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Event / できごと

第1回ウィンブルドン選手権

The Championships, Wimbledon
AD1877年7月9日
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1877年7月9日の版図を描いています(23勢力)。

概要

ロンドンの郊外ウィンブルドンのクロッケーの倶楽部は、新しく流行し始めた芝生の上のテニスを取り入れ、1877年7月、初めての選手権を開いた。参加したのは22人の男たちで、決勝はわずか二百人ほどの観客の前で行われ、スペンサー・ゴアが勝った。この大会のために、コートの広さやネットの高さ、得点の数え方などの決まりが定められ、それがいまのテニスの決まりのもとになった。1884年には女子の部も始まった。上流の人々の庭の遊びは、世界で最も伝統のある大会の一つに育った。1968年からは、プロの選手も出場できるようになった。

場所

ウィンブルドン
51.43°N -0.21°E · イギリス・ロンドン南西部

本文

テニスの起源は、中世のフランスの修道院や宮廷で行われた、手のひらで球を打ち合う遊びにさかのぼる。のちにラケットが使われるようになり、壁に囲まれた室内のコートで行われる「リアル・テニス」は、王侯貴族の遊びになった。イングランドのヘンリー8世も、この遊びに熱中した。

19世紀の半ば、ゴムの球が作られるようになると、芝生の上で弾む球を打ち合う遊びが工夫された。1874年、イギリスの軍人ウォルター・ウィングフィールドは、芝生の上のテニスの道具と決まりを一式にして売り出した。この遊びは、上流と中流の家庭の庭で、男女が一緒に楽しめる遊びとして大流行した。

ロンドンの南西の郊外ウィンブルドンにあった全英クロッケー倶楽部は、クロッケーの人気が落ちたため、1875年、芝生のテニスのコートを設けた。1877年、倶楽部は、壊れた芝生を引く道具を買う資金を集めるため、芝生のテニスの選手権を開くことにした。この大会のために、委員会は、コートを長方形にし、その大きさを決め、ネットの高さを定め、得点を「15、30、40」と数える方法を採り入れた。これらの決まりの多くは、いまも使われている。

1877年7月9日、選手権が始まった。参加したのは22人の男たちで、入場料を払った観客はわずかだった。決勝は雨で延びて7月19日に行われ、二百人ほどの観客の前で、上流の学校出身の27歳の青年スペンサー・ゴアが勝った。ゴア自身は、この遊びは退屈で長くは流行らないだろうと語ったという。

大会は毎年開かれるようになり、1884年には女子の部と男子のダブルスが始まった。倶楽部は名を全英ローンテニス・クロッケー倶楽部と改めた。長いあいだ、出場できるのは賞金を受け取らないアマチュアだけだったが、1968年、プロの選手にも門戸が開かれ、「オープン化」の時代が始まった。白い服の決まり、芝生のコート、苺とクリームといった伝統を守りながら、ウィンブルドンは世界の四大大会の中で最も古い大会であり続けている。

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