東大寺の再建
概要
1180年に平重衡が焼いた大仏殿を、61歳の僧重源が勧進で建て直した。宋の技術「大仏様」。周防の山から木を切り出し、宋の鋳物師陳和卿が大仏を鋳た。落慶供養に頼朝が来た。南大門の仁王は運慶と快慶。
場所
34.69°N 135.84°E · 奈良県奈良市
関わった人(1)
重源AD1121年–AD1206年 · 勧進した本文
1180年(治承4年)12月、平清盛の命を受けた息子の平重衡は、平家に逆らう奈良の寺々を攻めた。以仁王の挙兵に味方するなど、奈良の大寺院は平家と対立していたのである。戦いの中で放たれた火は風にあおられて広がり、興福寺と東大寺の伽藍のほとんどを焼き尽くした。聖武天皇が国の平安を願って造らせ、752年に開眼の法要を行った大仏(大仏開眼)も、炎の中で頭が落ち、手は溶け落ちた。大仏殿に逃げ込んでいた多くの人も命を落としたと伝えられる。
国の象徴ともいえる寺の焼失は、人びとに大きな衝撃を与えた。翌1181年、再建のための資金を集める責任者である大勧進に任じられたのが、重源という僧である。このとき重源は六十一歳だった。重源は若いころから各地の霊場で修行を重ね、中国の宋へ三度渡ったと自ら語っていた。宋の進んだ建築や土木の技術を見てきた経験が、再建に生かされることになる。

重源が頼ったのは、勧進という方法だった。身分の上下を問わず、多くの人びとから少しずつ寄進を募る。重源は、勧進のための車を作って諸国を回り、寄付を呼びかけた。朝廷や貴族だけでなく、名もない庶民の小さな寄進も、大仏の再建を支えた。
まず取りかかったのは大仏そのものだった。日本の職人だけでは手に負えない仕事に、重源は宋から来ていた鋳物師の陳和卿を起用した。陳和卿と日本の職人たちは、溶け落ちた頭と手を新たに鋳造した。1185年8月、後白河法皇の臨席のもと、大仏の開眼の法要が行われる。法皇は自ら台に登り、奈良の時代の開眼の法要で使われた筆を手にして、大仏の目に瞳を入れたという。この年の春には、平家は壇ノ浦で滅んでいた(壇ノ浦の戦い)。

次は大仏殿だった。巨大な建物を建てるには、太く長い材木が要る。近畿の山々からは、もうそれほどの木は取れなくなっていた。朝廷は周防国、いまの山口県を、造営の費用をまかなう国として東大寺に与えた。重源は自ら周防の山深くに入って巨木を探し、切り出した木を川に流して運ぶために、川の流れをせき止めて水位を上げる堰をいくつも造った。木は瀬戸内海を船で運ばれ、淀川と木津川をさかのぼって奈良へ届けられた。
1195年3月、大仏殿の落慶の法要が営まれた。鎌倉から源頼朝が妻の政子とともに大勢の武士を率いて上洛し、法要に臨んだ。頼朝は再建に多くの寄進をしており、新しい武家の政権が、国家の寺の再建の後ろ盾であることを示す場にもなった。

重源が採り入れた建築の様式は、のちに「大仏様」と呼ばれる。柱に横から何本もの部材を差し込んで、その先で軒を支える挿肘木、柱を貫いて建物を固める貫など、宋の南部の技術にならったもので、少ない種類の部材を規格化して、大きな建物を早く、丈夫に建てることができた。飾りの少ない、力強い造りである。その代表として、いまも東大寺の南大門が残っている。重源が別の地に建てた兵庫の浄土寺浄土堂にも、その様式がよく残されている。
南大門の左右には、高さ八メートルを超える金剛力士の像が立つ。1203年、運慶と快慶らの仏師たちが率いる工房が、わずか七十日ほどで作り上げたものである。筋肉の盛り上がりと、にらみつける顔の迫力は、鎌倉時代の写実的な彫刻を代表する作品とされる(その時代の文化については物語「鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教」)。同じ年、東大寺では再建の完成を祝う総供養が営まれた。

重源は1206年、八十六歳で亡くなった。東大寺の俊乗堂には、晩年の重源の姿を刻んだ坐像が残っている。深いしわの刻まれた顔に、二十五年にわたって再建を率いた人の意志が表れている。大仏殿は戦国時代の1567年、再び戦火で焼け、いまの大仏殿は江戸時代の1709年に再建されたものである。重源の時代の姿をいまに伝えるのは、南大門と、その門を守る仁王たちである。