人物

ジェフリー・チョーサー

Geoffrey Chaucer
AD1343年頃 – AD1400年10月25日(享年57・推定)
イングランド王国重要度 4

概要

ワイン商人の子で、宮廷の小姓、フランスで捕虜、イタリアへ使節、税関の役人、下院議員。ダンテとボッカッチョを読んで、英語で書いた。ウェストミンスター寺院に葬られ、そこが「詩人のコーナー」になった。

関わったできごと(1)

『カンタベリー物語』AD1387年頃 · 作者

本文

ジェフリー・チョーサーは1343年頃、ロンドンのテムズ川沿い、ヴィントリーと呼ばれる地区で生まれた。父ジョンは裕福なワイン商人で、王の酒蔵の役人も務めた。家の姓は、フランス語で靴屋を意味する語に由来すると考えられている。当時のイングランドの宮廷と上流社会はフランス語を話し、公文書はラテン語で書かれた。英語は庶民の言葉だった。

ジェフリー・チョーサー
ジェフリー・チョーサーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼の生涯は、詩よりも役所の記録によく残っている。最初に名が出てくるのは1357年、エドワード3世の息子ライオネルの妃、アルスター伯爵夫人エリザベスの家の会計簿である。小姓として仕えた少年に、上着と半ズボンと靴を買い与えた記録だ。1359年、百年戦争のさなかに王の軍に加わってフランスへ渡り、ランス近くで捕虜になった。翌1360年3月、身代金として16ポンドが支払われ、エドワード3世もその一部を負担した。

1366年頃、王妃の女官フィリッパ・ロエットと結婚した。フィリッパの妹キャサリン・スウィンフォードは、のちに王の息子ジョン・オブ・ゴーントの愛人となり、最後には妻となった。その子孫からテューダー朝の王たちが出る。チョーサーはこの縁で、王族の有力者ゴーントの後ろ盾を得た。1360年代の終わりには「王の従者」として宮廷に仕え、外交の使節としてたびたび大陸へ派遣された。

チョーサーの肖像(写本の細部)
チョーサーの肖像(写本の細部)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

決定的だったのは1372年から73年のイタリア行きである。ジェノヴァとの通商交渉のために出向き、フィレンツェにも足を延ばした。当時のイタリアでは、ダンテ・アリギエーリの『神曲』がすでに古典となり、ペトラルカとボッカッチョが存命で、俗語で書かれた文学が花開いていた。彼が二人に会ったかどうかは分からないが、その作品を読んだことは、後の詩に明らかに表れている。ボッカッチョの物語詩を下敷きにした『トロイルスとクリセイデ』や、『カンタベリー物語』の中の何話かがそうである。

1374年、彼はロンドン港の羊毛税関の監査官に任じられた。羊毛はイングランド最大の輸出品で、その関税は王の重要な財源だった。帳簿は自分の手で書くよう求められ、住まいとして市の東の門アルドゲートの上の部屋を与えられた。昼は税関で帳簿をつけ、夜は家に帰って本を読んだ。詩『名声の館』で、語り手は仕事の計算を終えると家に帰り、石のように黙って本の前に座っている、と自分を描いている。

巡礼者としてのチョーサー(『カンタベリー物語』エルズミア写本、15世紀初頭)
巡礼者としてのチョーサー(『カンタベリー物語』エルズミア写本、15世紀初頭)Wikimedia Commons unknown artist, 1400-1410, England · Public domain

1380年の文書に、セシリー・ショームペインという女性が、チョーサーに対する「ラプトゥス」の訴えを取り下げたという記録がある。ラテン語のこの語は強姦とも誘拐とも読めるため、長く議論が続いてきた。2022年に新たな文書が見つかり、これが雇用契約をめぐる争い、つまり別の雇い主のもとから使用人を引き抜いたことに関わる訴えだった可能性が示されたが、決着はついていない。

1380年代、彼はケント州に移り、治安判事となり、1386年には州の代表として議会に出た。1389年からは王の工事監督としてウェストミンスター宮殿やロンドン塔などの修繕を指揮したが、その職務中、工事費を運んでいて何度か強盗に遭っている。1399年、リチャード2世が廃位されてゴーントの子ヘンリー4世が即位すると、彼は新王に年金の継続を願う戯れの詩『財布への嘆き』を贈った。財布よ、お前が軽くなったので私は嘆く、という歌い出しである。年金は認められた。同じ年の暮れ、ウェストミンスター寺院の庭にある家を53年の契約で借りたが、それから1年足らずの1400年に死んだ。10月25日という命日は、のちに建てられた墓碑によるものである。

晩年の十数年をかけて書いたのが『カンタベリー物語』である。ロンドン南岸の宿に集まった30人ほどの巡礼が、カンタベリーへの道中、退屈しのぎに一人ずつ物語を語り合う。騎士、粉屋、尼僧院長、免罪符売り、5度結婚したバースの女房。身分も職業も違う人々が、それぞれの口調で、騎士道物語、下品な笑い話、聖人伝、動物寓話を語る。冒頭の「4月がその甘いにわか雨で」の一節は、英語で書かれた詩の中でも最もよく知られた書き出しの一つである。全員が往復で4話ずつ語るという構想は、20あまりの話を残して未完に終わった。巻末には、世俗の作品のうち罪につながるものを取り消すという「撤回文」が置かれている。本心なのか、当時の作法なのかは議論がある。

『カンタベリー物語』に関わる図版:Canterbury Tales characters around table — traced
『カンタベリー物語』Wikimedia Commons DemonDays64 · Public domain

チョーサーの死後、作品は写本で広まった。印刷術をイングランドに持ち込んだキャクストンは、1476年頃『カンタベリー物語』を最初期の出版物の一つとして刊行した。17世紀の詩人ドライデンは彼を「英詩の父」と呼んだ。同時代にはガワーやラングランドといった英語の詩人もいたが、宮廷人の洗練と庶民の言葉を一つの作品に収めたチョーサーが、その後の英語文学の出発点とみなされた。

彼がウェストミンスター寺院に葬られたのは、詩人としてではなく、寺院の敷地に住んでいた王の役人としてだった。1556年、崇拝者が南の翼廊に新しい墓碑を建てた。1599年、詩人スペンサーがその近くに葬られ、以後、そこに文人を葬り、記念することが習わしになった。いまの「詩人のコーナー」の始まりである。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1343年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →