概要
救貧院で生まれた孤児が、粥のおかわりを求めて「もう少しください」と言い、追い出され、ロンドンの窃盗団に拾われる。1834年の新救貧法(貧民を救貧院に押し込め、夫婦を分け、労働を強いる)が施行された直後の連載。月刊の分冊で、毎号、街が続きを待った。作者は12歳のとき、父が債務者監獄に入って、靴墨工場で働いた。そのことを、生涯、誰にも話さなかった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
チャールズ・ディケンズAD1812年2月7日–AD1870年6月9日 · 書いた本文
1834年、新救貧法(貧民法改正法)。それまで、貧しい人は自分の教区で援助(院外救済。金や食糧の支給)を受けられた。新法は、それを原則としてやめ、救貧院(ワークハウス)に入ることだけを援助とした。
救貧院。夫婦を分け、親と子を分け、制服を着せ、麻をほぐし、骨を砕き、石を割らせる。食事は最小限。外出は許可制。「監獄より悪くあってはならないが、最も貧しい労働者の暮らしより良くあってはならない」(劣等処遇の原則)。そうすれば、人は救貧院を避けて働くだろう、という設計。ベンサムの功利主義とマルサスの人口論が下敷きにあった。
1837年2月から1839年4月、『ベントリーズ・ミセラニー』誌に連載。ディケンズ25歳。前作『ピクウィック・クラブ』が大当たりした直後。
冒頭。「ある町の救貧院で」(初期の版では町の名も年も伏せられている)、一人の女が男の子を産んで、名前も言わずに死ぬ。教区の役人バンブル氏が、アルファベット順に名前をつける。T の順番だったので、トゥイスト。
第2章。9歳。子供たちは、薄い粥を1日3杯。骨が皮に張り付いている。ある夜、くじで、誰かがおかわりを求めることになった。オリヴァーが当たった。
「Please, sir, I want some more.(すみません、もう少しください)」
給仕長が卒倒し、理事会が召集され、オリヴァーは「絞首刑になるだろう」と予言され、5ポンドの札付きで売りに出される。
その後。葬儀屋の徒弟(棺の中で寝る)、ロンドンへの7日の徒歩、そしてフェイギン(盗品を扱う老人)の一味。ドジャー(アートフル・ドジャー)、ビル・サイクス(強盗)、ナンシー(サイクスの情婦。オリヴァーを助けようとして、サイクスに撲殺される)。
ディケンズは、フェイギンを本文中で「ユダヤ人(the Jew)」と繰り返し呼んだ。後年、ユダヤ人の友人エリザ・デイヴィスから抗議の手紙を受け、1867年の改訂版で、後半のその呼称の多くを「フェイギン」に直した。彼は『我らが共通の友』で、善良なユダヤ人の人物を書いた。
連載の効果。月刊分冊(1シリング)で、街の人が続きを待った。字を読める者が、読めない者に読み聞かせた。ナンシーが殺される回の後、ディケンズのもとに手紙が殺到した。
彼自身の記憶。1824年2月、12歳。父ジョンが借金でマーシャルシー債務者監獄に収監された。当時の慣習で、家族も一緒に監獄内で暮らした。チャールズだけが外に下宿して、ウォレンの靴墨工場で働いた。1日10時間、瓶に紙を巻き、糸で縛り、ラベルを貼る。週6シリング。3か月から1年(記憶が食い違う)。
父の遺産で釈放された後も、母は彼を工場で働かせ続けようとした。父が学校へ戻した。「私は、あの時、母が私を工場に戻そうと熱心だったことを、決して忘れられない」。
彼はこのことを、妻にも子にも話さなかった。1847年頃、友人ジョン・フォースターに打ち明けて、自伝の断片を書いた。フォースターが、彼の死後の伝記(1872年)で公表した。
その記憶が、彼の小説の中に、何度も出てくる。孤児、監獄、債務、そして、大人に見捨てられた子供。
作品。『クリスマス・キャロル』(1843年。5週間で書いた。この一作が、イギリスのクリスマスの祝い方を変えたと言われる)。『デイヴィッド・コパフィールド』(1850年。最も自伝的)。『荒涼館』(1853年。大法官裁判所の永遠に終わらない訴訟)。『ハード・タイムズ』(1854年。工業都市と功利主義の教育。「事実だけを教えよ」)。『二都物語』(1859年)。『大いなる遺産』(1861年)。
晩年、公開朗読で全国とアメリカを回った。特に、ナンシーの殺害の場面の朗読は、聴衆が失神するほどの迫力だったと伝えられ、彼の脈拍を測った医師が中止を勧めた。彼はやめなかった。
1870年6月9日、58歳、脳卒中。ウェストミンスター寺院の「詩人の隅」に葬られた(本人は簡素な葬儀を望んでいた)。