『古今和歌集』

概要
醍醐天皇の命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が編んだ最初の勅撰和歌集。20巻、1100首。『万葉集』の後の150年から。仮名の序。「やまとうたは、人の心を種として」。それから500年、勅撰集は21回続き、歌の型はこの本が決めた。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
紀貫之AD872年頃–AD945年頃 · 編んだ本文
延喜5年(905年)、醍醐天皇の命を受けて、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が、一つの歌集の編纂に取りかかった。『万葉集』に入らなかった古い歌と、自分たちの時代の歌を集めよ、という命だった。こうして生まれた『古今和歌集』は、天皇の命令で編まれた最初の和歌集、勅撰和歌集である。全20巻、およそ1100首。この本は、それから千年にわたって、日本人が歌を詠み、季節を感じる言葉の型を決めることになった。
『古今集』が編まれるまで、宮廷の正式な文学は漢詩だった。9世紀の前半には、天皇の命で漢詩集が3つも編まれている。歌は男女の恋のやりとりや私的な場で詠まれるもので、公の文学とは見なされていなかった。風向きが変わったのは9世紀の末である。宇多天皇のもとで歌合が盛んに開かれ、894年に菅原道真の進言で遣唐使が送られなくなり(遣唐使の中止)、唐の文化をそのまま取り入れる時代は一区切りを迎えた。漢字をくずした仮名が広まり、和語をそのまま書き表せるようになっていた。宇多天皇の子、醍醐天皇の命による歌集の編纂は、歌を漢詩と並ぶ公の文学へ引き上げる試みだった。

4人の撰者は、いずれも位の高くない役人だった。最年長の友則は編纂の途中で世を去り、巻十六には彼の死を悼む貫之と忠岑の歌が収められている。中心になったのは貫之である。序の日付は延喜5年4月18日となっているが、これが編纂を命じられた日なのか、完成して奉った日なのかは説が分かれ、実際に仕上がったのはもう少し後とみる研究者が多い。
歌の並べ方には、はっきりした設計がある。巻一・二が春、巻三が夏、巻四・五が秋、巻六が冬。立春の歌に始まり、梅、桜、散る花、ほととぎす、紅葉、雪と、季節の移ろいに沿って歌が並び、年の暮れの歌で冬の巻が閉じられる。そのあとに祝いの賀歌、別れの離別歌、旅の羇旅歌などが続き、巻十一から十五の5巻を占める恋の歌も、ほのかな思いの芽生えから逢う喜び、そして恋の終わりまで、恋の進み行きの順に並べられている。四季と恋を柱に、歌を時の流れの中に置くこの並べ方は、のちの勅撰集の手本になった。

巻頭には、貫之が仮名で書いた序がある。「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」。歌は人の心を種として、さまざまな言葉となって生まれたものだ、と書き起こし、花に鳴く鶯や水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもので歌を詠まないものがあろうか、と続ける。力も入れずに天地を動かし、目に見えない鬼神の心も動かし、男女の仲を和らげ、勇ましい武士の心も慰めるのは歌である、と。仮名で書かれた最初の本格的な文学論であり、この一文が日本語の散文の出発点の一つと言われるのはそのためだ。巻末には紀淑望が漢文で書いた序も置かれている。
仮名序は、少し前の時代の名高い歌人6人を取り上げて批評している。のちに「六歌仙」と呼ばれる人びとである。在原業平については、心があふれて言葉が足りない、しおれた花の色が失せて香りだけ残るようだ、と評した。小野小町は、しみじみとした趣があるが強さがない、高貴な女性が病んでいるようだ、と評された。貫之自身の時代の歌への強い自負と、歌を言葉の技として論じる冷静な目がうかがえる。

収められた歌のおよそ4割は、作者の分からない「読人知らず」の歌である。業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」、小町の「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」、友則の「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」などは、のちに藤原定家が選んだとされる小倉百人一首にも取られ、今も多くの人がそらんじている。賀歌の巻の最初に置かれた読人知らずの「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」は、初句が「君が代は」と変わって長く祝いの歌として歌い継がれ、明治になって国歌の歌詞になった(君が代)。
『古今集』の歌の特徴は、言葉の技巧にある。一つの言葉に二つの意味を重ねる掛詞、関係の深い言葉を散りばめる縁語、ある物を別の物に見立てる見立て。小町の歌の「ふる」は「(長雨が)降る」と「(世に)経る」、「ながめ」は「長雨」と「物思いにふけって眺める」を重ねている。素朴で力強い『万葉集』(『万葉集』の成立)の歌に比べ、理知的で優美な歌風は「古今調」と呼ばれる。花は散るから美しく、月は欠けるからしみじみと見る。こうした季節の感じ方の多くは、この本の中で言葉の型として固まった。
その影響は計り知れない。勅撰和歌集はこのあと、1439年の『新続古今和歌集』まで、あわせて21集が編まれた。貫之は数十年後に仮名の日記文学(紀貫之『土佐日記』とかな文字)も書き、宮廷の女性たちによる仮名の文学、たとえば『枕草子』や『源氏物語』には、『古今集』の歌が教養の土台として何度も引かれている。中世には、『古今集』の難しい言葉の解釈を師から弟子へ秘かに伝える「古今伝授」が生まれ、歌の家の権威を支えた。戦国の武将細川幽斎がこれを受け継いでいたため、関ヶ原の戦いの前に籠城した際、伝授が絶えることを惜しんだ後陽成天皇が勅命で戦いをやめさせた、という出来事まであった。

近代になって、この権威に正面から挑んだのが正岡子規である。1898年、子規は新聞に連載した『歌よみに与ふる書』で、貫之は下手な歌よみで『古今集』はくだらない集だ、と言い放ち、写生にもとづく『万葉集』の歌に帰れと説いた。技巧と型にとらわれた歌を改め、目の前の物を見て詠めという主張は、近代の短歌を生み出す力になった。
それでも、桜が散ることを惜しみ、秋の月にもの思う、という感じ方は、子規の後も消えなかった。『古今集』が言葉にした季節と心の結びつきは、和歌だけでなく、俳句にも、物語にも、今の歌謡曲にまで、目に見えない形で流れ込んでいる(物語「国風文化 — かなと宮廷の女たち」)。