できごと

グレゴリオ聖歌の成立

Gregorian chant
AD800年頃
重要度 4
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)北極圏の海獣狩猟民スラヴ系の諸部族ハザールペルミ系の人びとサーミフランク王国東ローマ帝国アヴァールアグラブ朝マクリア後ウマイヤ朝ノルマン人イドリース朝FinnsVepsMagyars第一次ブルガリア帝国Kareliansバルトの諸部族Rus' Khaganateデーン人Swedes and GothsIrlandaMerciaMariアストゥリアス王国EstsCzechsLombard duchiesAD800年頃パリ
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概要

名はグレゴリウス1世(在位590〜604)に由来するが、彼が作ったのではない。カロリング朝が、フランク王国の礼拝をローマ式に統一しようとして、ローマの聖歌とガリアの聖歌が混ざり、9世紀に一つの体系になった。「聖霊が鳩の姿で教皇の耳に囁いた」という絵が、権威づけのために描かれた。単旋律、無伴奏、ラテン語、拍節がない。この膨大な旋律を覚えるために、記譜法が生まれた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

キリスト教の礼拝では、初めから歌が歌われていた。詩編を唱え、祈りの言葉に節をつける。だがその旋律は、長いあいだ書き留められなかった。先輩の歌い手から耳で覚え、口から口へ伝える。そのため、地域ごとに違う歌が育った。ローマにはローマの聖歌があり、ミラノにはアンブロシウスの名を冠した聖歌、スペインにはモサラベの聖歌、そしてフランク人の住むガリアにはガリアの聖歌があった。

それを一つにまとめようとしたのは、フランク王国である。754年、ローマ教皇がランゴバルド人に脅かされて、アルプスを越えてフランク王ピピンを訪ね、助けを求めた。教皇と手を結んだピピンは、ローマ式の礼拝を自分の国に取り入れ始める。息子のカール大帝はそれを徹底した。789年の勅令は、聖職者にローマのやり方で歌うことを学べと命じている。

フィンランドの守護聖人ヘンリクを讃える入祭唱「Gaudeamus omnes」(14〜15世紀の『アボエンセ聖歌集』)
フィンランドの守護聖人ヘンリクを讃える入祭唱「Gaudeamus omnes」(14〜15世紀の『アボエンセ聖歌集』)Wikimedia Commons Public domain

理由は信仰だけではなかった。カールの帝国は、言葉も慣習も違う多くの民を抱えていた。同じ祈りの言葉、同じ所作、同じ歌で礼拝を揃えることは、広い国を一つに束ねる手段でもあった。ローマから歌い手が招かれ、フランクの聖歌隊を教えた。

ところが、耳から耳へ伝わるあいだに、ローマの歌とフランクの歌は混ざり合った。ローマの旋律の骨組みに、フランクの歌い方が肉付けされる。北の修道院の学者たちは、膨大な旋律を8つの旋法に分類し、整理した。こうしてできた新しい聖歌が9世紀に一つの体系として固まり、やがてアルプスを南へ越えて、ローマに逆流する。ローマ自身の古い聖歌は押しのけられ、いまはいくつかの写本に残るだけになった。私たちがグレゴリオ聖歌と呼ぶのは、このフランクで作り直された歌のことである。

伝説では、聖霊を表象する鳩がグレゴリウス1世に霊感を与え、グレゴリオ聖歌を書き取らせた。
伝説では、聖霊を表象する鳩がグレゴリウス1世に霊感を与え、グレゴリオ聖歌を書き取らせた。Wikimedia Commons Hartker of Sankt-Gallen. See this book for information on the manuscript. · Public domain

名の由来のグレゴリウス1世は、6世紀の終わりから7世紀の初めの教皇で、彼がこの歌を作ったわけではない。9世紀に書かれた伝記などから、グレゴリウスが聖歌を定めたという伝説が広まった。聖霊が鳩の姿で教皇の肩にとまり、耳もとで旋律をささやき、教皇がそれを書記に書き取らせる。この場面は聖歌の写本に何度も描かれた。フランクで作られた歌は、名高い教皇と聖霊の権威によって、ローマの正統な歌として受け入れられることになった。

歌そのものは、一つの旋律だけを、伴奏なしで、ラテン語で歌う。決まった拍子は無く、言葉の抑揚と区切りに従って流れる。音の幅は狭く、修道院では男の声で、女子修道院では女の声で歌われた。一つの音節に一つの音をあてる素朴な歌もあれば、「アレルヤ」の最後の母音の上で何十もの音を連ねる華やかな歌もある。

グレゴリオ聖歌の記されたミサ典書
グレゴリオ聖歌の記されたミサ典書Wikimedia Commons Georges Jansoone · CC BY 2.5

問題は、量だった。教会の一年の祭日と日々の祈りに合わせた歌は、数千曲にのぼる。それを口伝えだけで、帝国のどこでも同じに歌わせるのは無理がある。9世紀の後半、写本の歌詞の上に小さな記号が書き込まれ始めた。ネウマと呼ばれるこの記号は、音が上がるか下がるか、いくつの音を連ねるかを示す。ただし正確な音の高さは示さない。すでに知っている旋律を思い出すための覚え書きだった。

11世紀、イタリアの修道士グイード・ダレッツォが、横に線を引くことを広めた。線の上と、線と線の間に音を置けば、高さが目に見える。彼はまた、聖ヨハネを讃える歌の各行が一音ずつ高くなることを利用して、その頭の音節「ウト、レ、ミ、ファ、ソル、ラ」で音の高さを覚えさせた。いまのドレミの元である。グイードは、これまで10年かかった歌い手の修業が1、2年で済む、と自分の方法の効き目を誇った。歌ったことのない旋律を、楽譜を見て歌えるようになったのである。

Iubilate deo universa terra 無音高ネウマにより、詩篇詩句詠唱法を示す
Iubilate deo universa terra 無音高ネウマにより、詩篇詩句詠唱法を示すWikimedia Commons Public domain

書き留められるようになった旋律の上には、別の声を重ねることができる。12世紀にはパリで、聖歌を土台にした多声の音楽が花開いた(ノートルダム楽派)。西洋の音楽が一つの旋律から離れていく道は、聖歌を記録しようとしたところから始まった。

聖歌そのものはその後も歌われ続けたが、時代とともに飾りが加えられ、拍子がつけられ、元の姿から離れていった。19世紀、フランスのソレム修道院の修道士たちが、各地の中世の写本を比べて元の旋律を復元する仕事に取り組んだ。1903年、教皇ピウス10世は教会音楽の手本をグレゴリオ聖歌とし、その後ソレムの研究をもとにした公式の版が作られた。

無記譜線のネウマ譜によるグレゴリオ聖歌(ザンクト・ガレン写本359)
無記譜線のネウマ譜によるグレゴリオ聖歌(ザンクト・ガレン写本359)Wikimedia Commons Schreiber in Sankt Gallen. · Public domain

1960年代の第二バチカン公会議で、ミサを各国の言葉で行うことが認められると、ラテン語の聖歌は多くの教会の日常から退いた。ところが1990年代、スペインのシロス修道院の修道士たちが歌う聖歌の録音が世界中で数百万枚売れ、思わぬ流行になった。1000年以上前の帝国の統一のために整えられた歌が、静けさを求める現代の人々の耳に届いたのである。

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