史3件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。近代と宗教3件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史3件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。国風文化 — かなと宮廷の女たち3件を共有 / 唐の文化をまねる時代のあとに、かな文字と宮廷の女性たちが、日本の言葉で書く文学を生んだ。10世紀から11世紀の、平安の宮廷の文化。明治2件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。民族移動の時代2件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀2件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。戦争と平和の歴史2件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。アレクサンドロスの東方遠征1件を共有 / 20歳で王になった男が、11年でギリシアからインダス川まで到達した。そして32歳で死ぬ。二つの大戦1件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。イスラム世界1件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。主権はだれのものか1件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。確かめるという方法1件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『交易の世界史』で読む物の流れ1件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。差別の歴史1件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
この物語だけに絞って、地図と年表で追う国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →