『繁栄』で読む歴史

概要
人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。
この物語について
人類は、なぜこれほど豊かになったのか。そして、この先も豊かになり続けられるのか。『繁栄』(マット・リドレー、2010年、日本語版2010年)は、前の問いには「交換」、あとの問いには「なれる」と答えた本である。原題は「合理的な楽観主義者」で、悲観は理屈に合わない、という主張が題に込められている。
著者はイギリスの科学ジャーナリストで、進化や遺伝子についての一般向けの本で知られていた。動物学を学んだ経歴をもち、人の文化を生物の進化と同じように、変化が積み重なっていく過程として見る。
本の出発点は、交換である。人は、物を交換する唯一の動物だ、と著者は言う。チンパンジーは道具を使い、食べ物を分けることもあるが、自分の持っている物と相手の持っている物を取り替えることはしない。交換が始まると、人はそれぞれ得意なことに専念できるようになる。分業である。分業が進むと、一人ひとりの技が磨かれ、新しい工夫が生まれやすくなる。そして交換のなかで、違う場所で生まれたアイデアどうしが出会い、組み合わさって、新しいアイデアを生む。著者はこれを、アイデアどうしが交配して子を作る、と表現した。
本は、交換の始まりを、人類の歴史のかなり早い時期に置く。認知革命のころ、アフリカの遺跡では、遠くから運ばれてきた石の材料が見つかるようになる。本は、それを遠くの集団との交換の証拠と見る。同じころのネアンデルタール人の道具の材料は、ほとんどが住まいの近くで手に入るものだった、と本は対比する。体も脳も大きかったネアンデルタール人が姿を消し、サピエンスが残った理由の一つを、本は交換の有無に求めている。人が海を越えてオーストラリアへ渡ったサフルへの渡海も、交換し、協力する動物だからこそできたことの一つとして出てくる。
交換の範囲が広がるたびに、暮らしは良くなった、と本は言う。農耕の始まりのあと、農民は食べ物を作り、それを道具や布と交換した。メソポタミアに生まれた都市は、交換の場所だった。フェニキアの商人たちが使った文字は、のちのアルファベットの成立の元になった。紀元前7世紀ごろのリュディアでは、重さと品質を王が保証した硬貨が作られ、取引をさらに容易にした。リュディアの鋳造貨幣である。
逆に、交換が閉じると、社会は停滞する。本はその例を何度も挙げる。孤立した島タスマニアでは、本土との交流が絶えたあと、技術がむしろ失われていった。西ローマ帝国が崩れると、地中海を結んでいた交易が細り、西ヨーロッパの暮らしは何百年も後退した。15世紀の明は、大艦隊の航海をやめ、海外との交易を禁じた。鄭和の南海遠征を打ち切った中国を、本は閉じた側の例として書く。
ヨーロッパでは、14世紀の黒死病が人口を大きく減らしたあと、生き残った人びとの賃金が上がり、暮らしがむしろ良くなった時期があった。15世紀のグーテンベルクの活版印刷は、アイデアが交配する速さを一気に上げた。17世紀のオランダの黄金時代のオランダは、海運と金融で世界の交易の中心になり、比較的開かれた社会のなかで商業と学問が栄えた。本はこれを、交換に開かれた社会の典型として書く。

18世紀には、人類の暮らしを根本から変える転換が来る。化石燃料である。それまで、人が使えるエネルギーは、自分の筋肉と家畜と、水車と風車と薪に限られていた。1712年のニューコメンの蒸気機関、そしてジェームズ・ワットの改良した蒸気機関は、地下に眠っていた何億年ぶんの太陽のエネルギーを、人の仕事に変えはじめた。本は、石炭が奴隷の代わりに働きはじめた、と書く。一人の人間が、何十人、何百人ぶんの力を使えるようになったからこそ、奴隷の労働に頼る必要が薄れた、という見方である。1833年のイギリスの奴隷制廃止法を、本はこの流れの中に置く。1825年に始まった鉄道は、人と物の移動を何倍も速くした。
食べ物の限界も、何度も越えられた。1798年、トマス・マルサスは『人口論』で、人口は放っておけば倍々に増えるのに、食料は少しずつしか増えないので、人類はいずれ飢えと戦争と病で数を減らすしかない、と論じた。本は、この予言が外れたことを繰り返し強調する。19世紀の後半から、豊かになった国ほど一家の子どもの数が減るという、マルサスの予想しなかった変化が起き、それは今では世界の多くの地域に広がっている。本はこれも楽観の根拠に数える。20世紀の初め、フリッツ・ハーバーとボッシュは、空気中の窒素からアンモニアを作る方法を工業にした。化学肥料が大量に作られるようになり、土地の限界が外された。ハーバー・ボッシュ法である。20世紀の半ばには、ノーマン・ボーローグらが病気に強く収量の多い小麦を育て、メキシコやインドや南アジアの飢えを救った。緑の革命である。1980年には、人類は天然痘を根絶した。

本の後半は、悲観への反論に充てられる。人類はいつも、もうすぐ破局が来る、と言われてきた。人口の爆発、石油の枯渇、酸性雨で森が全部枯れる、新しい病が文明を滅ぼす、2000年問題でコンピュータが止まる。そのたびに、予言は外れるか、対策によって破局が避けられた、と本は数え上げる。1970年代のオイルショックのあとも、資源は尽きなかった。本が書かれる直前の世界金融危機のあとの悲観も、同じように外れるだろう、と本は言う。気候の変化についても、本は対策の必要を否定はしないが、破局を予言する見方には懐疑的な立場を取っている。
本の土台にあるのは、18世紀のアダム・スミスの考えである。分業と交換が富を生み、市場は誰かが計画しなくても、人びとの必要を満たすように働く。著者はこれを、生物の進化と同じように、下から積み上がっていく秩序と見る。

反論は強い。成長を、有限の地球の上で、いつまでも続けることはできない。豊かさの平均が上がっても、その分け前が偏っていれば、多くの人の暮らしは良くならない。外れた予言だけを数え上げるのは公平でなく、対策が取られたからこそ外れた予言を、最初から心配いらなかった例に数えるのはおかしい、という批判もある。また、著者自身が、2007年に取り付け騒ぎを起こして国有化されたイギリスの銀行ノーザン・ロックの会長だったことは、市場の働きを信じる楽観主義への皮肉として、しばしば指摘された。著者は北イングランドの古い貴族の家の当主で、のちに議会の上院議員にもなったが、所有する土地で石炭が掘られていたことから、化石燃料を擁護する議論と利害が重なるとも批判された。気候の変化への対策を急ぐ必要はないという著者の論調は、科学者たちから繰り返し反論を受けている。
この物語は、本が使ったできごとを、このデータベースの側から並べ直したものである。本文は写していない。成長を前提にしない経済を説く側の講演も、反論として同じ物語に付けてある。人類がこれまで何度も限界を越えてきたことは事実である。ただ、それが自然に起きたのではなく、そのたびに誰かが新しい方法を見つけ、それを広めたからだったことも、本の示した事実の一部である。次の限界をどう越えるかは、楽観するにせよ悲観するにせよ、私たちの側に残された問いになる。
動画(3)
この物語が起きた場所
筋(26)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 認知革命できごと約7万年前〜3万年前第2章。交換が始まったのはこのころ、と本は見る言葉が、目の前に無いものを語れるようになった。虚構を共有できれば、見ず知らずの数百人が協力できる。ハラリはここを人類史の起点に置く。ブロンボス洞窟
- サフルへの渡海できごと約6万5000年前(5万〜7万年前と幅がある)第2章。交換する動物だけが海を越えた氷期でも、この海は陸続きにならない。最低でも数十kmを船で渡ったことになる。人類が意図して外洋を越えた、最も古い証拠になる。マジェドベベ
- 農耕の始まりできごと紀元前90世紀第4章麦を蒔き、羊を囲った。栄養は偏り、身長は縮み、病気は増えた。それでも人口は桁違いに増える。肥沃な三日月地帯(位置は特定されていない)
- ウルク。都市というものの始まりできごと紀元前35世紀第5章。都市は交換の場所数万人が城壁の中に住んだ。分業も神殿も官僚も、ここで一度に現れている。ウルク
- アルファベットの成立できごとBC11世紀頃第3章。商人が作った文字数百の記号を覚えなければ書けなかったものが、22の子音字で書けるようになった。書くことが書記の専門職から離れる。ギリシア文字もラテン文字もアラビア文字もヘブライ文字も、ここから枝分かれしている。ビブロス
- リュディアの鋳造貨幣できごとBC7世紀後半第3章金と銀の合金に刻印を打ち、重さを量らずに数えて使えるようにした。市場での取引が速くなり、税も給金も数で払えるようになる。サルディス
- 西ローマ帝国の滅亡できごとAD476年第9章。交換が閉じると停滞する最後の皇帝が退位させられた。古代の終わりの目印として使われるが、当時そう感じた人はいなかった。ラヴェンナ
- 黒死病できごと1347年第6章ヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
- 鄭和の南海遠征できごと1405年第9章。閉じた側の例七度の航海で数百隻の船団がアフリカ東岸まで達した。植民も征服もせず、朝貢の関係を結んで帰る。だが事業は打ち切られ、記録の多くも失われた。海は他者に委ねられる。南京
- グーテンベルクの活版印刷できごとAD1455年頃第8章書物が手写しから機械の複製になった。考えが広がる速さが根本から変わる。

- オランダの黄金時代できごと1600年第5章株式会社と証券取引所が生まれ、小国が世界の海運を握った。レンブラントもこの時代の人。アムステルダム

- ニューコメンの蒸気機関できごとAD1712年第7章。石炭が奴隷の代わりに働きはじめる炭鉱の水を汲み上げるための機械だった。燃料を食いすぎて炭鉱の脇でしか使えない。それでも、石炭で動く最初の実用の動力になる。ダドリー
- アダム・スミス人物AD1723年(6月5日洗礼) – AD1790年7月17日交換と分業。本の土台グラスゴーの道徳哲学の教授。人が自分の利益を追うことが、意図せず社会の富を増やすと論じた。「見えざる手」は本の中で一度しか出てこない。
- ジェームズ・ワット人物AD1736年 – AD1819年蒸気機関を実用の動力に変えた。人と家畜の力に頼らない生産が始まる。
- トマス・マルサス人物AD1766年2月13日 – AD1834年12月23日本が反論する相手人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから貧困は避けられない、と書いた牧師。以後200年、繁栄を疑う側の拠り所になる。
- ワットの蒸気機関できごとAD1769年第7章復水器を分けて燃料を大幅に減らした。既にあった蒸気機関が、ここで工場に置ける道具になる。ロンドン
- 『人口論』できごとAD1798年第6章。本が反論する相手人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから飢えと貧困は避けられない。匿名で出たこの薄い本が、以後200年の悲観論の型になる。ロンドン

- 鉄道の開業できごとAD1825年9月27日第8章蒸気機関車が公共の交通になった。人と物が動く速さが桁で変わり、時刻という概念が全国で揃う。マンチェスター
- イギリスの奴隷制廃止法できごとAD1833年8月28日第7章帝国の大半で奴隷制を廃止した。奴隷ではなく所有者に2000万ポンドの補償を払い、国はその借金を2015年まで返し続けた。ロンドン
- フリッツ・ハーバー人物AD1868年12月9日 – AD1934年1月29日空気の窒素から肥料を作る方法を見つけ、いまの人口の半分を養っている。同じ人が毒ガス戦を指揮した。ユダヤ人として国を追われて死ぬ。
- ハーバー・ボッシュ法できごとAD1913年第4章。土地の限界を化学が外した空気の窒素を肥料に変える工場が動いた。土地が養える人の数が、この日から別の桁になる。いまの人口の半分は、この方法で作った窒素でできている。ルートヴィヒスハーフェン

- ノーマン・ボーローグ人物AD1914年3月25日 – AD2009年9月12日第4章メキシコで背の低い小麦を作り、インドとパキスタンの飢饉を止めた。10億人を救ったと言われ、ノーベル平和賞を受けた農学者。
- 緑の革命できごとAD1965年第4章高収量品種と化学肥料と灌漑で、穀物の生産が倍以上になった。飢饉が消える一方、水を大量に使い、地下水位が下がり、農家の負債が増える。デリー

- オイルショックできごとAD1973年第10章産油国が石油を武器にした。高度成長が終わり、資源の有限さが意識される。メッカ
- 天然痘の根絶宣言できごとAD1980年5月8日第1章。よりよい今日人類が病を一つ、地上から消した。最後の自然感染は1977年のソマリア。20世紀だけで3億人を殺した病が、13年の計画で終わった。ジュネーヴ
- 世界金融危機できごとAD2008年第10章。本が出る直前の悲観住宅ローンの証券化が世界に連鎖した。国境を越えた金融の速さが、そのまま危機の速さになる。ニューヨーク
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