民族移動の時代

概要
4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。
この物語について
民族が動いたというより、押し出された人が動いた。その波は、ヨーロッパにも中国にもインドにも、同じころ届いている。では、なぜ4世紀から6世紀に、ユーラシアの東西で同時に人が動いたのか。そして入ってきた人々は、何を壊し、何を引き継いだのか。

「ゲルマン民族の大移動」という言い方は、ローマの側から見た呼び名である。ゲルマン系の人々はそれ以前から国境の内外を行き来し、ローマ軍の兵として雇われてもいた。紀元前2世紀の終わりにはキンブリ族とテウトニ族が土地を求めて南下し、アラウシオでローマ軍を大敗させてもいる。変わったのは、草原の奥から押す力が強まったことだった。
4世紀の後半、黒海の北に騎馬の遊牧民フン人が現れた。彼らが、かつて漢と争った匈奴の流れをくむのかどうかは、名前の似ていることのほかに決め手がなく、いまも議論が続いている。フン人に追われた西ゴートの人々は、376年、ドナウ川を渡ってローマ領に入ることを許された。だが食料の約束は守られず、役人の搾取に怒った彼らは反乱を起こす。378年のハドリアノポリスの戦いで、東の皇帝ウァレンスは戦死した。ローマ軍が侵入者に正面から敗れ、皇帝まで失ったこの戦いは、のちの百年の始まりとみなされている。

ゴート人はすでにキリスト教徒だった。4世紀に司教ウルフィラが聖書をゴート語に訳し、そのために文字まで作っていたが、彼が伝えたのはキリストを父なる神より下に置くアリウス派の教えだった。のちに入ってくる諸族の多くもこの派を受け入れ、カトリックのローマ人とは信仰で隔てられることになる。
406年の暮れ、ヴァンダル人などの諸族がライン川を越えてガリアに入った。西の帝国はもう国境を守りきれなかった。410年、西ゴート王アラリックの軍はローマ市に入り、三日間略奪した(西ゴートのローマ略奪)。ケルト人に占領されて以来、およそ800年ぶりに市が外敵の手に落ちたのである。城門は内側から開けられたとも伝えられる。この衝撃は地中海じゅうに広がり、北アフリカの司教アウグスティヌスは、キリスト教のせいでローマが神々に見捨てられたという非難に答えて『神の国』を書き始めた。地上の国は滅んでも神の国は滅びない、という考えは、中世のヨーロッパに長く影響した。

その西ゴートは、略奪から8年後の418年、ローマからガリア南西部の土地を与えられ、トロサ(いまのトゥールーズ)を都にした。ローマを荒らした人々が、ローマの同盟者として定住する。この時代にはそういうことが何度も起きた。ヴァンダル人はイベリア半島を経て429年にジブラルタル海峡を渡った。王ガイセリックが率いた人数は、女や子どもを含めて8万人と伝えられる。439年にはカルタゴを奪い、帝国の穀倉だった北アフリカを手に入れて艦隊を持った。455年、今度はヴァンダル人がローマを二週間にわたって略奪する。
その間、ドナウの北ではフン人の王アッティラが東西の帝国から莫大な貢金を取っていた。451年、彼はガリアに攻め込んだが、ローマの将軍アエティウスと西ゴートなどの連合軍にカタラウヌムで食い止められる。翌年イタリアに入ったが、ローマ市の手前で引き返した。教皇レオ1世の説得によるとの話は有名だが、軍内の疫病や食料不足のほうが効いたとみる研究者が多い。453年、アッティラは婚礼の夜に急死し、翌年には従っていた諸族が反乱を起こして、フンの支配はあっけなく崩れた。

西の皇帝は、もう名前だけの存在だった。476年、ゲルマン系の傭兵隊長オドアケルが少年皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、帝位のしるしをコンスタンティノープルへ送り返した。西にはもう皇帝はいらない、という意思表示だった。これが後世「西ローマ帝国の滅亡」と呼ばれる。ただ当時のイタリアの人々にとって、この年に何かが劇的に変わったわけではない。元老院は会議を開き続け、役人はラテン語で書類を書き続けた。
それをいちばんよく示すのが、493年にオドアケルを倒してイタリアの王になった東ゴートのテオドリック大王である。若いころ人質としてコンスタンティノープルで育った彼は、ローマの法と役人をそのまま使い、ゴート人は軍を、ローマ人は行政を担う形で33年間イタリアを治めた。哲学者ボエティウスや学者カッシオドルスのようなローマ貴族が、ゴートの王に仕えた。ただし晩年の王は、東の皇帝と通じているとの疑いでボエティウスを処刑している。入ってきた側が入られた側の仕組みを引き継いで運転する、その難しさもここに見える。

ガリアでは、フランク人の王クローヴィスが周りの諸族を倒して勢力を広げた。彼はほかのゲルマン系の王たちと違い、アリウス派ではなくカトリックの洗礼を受けた(クローヴィスの改宗)。時期は496年とも508年ごろとも言われて定まらない。この選択で、フランク王はガリアのローマ系住民と司教たちを味方につけた。西ゴートがアリウス派を捨ててカトリックに移るのは587年、それから80年以上も後のことである。教皇と結ぶフランク王という組み合わせは、800年のカール大帝の戴冠にまでつながっていく。
ブリテン島では、ローマ軍が5世紀の初めに去ったあと、海の向こうからアングル人、サクソン人、ジュート人が渡ってきた。英語のもとになる言葉が島に入ったのはこのときである。先住のブリトン人がどこかの戦いで侵入者を食い止めたという話がバドン山の戦いとして伝わり、のちにアーサー王の伝説が生まれたが、アーサーという人物が実在したかどうかは確かめられていない。

同じ頃、東の端でも同じことが起きていた。4世紀の初め、華北では晋の内紛につけ込んだ匈奴の一派が自立し、311年には洛陽が、316年には長安が落ちた。以後、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌と呼ばれた北方や西方の諸族が次々に国を建て、五胡十六国の時代が130年あまり続く。晋の一族と多くの貴族は南へ逃れ、長江の南に東晋を建てた。華北の人々が大挙して南へ移ったことで、それまで辺境だった江南の開発が進んでいく。人が押し出されて動いたのは、ここでも同じである。
割れた中国からも、道はまだ通じていた。399年、60歳を過ぎていたとされる僧の法顕は、正しい戒律の本を求めて長安を発ち、中央アジアの砂漠と山を越えてインドへ入った。十数年後、彼はスリランカから海路で帰国し、その旅を書き残した。そこに描かれたグプタ朝のインドは、穏やかで豊かな国だった。

華北を再びまとめたのは、鮮卑の拓跋部が建てた北魏だった。439年の北魏の華北統一である。入ってきた側は、やがて入られた側に近づいていく。5世紀末の孝文帝は都を平城から洛陽に移し、宮廷で鮮卑の言葉と服装を使うことを禁じ、自らの姓も拓跋から漢風の「元」に改めた。この漢化に反発した北辺の軍人たちの反乱から北魏は分裂するが、北の王朝の流れはやがて隋と唐に行き着き、ふたたび中国を一つにする。
朝鮮半島と日本列島でも、この時代に国の形が定まりつつあった。高句麗の好太王は4世紀末から南へ勢力を伸ばし、その功績を刻んだ碑には倭の兵と戦った記事がある。碑文の読み方をめぐっては、近代以降さまざまな論争があった。5世紀の中国南朝の史書には、讃・珍・済・興・武という倭の五王が使いを送って称号を求めたことが記されている。

インドとペルシアには、中央アジアからエフタルと呼ばれる遊牧の人々が押し寄せた(エフタルの侵入)。484年、サーサーン朝の王ペーローズは彼らとの戦いで戦死し、ペルシアはしばらく貢納を強いられた。インドでは6世紀の初めにエフタル系の王たちが北西部を支配し、すでに弱っていたグプタ朝の解体を早めたとされる。西のフン人と東のエフタルは、どちらも草原から来た押し出す力の現れだった。
信仰の形も、この時期に決まった。451年のカルケドン公会議は、キリストが神性と人性という二つの本性を持つと定めたが、エジプトやシリア、アルメニアの教会の多くはこれを受け入れなかった。コプト教会やアルメニア使徒教会など、ここで分かれた教会はいまも別々に続いている。

6世紀、東ローマのユスティニアヌス1世は西の旧領を取り戻そうと、ヴァンダル王国と東ゴート王国を滅ぼした。だが長い戦争で荒れたイタリアには、568年にランゴバルド人が入ってくる。彼らの王国は200年ほど続き、774年にカール大帝に滅ぼされた。その後もマジャール人がパンノニアの平原に、ブルガール人がドナウの南に、ヴァイキングが北の海から現れ、ヨーロッパの民族の地図はなお書き換えられていく。同じ数世紀には、東南アジアの島々から船出した人々が、インド洋を越えてマダガスカルにまで住みついていた。
この時代は長く「暗黒時代の入り口」と呼ばれてきた。いまは、断絶よりも変容を強調する見方が有力である。ローマの法と言葉は新しい王たちの国で使われ続け、中国の帝国は北方の血を引く王朝の下で甦った。押し出されて動いた人々が新しい土地で古い仕組みを受け継ぎ、混ざり合って、次の時代の国々の骨組みを作った。

人が押し出されて動く歴史は、その後も終わっていない。1923年のローザンヌ条約ではギリシアとトルコのあいだで100万人を超える住民が交換され、1947年にインドとパキスタンの国境が引かれたときには1000万人以上が移動したとされる。第二次世界大戦の後には、迫害の待つ国へ難民を送り返さないことを定めた難民条約が結ばれた。千五百年前のドナウ川で、食料の約束を破られたゴート人が反乱を起こしたことを思い出すと、受け入れる側の扱い方が、その後の歴史を大きく左右することが分かる。
この物語が起きた場所
筋(106)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- トロイア戦争(伝承)できごとBC1200年頃(伝承)ホメロスが歌った戦い。トロイアの遺跡には破壊層があるが、叙事詩どおりの出来事だったかは分からない。トロイア

- アッシリアの強制移住できごとBC744年450万人が動かされたと推定される征服した民を丸ごと別の土地へ移し、混ぜて住まわせた。反乱の芽を絶つ統治術で、450万人が動かされたと推定される。帝国という形の発明の一つになる。ニネヴェ
- シラクサの建設できごとBC734年(伝承)コリントスの人びとがシチリアに植民市を建てた。ギリシア人は200年で地中海と黒海の岸に数百の都市を築き、母市より大きくなる町も出る。シラクサ
- グレコ・バクトリア王国の滅亡できごとBC130年頃張騫が来たときもうなかったアレクサンドロスの兵の子孫の国が、200年、アフガニスタンにあった。ギリシア語の硬貨、ギリシアの神殿、アイ・ハヌムの劇場。月氏が匈奴に追われて来て、終わった。張騫が来たとき、もうなかった。「大夏」と彼は書いた。バクトラ
- アラウシオの戦いできごとBC105年10月6日土地を求めて南下した部族北から来たキンブリ人とテウトニ人に、ローマの二つの軍が全滅した。カンナエ以来の敗北で、マリウスの軍制改革を引き出す。アラウシオ(オランジュ)
- アクアエ・セクスティアエの戦いできごとBC102年ゲルマン人の最初の侵入北から来たキンブリ族とテウトネス族が、ローマの軍を5度破った。アラウシオで8万。マリウスが軍を作り直して、プロヴァンスでテウトネスを、翌年ヴェルケッラエでキンブリを潰した。女たちは荷車の上で戦い、子を殺して自殺した。ゲルマン人の最初の侵入。アクアエ・セクスティアエ

- ナイススの戦いできごとAD269年100年来なかったゴート族とヘルール族が数万で船で黒海からバルカンへ。クラウディウス2世が近衛と騎兵でナイススで潰した。「ゴティクス」。翌年、疫病で死んだ。次のアウレリアヌスがゴートをドナウの北へ追い、ダキアを捨てた。ゴートは100年、来なかった。ナイスス(ニシュ)
- 五胡十六国できごと304年華北。押し出す力は東にも向いた北方の諸族が華北に次々と国を建てた。漢人の政権は南へ逃げ、中国は130年あまり割れつづける。長安
- 法顕人物AD337年頃 – AD422年頃60歳を過ぎてインドへ発ち、14年かけて陸路で行き海路で帰った。玄奘の200年前の旅。
- ウルフィラのゴート語聖書できごとAD350年頃ゴートがアリウス派になったゴート人の司教が、ギリシア文字を元に文字を作り、聖書を訳した。「列王記」は好戦的な民には毒だと訳さなかった。ゴート人はこれでアリウス派になり、ローマの正統と一世紀半ずれたまま帝国に入ってくる。ニコポリス・アド・イストルム(位置は特定されていない)
- アウグスティヌス人物AD354年11月13日 – AD430年8月28日北アフリカの司教。ローマが略奪された衝撃に答えて『神の国』を書き、中世の思考の枠を作った。
- アラリック人物AD370年頃 – AD410年塩の門が開いたドナウのゴート人。テオドシウスの下で戦い、待遇に怒って王に。ギリシアを荒らし、イタリアに三度入り、410年8月にローマの塩の門が開いた。3日。800年ぶりの略奪。南へ向かい、コゼンツァで死んだ。川の流れを変えて埋め、戻して、奴隷を殺した。墓は見つかっていない。
- 好太王人物AD374年 – AD412年高句麗を最大に広げた王。息子が建てた碑が、この時代の朝鮮半島と倭を伝える一級史料になる。
- ハドリアノポリスの戦いできごとAD378年8月9日フン人に追われて入ったゴート人が皇帝を殺したフン人に追われて帝国内に入ったゴート人が、飢えと役人の搾取で反乱し、皇帝の軍を破って皇帝を殺した。帝国は以後、ゴート人を内側に抱えて生きる。ハドリアノポリス(エディルネ)

- ガイセリック人物AD389年頃 – AD477年1月25日死ぬまで負けなかった足が不自由で、口数が少なく、欲が深かった、とヨルダネス。50年王だった。スペインからアフリカへ、カルタゴ、シチリア、サルデーニャ、ローマ略奪。皇帝の未亡人と娘を連れ帰った。ローマとビザンツの艦隊を二度焼いた。アリウス派。死ぬまで負けなかった。
- 法顕の求法の旅できごと399年割れた中国から、僧が一人でインドへ行ける程度には道が通じていた60歳を過ぎて長安を発ち、砂漠を越えてインドへ行き、海路スリランカ経由で帰った。玄奘の200年前。パータリプトラ
- 西ゴートのローマ略奪できごとAD410年8月24日800年ぶりに市が落ちた800年ぶりに市が落ちた。滅亡の66年前だが、同時代の人はここで世界が終わったように書いている。ローマ

- 倭の五王できごと413年周辺で国の形が決まっていく讃・珍・済・興・武。中国の史書にだけ名が残り、日本側の史料の誰にあたるのかは決まっていない。平城京
- 『神の国』できごと413年略奪の衝撃に答えて書かれたローマが略奪されたのはキリスト教のせいだ、という非難に答えて書かれた。地上の国と神の国を分ける。ヒッポ・レギウス

- 好太王碑できごとAD414年高さ6mを超える石碑。倭との戦いにも触れており、読み方をめぐる論争がいまも続いている。国内城
- 西ゴート王国国AD418年(アクィタニアへの定住) – AD711年(グアダレーテの戦い)ローマを略奪した部族が、そのローマから土地をもらったローマを略奪した部族が、そのローマから土地をもらってガリアに落ち着いた。フランクに追われてイベリアへ移り、300年治める。711年、イスラム軍に一戦で倒れた。
- オドアケル人物AD433年 – AD493年3月15日西に皇帝はいらないスキリ族の王の子。ローマの傭兵隊長。476年、土地を求めた兵に推されて、16歳の皇帝を退位させ、帝冠をコンスタンティノープルに送った。「西に皇帝はいらない。私はあなたの代理」。イタリア王。17年。テオドリックに3年囲まれ、和睦の宴で自分の手で殺された。
- ヴァンダル王国国AD435年(ローマとの協定) – AD534年(東ローマによる征服)ライン川から海を渡ってアフリカまでライン川を渡り、ガリアとイベリアを通り抜けて、海を渡ってアフリカに国を建てた。ローマの穀倉を握り、艦隊でローマを略奪する。ユスティニアヌスの軍が一年で滅ぼした。
- 北魏の華北統一できごとAD439年入ってきた側が漢化していく鮮卑の王朝が華北をまとめた。のちに自ら漢化を進め、鮮卑の言葉と服装を捨てる。平城
- ガイセリックのカルタゴ占領できごとAD439年10月19日ジブラルタルを渡った8万スペインからジブラルタルを渡ったヴァンダル族8万が、10年でローマの穀倉を取った。カルタゴの艦隊を得て地中海を荒らし、455年にローマを14日略奪した。「ヴァンダリズム」の語は18世紀にフランスの司教が作った。100年後にベリサリウスが滅ぼした。カルタゴ
- アングロ・サクソンのブリテン移住できごと5世紀英語がブリテン島に入るローマ軍が去った島に、北海の対岸から人が渡ってきた。英語はこのとき島に入る。ブリテン島(位置は特定されていない)
- カルケドン公会議できごとAD451年ここで分かれた教会がいまも別々に続いているキリストの神性と人性をどう言うかを決めた。これを受け入れなかったエジプトとシリアの教会が分かれ、いまも別々に続いている。カルケドン

- カタラウヌムの戦いできごとAD451年ローマと西ゴートの連合がアッティラを止めた。西ローマ帝国の最後の大きな勝利とも言われるが、兵の多くは西ゴートなど同盟した諸族だった。カタラウヌムの野(位置は特定されていない)

- アッティラ人物? – AD453年東西のローマから貢納を取り立て、ガリアとイタリアを荒らした。死ぬと帝国は数年で消える。
- アッティラの死できごとAD453年翌年、従属民が反乱ゲルマンの娘イルディコとの婚礼の夜、酒に酔って鼻血で窒息した。翌朝、花嫁が泣いていた。フン人は顔を切って血で悼み、金銀鉄の三重の棺に入れ、埋めた者を殺した。翌年、ネダオで従属民が反乱し、帝国は消えた。ゲルマンの伝説では妻に殺されたことになった。ティサ平原(セゲド)
- テオドリック大王人物AD454年頃 – AD526年8月30日イタリアを東ゴートの王として33年治めた。ローマの制度をそのまま使い、統治は安定していた。
- ヴァンダルのローマ略奪できごとAD455年海から来て2週間かけて運び出した。「ヴァンダリズム」という言葉はこの一件から作られた。ローマ

- クローヴィス1世人物AD466年頃 – AD511年フランクをまとめ、カトリックを選んだ。西ヨーロッパの王権と教会が結びつく起点になる。
- エフタルの侵入できごと5世紀後半グプタ朝とササン朝を削った中央アジアから来た勢力がグプタ朝を削り、ササン朝の王を戦死させた。草原からの圧力は西だけに向いたのではない。タキシラ
- 西ローマ帝国の滅亡できごとAD476年最後の皇帝が退位させられた。古代の終わりの目印として使われるが、当時そう感じた人はいなかった。ラヴェンナ
- テオドリックのイタリア王国できごとAD493年滅んだあとも日常は続いているゴート人の王がローマの制度と役人をそのまま使って治めた。西ローマが「滅んだ」あとも日常は続いている。ラヴェンナ(総督府)
- テオドリックのイタリア統治できごとAD493年ゴート人が軍を担い、ローマ人が行政を担う。元老院も法もそのまま使った。ボエティウスを重用し、そして処刑した。その死後、東ローマが攻め込む。ラヴェンナ
- 東ゴート王国国AD493年(テオドリックのラヴェンナ入城) – AD553年(ゴート戦争の終わり)ローマの元老院と法をそのまま使ったテオドリックがオドアケルを殺してイタリアを取った。ローマの元老院と法をそのまま使い、ゴート人は軍だけを担う。彼の死後、東ローマが攻め込んで20年の戦争になる。
- クローヴィスの改宗できごとAD496年頃(508年説もある)フランク王がカトリックを選んだ。ほかのゲルマン諸王が異端とされる宗派を採った中で、これが後々効いてくる。ランス
- バドン山の戦い(伝承)できごとAD500年頃(伝承)ブリトン人が西を保ったギルダスが「私が生まれた年の、サクソン人に対する最後の大勝利」と書いた。誰が指揮したかは書かなかった。300年後にネンニウスが「アーサーが960人を一人で倒した」と足した。ブリトン人はそれから50年、西を保った。アーサー王の話は、この一行から育った。バース
- マダガスカルへの到達できごとAD5〜8世紀同じ数世紀に、東南アジアからも人が動いていたアフリカの沖の島に最初に住み着いたのは、6000km東のボルネオから来た人びとだった。いまの言葉がそれを示している。マダガスカル(位置は特定されていない)

- ユスティニアヌスの再征服できごと533年取り返そうとして、届かなかった北アフリカとイタリアを取り戻した。ただし戦費と疫病で国は疲れ、この領土は次の世代で失われる。ラヴェンナ(総督府)
- ランゴバルドのイタリア侵入できごとAD568年ユスティニアヌスが20年かけて取り戻したイタリアを、皇帝の死の3年後に別のゲルマン人が北から取った。半島は以後1300年、一つの国にならない。ラヴェンナ

- 西ゴートのカトリック改宗できごとAD589年250年のずれが揃った王レカレドが第三回トレド教会会議でアリウス派を捨てた。ゴートの支配層と、ローマ系の住民の宗教が一つになる。250年ずれていた信仰が揃い、以後、トレドの教会会議が国を動かす。トレド
- 第一次ブルガリア帝国国AD681年(ビザンツとの条約) – AD1018年(バシレイオス2世による併合)草原から来た人びとがスラヴ人の上に建てた草原から来たブルガールがスラヴ人の上に建て、ビザンツから改宗し、キリル文字を育てた。シメオンはコンスタンティノープルを脅かし、バシレイオス2世に滅ぼされる。
- ランゴバルド王国の滅亡できごとAD774年200年の王国カールが教皇の求めでアルプスを越え、パヴィアを9か月囲んで王デシデリウスを修道院に送った。「ランゴバルドの王」を兼ねた。妃はデシデリウスの娘だった。離縁していた。200年の王国が終わり、フランクがイタリアに入り、教皇領の形が決まった。パヴィア
- ヴェルデンの虐殺できごとAD782年ヴィドゥキントザクセン戦争の10年目。ヴィドゥキントの反乱でフランク軍が全滅したあと、カールはアラー川の岸でザクセン人4500人を一日で斬った、と『フランク王国年代記』は書く。「洗礼を受けなければ死刑」。30年の戦争。ナチスがヴィドゥキントを英雄にし、この場所に記念の石を並べた。ヴェルデン
- 大モラヴィア国国AD833年 – AD907年頃(マジャール人による崩壊)西スラヴ人の最初の国西スラヴ人の最初の国。フランクとビザンツの間で揺れ、キュリロスとメトディオスを招いてスラヴ語の典礼を得た。マジャール人に潰されて100年に満たずに消える。
- 大モラヴィア国できごとAD833年西スラヴ人の最初の国。フランクとビザンツの間で揺れ、ビザンツからキュリロスとメトディオスを招いた。マジャール人に潰されて消える。モラヴィア(位置は特定されていない)

- キルギスのウイグル打倒できごとAD840年天山と河西へ内紛と飢饉と雪で弱ったウイグル可汗国を、エニセイのキルギスが襲い、可汗を殺し、オルドバリクを焼いた。100年の可汗国が消えた。ウイグルは西へ逃げて、天山と河西に落ち着き、農耕と仏教とマニ教の民になった。唐は北の敵を失い、843年にはマニ教を禁じた。オルホン渓谷(位置は特定されていない)
- ルーシの成立できごとAD862年北欧から来た集団が東欧の川筋に拠点を作った。年代記の伝える建国譚で、どこまで史実かは分かっていない。ノヴゴロド
- 大異教軍のイングランド上陸できごとAD865年略奪ではなく征服に来たデーン人の大軍が略奪ではなく征服に来た。ヨークを取り、四つの王国のうち三つを潰す。残ったウェセックスのアルフレッドが持ちこたえる。ヨーク
- キエフ・ルーシ国AD882年(オレグのキエフ占領) – AD1240年(モンゴルによるキエフ陥落)ヴァリャーグが水運を握ってできた国ヴァリャーグ(北欧人)が水運を握り、スラヴの地に諸公国のゆるい連合ができた。988年にビザンツからキリスト教を受け入れる。ロシア・ウクライナ・ベラルーシがそろって自分の起点と見なしている。
- マジャール人のパンノニア定住できごとAD895年草原から来た騎馬の民が、ドナウの平原に落ち着いた。大モラヴィアを潰し、50年ヨーロッパを荒らし、キリスト教に改宗してハンガリーになる。カルパチア盆地(位置は特定されていない)

- トンガ海上帝国国AD10世紀頃 – AD15世紀頃(影響圏の縮小)数千キロ離れた島々を、婚姻と貢納と航海でつないだ。海の上に版図を持つという形が、太平洋にはあった。石の三門(ハアモンガ)がその時代に残る。
- ハザールの滅亡できごとAD965年ペチェネグとクマンが来たユダヤ教に改宗した草原の帝国を、キエフのスヴャトスラフが攻めた。サルケル、イティル。「ハザールはブドウ園があったが、いまは一房もない」。300年、ビザンツとカリフとルーシの間に立った国が消え、草原の道が開いて、ペチェネグとクマンが来た。イティル
- ヴィンランドへの入植できごとAD1000年頃コロンブスの500年前に、ノース人が北米に住んだ。ニューファンドランドで鉄の鍛冶場と建物の跡が出た。数年で引き上げている。ランス・オ・メドー
- 『ニーベルンゲンの歌』できごとAD1200年頃ブルグント族の滅亡の記憶ジークフリート、クリームヒルト、ブリュンヒルト、ハーゲン、グンター、エッツェル(アッティラ)。ライン川のヴォルムスと、ドナウの向こうのフン族の宮廷。竜の血、隠れ蓑、宝、槍で背中を刺され、復讐で全員が死ぬ。5世紀のブルグント族の滅亡と、ゲルマンの神話が、宮廷の叙事詩になった。パッサウの司教の周りで書かれた、と言われる。ワーグナー、ヒトラー(「ニーベルンゲンの忠誠」)、フリッツ・ラング。パッサウ

- バトゥの西征できごとAD1237年モンゴル軍が凍った川を道にして冬に進み、ルーシの諸公国を次々に落とした。ハンガリーとポーランドまで達し、大ハーンの死で引き返す。キーウ
- ロアノークの失われた植民地できごとAD1587年消えた植民地ローリーの特許で115人が上陸し、ヴァージニア・デアが生まれた。総督ホワイトが補給に帰り、アルマダの戦争で3年戻れなかった。1590年、誰もいなかった。柱に「CROATOAN」。捜索は嵐で中止。何が起きたかは、いまも分からない。イギリスの最初の植民地は、消えた。ロアノーク島
- ジェームズタウンの建設できごとAD1607年5月14日最初に残った植民地ヴァージニア会社の104人が沼地の半島に砦を建てた。金を探して、畑を作らず、最初の夏から秋で半分が死んだ。1609年の冬は「飢餓の時」、500人が60人に。人を食べた。ポカホンタス、ジョン・ロルフ、タバコ。1619年、最初のアフリカ人。イギリスの北米で、最初に残った植民地。ジェームズタウン
- メイフラワー号できごとAD1620年イングランドの国の教会に従わない分離派の信徒たちは、オランダに逃れたのち、新大陸に自分たちの共同体を作ろうとした。1620年、百人ほどを乗せたメイフラワー号が大西洋を渡る。上陸の前、男たちは船の上で、自分たちで政治の団体を作り、公正な法に従うという誓約を結んだ。最初の冬に半数が死んだ。生き残れたのは、先住のワンパノアグの人びとがとうもろこしの育て方を教えたからである。その先住民は、半世紀後の戦争で土地を奪われていく。プリマス(マサチューセッツ)
- シャカ・ズールー人物AD1787年頃 – AD1828年9月22日短い突き槍戦術と組織を作り変え、小さな氏族を強大な王国にした。その激動は南部アフリカ全体を揺らす。
- 第一船団のボタニー湾到着できごとAD1788年1月26日囚人778人アメリカを失って、囚人を送る先がなくなったイギリスが、クックの報告した土地へ11隻を送った。囚人778人、海兵と家族、8か月の航海。ボタニー湾は水が悪く、北のポート・ジャクソン(シドニー湾)へ移って、1月26日に旗を立てた。「オーストラリア・デー」。先住民にとっては「侵略の日」。80年で16万人の囚人が送られ、天然痘と土地の収奪で先住民の人口は激減した。シドニー
- ペミカン布告できごとAD1814年1月8日北米の平原の人々は、バイソンの肉を薄く切って干し、砕いて、溶かした脂と混ぜ、皮の袋に詰めた。ペミカンと呼ばれるこの食べ物は、軽く、何年も持ち、少しで力が出る。毛皮を運ぶカヌーの漕ぎ手たちは、これなしでは遠い奥地まで行けなかった。その平原の真ん中に、ハドソン湾会社の後ろ盾で入植地が作られた。1814年、入植地の総督は、冬の食料が足りないとして、土地からペミカンを持ち出すことを禁じた。ペミカンに頼っていた競争相手の毛皮会社と、それを作っていたメティスの人々は怒り、二年後、血が流れた。レッドリヴァー植民地(位置は特定されていない)
- ムフェカネできごとAD1820年頃連鎖した破壊「粉砕」。1810年代から20年、南部アフリカの内陸で、社会が壊れて作り直された。シャカのズールーが軍制を変え(短い突き槍、年齢別の連隊、牛の角の陣形)、周りを併呑した。逃げた集団が別の集団を襲い、連鎖した。数十万人が死に、モショエショエのバソト、ムジリカジのンデベレ、ソシャンガネのガザなど、新しい国が生まれた。ボーア人が入ったのは、その後の空白の地だった。ブラッド・リバー

- 涙の道できごと1830年南部の五つの部族が、法律で西へ移された。チェロキーは最高裁で勝訴したが、大統領が判決を無視した。移動の途中で4000人以上が死んでいる。ニュー・エコタ

- モルモン教の始まりできごとAD1830年4月6日ソルトレークへの大移動ニューヨーク州の農家の青年ジョセフ・スミスは、天使に導かれて丘に埋まった金の板を見つけ、そこに古代のアメリカの民の歴史が刻まれていたと語った。彼がそれを訳したとする『モルモン書』は1830年3月に出版され、翌月6日、スミスは6人で教会を作った。新しい預言者を戴く教えは周囲の反発を買い、信徒はオハイオ、ミズーリ、イリノイと追われ、スミスは1844年に暴徒に殺された。ブリガム・ヤングに率いられた信徒は、西の荒野を越えてソルトレークの盆地に移り住んだ。一夫多妻をやめたのは1890年で、ユタはその後に州になった。フェイエット(ニューヨーク州)(位置は特定されていない)
- グレート・トレックできごとAD1836年牛車で内陸へイギリスがケープを取り(1806年)、英語を公用語にし、1834年に奴隷制を廃止した。オランダ系の農民(ボーア人)1万5000人が、牛車で内陸へ移った。ドラケンスバーグを越えて、ズールー王ディンガーンと衝突し、1838年のブラッド・リバーで、円陣を組んだ470人が数千のズールー兵を銃で撃った。川が赤くなった。オレンジ自由国とトランスヴァール。アパルトヘイトの神話の一つになった。ケープタウン
- 蒸気船の大西洋定期航路できごとAD1838年4月23日風待ちが消えた同じ日に2隻がニューヨークに着いた。小型のシリウス号(石炭が尽き、家具と予備の帆桁を焚いたと伝わる)と、ブルネル設計のグレート・ウェスタン号。石炭を積むほど船体は大きくなければならず、大きな船ほど効率がよい(体積は三乗、抵抗は二乗で増える)。ブルネルはそれを見抜いていた。風待ちが消え、航海が時刻表になった。1840年、キュナードが定期便を始めた。ニューヨーク
- 鳥の糞の時代できごとAD1840年代ペルー沖の小さな島々には、雨がほとんど降らないため、海鳥の糞が何千年も流されずに積み重なり、厚さ数十メートルの層になっていた。窒素とリンを多く含むこの糞は、畑に撒けば収穫が大きく増える。1840年代、ヨーロッパとアメリカの農家がこぞって買い求め、ペルーの国の収入の大半がこの糞になった。掘ったのは、中国から契約労働で連れてこられた人々で、鼻を突く粉塵の中で、逃げられない島で働かされた。糞は数十年で掘り尽くされる。そのあとを継いだのは、隣の砂漠の硝石をめぐる戦争だった。チンチャ諸島
- アイルランドのジャガイモ飢饉できごと1845年100万人が海を渡ったアンデス原産の作物と、アメリカから来た疫病菌が、島の人口を四分の一減らした。飢えた年も、食料は輸出され続けている。ダブリン
- 孤児列車できごと1854年9月19世紀の半ばのニューヨークには、親を失い、あるいは捨てられて、路上で新聞売りや靴磨きをして暮らす子どもが何万人もいた。牧師チャールズ・ローリング・ブレイスは、児童援助協会を作り、こうした子どもたちを西部の農村の家庭に送り出すことを考えた。1854年9月、最初の子どもたちが列車でミシガンへ向かった。子どもたちは途中の駅で並ばされ、農家の人々が引き取る子を選んだ。1929年までに二十万人を超える子どもが運ばれた。家族として愛された子もいれば、働き手として酷使された子もいた。この試みは、のちの里親の制度の源の一つになった。ニューヨーク
- ブラックバーディングできごと1863年6万人が騙されるか攫われるかして運ばれた太平洋の島々から、6万人以上が騙されるか攫われるかしてクイーンズランドやフィジーの農園へ運ばれた。奴隷貿易ではないという建前で、40年続いた。スバ

- 大陸横断鉄道の開通できごとAD1869年5月10日中国人労働者1万2000人東から西へユニオン・パシフィック、西から東へセントラル・パシフィック。中国人労働者1万2000人がシエラネバダにトンネルを掘った。ユタのプロモントリーで、金の犬釘を打った。電信で「DONE」。ニューヨークからサンフランシスコまで、6か月が1週間に。バッファローが撃たれ、平原の先住民の暮らしが終わり、西部が開かれた。プロモントリー

- 「失った友」の欄できごとAD1877年から奴隷制のもとでは、親子や夫婦が売られて別々の土地へ送られた。解放されたあと、人々はばらばらになった家族を探し始める。ニューオーリンズで出ていたメソジストの週刊紙『サウスウェスタン・クリスチャン・アドヴォケイト』は、「失った友」という欄を設け、尋ね人の広告を無料で載せた。母の名、売られた年、最後にいた農園の主の名。字の読めない人も多いので、牧師は日曜の説教壇からこの欄を読み上げるよう勧められた。二千五百件を超える広告が残っている。再会できたと知らせる便りは、ごくわずかである。ニューオーリンズ
- 中国人排斥法できごとAD1882年5月6日特定の民族を名指しした最初の締め出し金鉱と大陸横断鉄道の工事のため、十九世紀半ばのアメリカ西部には多くの中国人の労働者が渡った。景気が悪くなると、白人の労働者は、安い賃金で働く中国人に職を奪われていると訴え、暴動も起きる。1882年5月6日、中国人の労働者の入国を禁じる法律が成立した。特定の民族を名指しして移民を締め出す、アメリカで初めての法律である。禁止は延長され続け、中国が同盟国になった第二次世界大戦中の1943年にようやく廃止された。ワシントンD.C.
- エリス島の移民検査場できごとAD1892年1月1日金を払える者は、船の上で済んだ連邦政府が移民の審査を州から引き取り、ニューヨーク湾の島に施設を置いた。六十二年間で約1,200万人が通った。一等と二等の船客は船上で済ませ、三等船客だけが上陸させられる。医師が階段を上る様子を見て、息切れや跛行を探した。目を金具でめくって、失明に至るトラコーマを見る。問診が二十九問。返されたのは全体の約2%だが、その多くが病と、公費に頼るおそれである。今日そこは、移民の記念館になっている。エリス島
- デュランド・ラインできごとAD1893年11月12日部族と村と家族を切ったイギリス領インドの外務長官モーティマー・デュランドと、アフガニスタンのアブドゥル・ラフマーン・ハーンが、境界を定める協定に署名した。2600キロ。目的は、ロシアとの間に緩衝地帯を作ることである。線は、パシュトゥーン人の居住域を、真ん中で切った。部族も、村も、時には家族も分かれた。アフガニスタンは、独立後、この線を認めていない。パキスタンは国境と主張する。地図の上の一本の線が、130年、係争であり続けている。カブール
- シベリア鉄道の開通できごとAD1904年囚人と農民と中国人モスクワからウラジオストクまで9289キロ(1904年は満洲の東清鉄道を通り、ロシア領だけの全線は1916年)。1891年、皇太子ニコライがウラジオストクで鍬入れした(大津事件の直後)。囚人と農民と中国人の労働。永久凍土、バイカル湖(初めは船で渡し、1904年に環状線)。日露戦争に間に合わせるために突貫した。ロシアが東を「領土」として持てるようになった。ヨーロッパとアジアを7日で結ぶ、いまも世界最長の鉄道。ウラジオストク
- 盗まれた世代できごと1910年国の中で、家族から引き離す移動先住民の子どもが、同化のために家族から引き離され施設や里親に預けられた。数は分かっていないが、10人に1人から3人に1人と推定される。2008年に首相が謝罪した。シドニー
- タイタニックの沈没できごとAD1912年4月15日2224人のうち1514人処女航海の4日目、夜11時40分に氷山と接触し、2時間40分で沈んだ。2224人のうち1514人が死んだ。救命艇は定員の半分ぶんしかなく、法令はそれを満たしていた(船の大きさでなく総トン数で決める古い規則)。無線技士は氷山の警告を「取り込み中」と断っていた。翌年の海上人命安全条約(SOLAS)で、全員分の救命艇、無線の24時間当直、氷山監視が定められた。タイタニック沈没地点

- 旅券の規格できごとAD1920年10月21日身分証明の書状は古くからある。しかし十九世紀のヨーロッパは、鉄道と自由貿易のもとで、旅券をむしろ廃止する方向へ動いていた。第一次大戦が、それを逆転させる。スパイと脱走兵と敵国人を選り分けるため、各国が旅券と査証を導入した。戦後も戻らなかった。1920年、国際連盟がパリで会議を開き、大きさ、頁数、記載事項、写真、そして仏語併記を定める。国籍が、国境を越えるための条件になった。持たない者は、動けなくなった。パリ
- ナンセン・パスポートできごとAD1922年どこにも帰れない人々第一次大戦とロシア革命の後、国籍を失った人が数百万人いた。旅券がなければ国境を越えられず、働けず、しかしどこにも帰れない。国際連盟の難民高等弁務官フリチョフ・ナンセン(探検家である)が、無国籍者に発行する身分証を作らせた。52か国が受け入れ、45万人以上が使った。ストラヴィンスキー、シャガール、ラフマニノフ、ナボコフが持った。旅券という近代の装置が、逆に、旅券を持てない人を作り出したことへの、最初の応急処置だった。ジュネーヴ

- ローザンヌ条約できごとAD1923年7月24日住民交換160万人セーヴル条約(1920年、オスマンを分割)をケマルが戦争で破棄させた。トルコ共和国の国境。アナトリアとトラキア。治外法権の廃止。ギリシアとトルコの住民交換、宗教を基準に、120万人と40万人。生まれた土地を出た。クルドとアルメニアの国は、なくなった。3か月後、共和国。ローザンヌ

- 『ラプソディ・イン・ブルー』できごとAD1924年2月12日移民の子の音楽ニューヨークのイオリアン・ホール。「現代音楽の実験」と題した演奏会。ガーシュウィンは3週間で書き、ピアノの部分は本番で即興した。冒頭のクラリネットの滑り上がりは、リハーサルで奏者がふざけて吹いたのを、そのまま採用したもの。ジャズの語法を管弦楽に持ち込んだ。ロシア系ユダヤ移民の子で、15歳で学校をやめ、楽譜出版社で新曲を弾いて聞かせる仕事に就いた。38歳、脳腫瘍で死んだ。ニューヨーク

- カザフの飢饉できごと1930年100万人が国境を越えて逃げた遊牧民を強制的に定住させ、家畜を集団化した結果、150万人前後が死んだ。カザフ人の人口の4割近くにあたる。長く公には語られなかった。アラル海(位置は特定されていない)
- ダストボウルできごとAD1935年数十万人が土地を捨てた南部大平原は、もともと丈の深い草の草原である。根が土を掴んでいる。第一次大戦の小麦の高値と、トラクターの普及で、その草地が一斉に耕された。1930年代、旱魃が来た。裸の土が、風に飛んだ。1935年4月14日の黒い日曜日、高さ数百メートルの砂の壁が来て、昼が夜になった。塵はシカゴを越えてワシントンまで届いた。数十万人が土地を捨てた。以後、土壌保全局が作られ、等高線耕作と防風林が推奨された。土は、資源であり、失えば戻らない。南部大平原
- キンダートランスポートできごとAD1938年12月2日1938年11月の水晶の夜のあと、イギリスは、ナチ・ドイツの支配下にいるユダヤ人の17歳以下の子どもを、親を伴わずに受け入れることを決めた。1938年12月から第二次世界大戦が始まる翌年9月まで、ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキアなどから、およそ一万人の子どもが列車と船でイギリスへ渡った。受け入れの費用は民間が保証し、子どもたちは里親の家や施設に引き取られた。駅のホームで親と別れた子どもの多くは、二度と親に会えなかった。親たちは、その後ホロコーストで殺された。ロンドン
- シベリア抑留できごとAD1945年1945年8月、ソ連は日本に宣戦し、満洲や朝鮮北部、樺太にいた日本の兵士と民間人を捕らえた。戦争が終わったあと、およそ五十数万人がシベリアなどの収容所に送られ、鉄道や炭鉱や森林で働かされる。零下数十度の寒さと飢えと重労働で、五万人以上が死んだとされる。帰国は数年がかりで進み、最後の人びとが戻ったのは1956年だった。戦争が終わってから始まった、もう一つの戦争の被害である。ハバロフスク
- 引き揚げできごとAD1945年敗戦のとき、日本の外には、兵士と民間人を合わせて六百万人を超える日本人がいた。満洲や朝鮮や台湾、南の島々から、船で本国へ戻る引き揚げが始まる。満洲からの逃避行では、飢えと病と襲撃で多くの人が死に、親と別れて中国に残された子どももいた。舞鶴の港は、1958年まで引き揚げ船を受け入れ続けた。帰らない息子を岸壁で待ち続けた母の歌が、はやった。帝国の終わりは、人の大移動でもあった。舞鶴
- ラドクリフ・ラインできごとAD1947年8月17日1000万人が移動したインドの分割にあたり、境界の画定を任されたのは、シリル・ラドクリフという弁護士だった。彼はインドへ行ったことがなかった。中立であるという理由で選ばれた。与えられた期間は5週間。彼は古い地図と国勢調査の数字を見て、ベンガルとパンジャーブに線を引いた。線が公表されたのは独立の2日後である。それまで、誰も自分がどちらの国になるか知らなかった。1000万人以上が移動し、数十万人から100万人以上が死んだ。彼は報酬を受け取らず、作業の記録を焼いた。ロンドン
- イスラエルの建国できごとAD1948年5月14日イギリスの委任統治が終わる前日の1948年5月14日、ダヴィド・ベン=グリオンがテルアビブでイスラエルの独立を宣言した。ホロコーストを生き延びたユダヤ人にとって、ようやく持てた自分たちの国である。翌日、周りのアラブの国々が攻め込み、戦争になる。戦いのなかで、七十万人ほどのパレスチナのアラブ人が故郷を逃れ、あるいは追われた。彼らはこれをナクバ、大災厄と呼ぶ。同じ一日が、一方には独立の日、もう一方には追放の日として記憶されている。テルアビブ
- ウィンドラッシュ号できごとAD1948年6月22日呼ばれて来た人が、七十年後に証明を求められた戦後のイギリスは人手が足りなかった。1948年6月22日、カリブ海のジャマイカなどから、八百人を超える人を乗せた船ウィンドラッシュ号がロンドン近くの港に着く。彼らは帝国の臣民としてイギリスの国籍を持っていた。病院や交通の仕事を担ったが、部屋を借りようとすると断られることも多かった。2018年、この世代の人びとが書類を持たないとして不法滞在の扱いを受け、職や医療を失い、国外へ送られた例まであったことが明らかになり、大臣が辞任した。ティルベリー
- 国連難民高等弁務官事務所と難民条約できごとAD1950年12月14日迫害の待つ国へ帰さない第二次世界大戦のあと、ヨーロッパには、故郷に帰れない難民が百万人以上残っていた。1950年12月14日、国際連合の総会は、難民を国際的に保護する国連難民高等弁務官事務所、UNHCRを作ることを決めた。3年で仕事を終える予定の小さな事務所だった。翌1951年に結ばれた難民条約は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団への所属、政治的な意見を理由に迫害を受けるおそれがあるため国の外にいる人を難民と定め、迫害の待つ国へ送り返してはならないとした。難民はその後も増え続け、UNHCRは世界最大級の人道の機関になった。ジュネーヴ
- 難民条約できごとAD1951年7月28日第二次大戦後、ヨーロッパに数百万の帰る場所を持たない人がいた。二十六か国がジュネーヴに集まり、難民を定義し、その保護を条約にした。核心は第三十三条のノン・ルフールマンである。迫害されるおそれのある地へ、追い返してはならない。当初は1951年以前のヨーロッパの事件に限られ、1967年の議定書がその制限を外した。定義は人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団への帰属による迫害である。気候と貧困は、そこに入っていない。ジュネーヴ
- ナイノア・トンプソン人物AD1953年3月11日 – ?ポリネシアの拡散が漂流でなかったことを実証した計器を使わずにハワイからタヒチへ渡った。ポリネシアの航海術が実際に機能することを、実演して示す。
- 出身国の割り当てをやめる移民法できごとAD1965年10月3日人種で分けない考えが、国境の門に及んだ1924年以来、アメリカの移民の受け入れは、出身国ごとの割り当てで決められていた。北西ヨーロッパの人を多く、南東ヨーロッパの人を少なく、アジアの人はほとんど入れない仕組みである。1965年10月3日、ジョンソン大統領は、自由の女神の足もとで、この割り当てを廃止する法律に署名した。家族の呼び寄せと技能を重んじる形に変わる。大きな変化はないと言われていたが、その後、アジアと中南米からの移民が大きく増え、アメリカの人口の顔ぶれを変えた。ニューヨーク
- サイゴン陥落できごとAD1975年4月30日アメリカ軍が引き揚げてから二年、北ベトナムの軍は南への攻勢を強め、南ベトナムの軍は崩れていった。1975年4月、アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで人びとを運び出す最後の脱出が行われる。4月30日、北の戦車が大統領官邸の門を突き破り、南ベトナムは降伏した。ベトナムは一つの国になり、サイゴンはホーチミン市と改められる。その後、多くの人が小さな船で国を逃れ、海で命を落とした。サイゴン
- ホクレア号のタヒチ航海できごとAD1976年計器を使わない航海術で、ハワイからタヒチへ渡った。ハワイでは既に失われていた技術を、ミクロネシアの最後の航海者から学び直している。拡散が偶然の漂流でなかったことの実証になる。ハワイ(位置は特定されていない)
- 残留孤児の訪日調査できごとAD1981年3月2日名前も村も覚えていない人が、肉親を探しに来た1945年8月、ソ連軍が満洲に入り、開拓団の日本人は逃げまどった。途中で親と死別し、あるいは生きるために預けられた子どもたちが、中国の家庭で育てられた。国交が正常化してから九年後の1981年3月、中国に残された孤児四十七人が、肉親を探しに初めて集団で日本へ来た。名前も、生まれた村も覚えていない人が多い。手がかりは、預けられたときの服や、かすかな記憶や、体の傷だった。報道が顔と特徴を伝え、心当たりのある人が名乗り出た。この回では三十人の身元が分かった。調査はその後も続いたが、分かったのは三割ほどにとどまる。東京
- 難民キャンプできごとAD1991年仮設という前提が、恒久の状態を作るソマリアの中央政府が崩れ、国境を越えた人々のために、ケニア北東部のダダーブに仮の居住地が設けられた。想定は九万人、数年である。三十年を超えて存続し、一時は五十万人近くが暮らした。そこで生まれ、そこで育ち、外を知らないまま成人した人がいる。移動の自由は制限され、働くことも難しい。仮設という前提が、恒久の状態を作る。世界の難民の多くが、平均して十年を超えて、こうした場所にいると推計されている。ダダーブ(位置は特定されていない)
- チャベス政権できごとAD1999年2月2日石油の富が一部の人にしか届かないベネズエラで、かつてクーデターに失敗した元軍人ウーゴ・チャベスが、貧しい人びとの支持を集めて大統領に選ばれた。1999年2月2日に就任し、ボリバルの名を掲げた革命を唱える。石油の収入で、貧しい地区に診療所や学校を作った。一方で、憲法を改めて権力を集め、批判的な放送局を閉じた。石油の値が下がると経済は崩れ、後継の政権のもとで、国民の数百万人が国外へ逃れることになった。カラカス
- シリア内戦できごとAD2011年アラブの春が広がった2011年3月、シリア南部の町ダルアーで、壁に政権を批判する落書きをした少年たちが捕らえられ、拷問された。抗議は全国に広がり、アサド政権は軍で応じた。反政府の側はいくつもの勢力に分かれ、イスラム国も入り込み、ロシアとイランは政権を、トルコやアメリカは反政府の側を支えた。五十万人前後が死に、人口の半分が家を追われたとされる。国外に逃れた人びとの波は、ヨーロッパの政治まで揺るがした。2024年、アサド政権は崩れた。ダルアー
- ロヒンギャ危機できごとAD2017年8月国籍を持たない民ミャンマー軍がラカイン州で村を焼き、70万人がバングラデシュに逃げた。国籍を持たない民。国連は「民族浄化の教科書的な例」と言い、国際司法裁判所に訴えられた。難民は帰っていない。コックスバザール
- アーサー王人物物語は実在する6世紀のブリトン人の指導者、と言えばそこまで。ギルダスは名を書かず、ネンニウスは12の戦いを挙げ、ジェフリー・オブ・モンマスが12世紀に王にし、フランスの詩人が円卓と聖杯とランスロットを足し、マロリーが15世紀に一つにした。実在したかは分からない。物語は実在する。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
キリスト教のひろがり17件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。帝国と独立16件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。ローマ人の物語13件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。草原の帝国10件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。差別の歴史9件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。主権はだれのものか8件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史8件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。東ローマ千年7件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。二つの大戦6件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。ヴァイキング6件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ6件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。技術と産業5件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。交易路とお金5件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。『ローマ人の物語』で読むローマ5件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。探検と発見4件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。都市の歴史4件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。交通と旅の歴史4件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。感染症と人類3件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史3件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。支え合いの歴史3件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。海の歴史3件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。大航海時代2件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。インドと仏教2件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。冷戦2件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。中国の王朝2件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。冷戦のあと2件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。表現の歴史2件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。誰が書き残したか2件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『暴力と不平等の人類史』で読む格差2件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。働くことの歴史2件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。近代と宗教2件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。子どもの歴史2件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。アレクサンドロスの東方遠征1件を共有 / 20歳で王になった男が、11年でギリシアからインダス川まで到達した。そして32歳で死ぬ。共和政の終わり1件を共有 / 500年続いた仕組みが、なぜ一人の男に明け渡されたのか。古代オリエント1件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。朝鮮半島1件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。イスラム世界1件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。考えることの歴史1件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。日本の古代1件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『文明崩壊』で読む歴史1件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『1491』『1493』で読む新大陸1件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『砂糖の世界史』で読む世界商品1件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。