概要
1897年2月15日、大阪の南地演舞場で、京都の実業家の稲畑勝太郎が、フランスから持ち帰ったリュミエール兄弟のシネマトグラフを使って、日本で初めて映画をスクリーンに映した。前の年の暮れには神戸で、一人ずつ箱をのぞくエジソンのキネトスコープも見せられている。動く写真は「活動写真」と呼ばれた。日本の映画館では、画面の横に弁士が立って、筋を語り、登場人物の台詞を声色で演じた。人気の弁士は俳優より客を呼び、映画に音がついたあとも、しばらくは弁士つきの上映が続いた。
場所
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府
本文
1895年の暮れ、パリでリュミエール兄弟が、スクリーンに映した動く写真を客に見せた(リュミエールの映画上映)。この装置シネマトグラフは、撮る機械と映す機械を兼ねていて、兄弟は撮影技師を世界に送り出し、各地で上映しながら、その土地の風景も撮らせた。
京都の稲畑勝太郎は、若いころフランスのリヨンで染色を学び、リュミエール兄弟の兄と同じ学校で知り合っていた。1897年、彼は機械と技師を連れて帰国し、2月15日、大阪の南地演舞場で上映会を開く。これが、日本でスクリーンに映画を映した最初とされる。前の年の11月には、神戸でエジソンのキネトスコープが公開されていたが、こちらは一人ずつ箱の中をのぞく仕掛けだった。同じ月には、アメリカのヴァイタスコープも大阪で公開されている。
初めのころの映画は、数十秒の短い映像だった。列車が駅に着く、人々が工場から出てくる。日本では、そこに説明の語りが付いた。やがて映画が長い物語を持つようになると、画面の横に立つ弁士が、筋を説明し、登場人物の台詞を声色を変えて演じるようになる。
弁士は日本の映画の大きな特徴になり、人気の弁士の名前で客が集まった。1920年代には、全国で数千人の弁士がいたとされる。1931年に日本で初めての本格的なトーキー『マダムと女房』が作られ、映画が自ら話すようになると、弁士の仕事は失われていった。職を失った弁士の中から、漫談や司会の芸人に転じた人も多い。