概要
名はグレゴリウス1世(在位590〜604)に由来するが、彼が作ったのではない。カロリング朝が、フランク王国の礼拝をローマ式に統一しようとして、ローマの聖歌とガリアの聖歌が混ざり、9世紀に一つの体系になった。「聖霊が鳩の姿で教皇の耳に囁いた」という絵が、権威づけのために描かれた。単旋律、無伴奏、ラテン語、拍節がない。この膨大な旋律を覚えるために、記譜法が生まれた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
教会の歌は、初め、書かれなかった。覚えて、口から口へ伝えた。
地域ごとに違う歌があった。ローマにローマの歌(古ローマ聖歌)、ミラノにアンブロシウス聖歌、スペインにモサラベ聖歌、ガリアにガリア聖歌、ベネヴェントにベネヴェント聖歌。
754年、教皇ステファヌス2世がフランク王国を訪ねた。ピピンは、ローマの典礼を自国に取り入れることにした。カール大帝がそれを徹底した。789年の勅令。「すべての聖職者は、ローマのやり方で歌うことを学べ」。
理由は、信仰だけではない。広い帝国を、同じ言葉と、同じ所作と、同じ歌で束ねる。統一の道具である。
ローマから歌い手が呼ばれ、フランクの聖歌隊に教えた。しかし、耳から耳へ伝わるあいだに、両者は混ざった。ローマの旋律の骨に、フランクの歌い方が乗った。8つの旋法(教会旋法)の体系に整理されたのも、この北方での作業である。
こうしてできた歌が、9世紀に一つの体系として固まり、南へ逆流して、ローマ自身の古い聖歌を駆逐した。
名前。グレゴリウス1世(在位590〜604)が定めた、という伝説が9世紀に作られた。聖霊が鳩の姿で教皇の肩に止まり、耳に旋律を囁いている——その絵が、聖歌集の巻頭に何度も描かれた。権威は、古く、聖なる起源を要る。
実際にグレゴリウス1世が何をしたかは、はっきりしない。
**性質**。単旋律。伴奏なし。ラテン語。拍節がない(言葉の抑揚に従う)。音域が狭い。男声(修道院では男声、女子修道院では女声)。
三つの様式。シラビック(一音節に一音)、ネウマティック(一音節に数音)、メリスマティック(一音節に何十音も。アレルヤの終わりなど)。
**そして、記譜**。
この膨大な旋律(教会暦の一年分。数千曲)を、口伝だけで正確に保つのは無理だった。9世紀後半、写本の歌詞の上に、小さな記号が書かれ始める。ネウマ。「上がる」「下がる」「二つ上がって下がる」。音の高さは示さない。既に知っている旋律を思い出すための、覚え書き。
11世紀、アレッツォのグイードが、線を引いた。線の上の音、線と線の間の音。高さが、目に見える形で定まった。そして、ut re mi fa sol la(聖ヨハネ賛歌の各行の頭の音節から取った)。
これで、歌ったことのない旋律を、楽譜から歌えるようになった。「教師が10年かかって教えたことが、いまは1年で済む」とグイードは書いた。
その先。書けるようになった旋律の上に、別の声を重ねられるようになる。オルガヌム。ポリフォニー。西洋音楽が、単旋律から離れていく。
グレゴリオ聖歌そのものは、その後、ずっと歌われ続けたが、装飾され、拍が付けられ、原形から遠ざかった。19世紀、フランスのソレム修道院が中世写本を集めて復元にあたり、1903年、教皇ピウス10世がその版を公式のものとした。
1963年の第二バチカン公会議で、典礼に各国語が認められ、ラテン語の聖歌は日常から退いた。
1994年、スペインのシロス修道院の聖歌の録音が、世界で600万枚売れた。