ルクレティウス『事物の本性について』

概要
世界は原子と空虚でできていて、神は関わらず、死は恐れるに足りない。エピクロスの教えを詩にした。1417年に写本が見つかり、ルネサンスを揺らす。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ルクレティウスBC99年頃–BC55年頃 · 作者本文
紀元前1世紀の前半、ローマの共和政は内側から壊れかけていた。スッラの独裁と粛清、スパルタクスの反乱、カティリナの陰謀、そしてポンペイウスとカエサルの台頭。政治家が私兵を率いて争い、昨日の勝者が明日には首を晒される時代だった。その中で、ルクレティウスという一人の詩人が、世界は何でできているのか、なぜ人は死を恐れるのかを、7400行に及ぶラテン語の長い詩に書いた。
作者についてはほとんど何も分からない。生まれたのは紀元前99年ごろ、死んだのは紀元前55年ごろとされる。詩はメンミウスという貴族に宛てて語りかける形で書かれている。同時代の記録で彼に触れたものは、紀元前54年にキケロが弟に宛てた手紙の一行だけで、ルクレティウスの詩はきみの言うとおり、天分のひらめきに満ち、しかも技巧も見事だ、という趣旨である。400年ほど後、キリスト教の学者ヒエロニュムスは、ルクレティウスは媚薬を飲まされて正気を失い、狂気の合間に詩を書き、44歳で自ら命を絶った、と書いた。この話は、無神論の詩人にふさわしい最期として後から作られたものと考えられている。

詩が伝えるのは、ギリシアの哲学者エピクロスの教えである。エピクロスは紀元前3世紀の初めにアテナイの郊外に「庭園」と呼ばれる学園を開き、さらに古くデモクリトスが唱えた原子論を受け継いで、心の平静こそが幸福だと説いた。ルクレティウスはそれを、6巻の叙事詩の形にした。苦い薬を子どもに飲ませるとき、杯の縁に蜜を塗るように、難しい教えを詩の甘さで包むのだ、と自分で書いている。
詩はこう教える。何ものも無から生まれず、何ものも無に帰ることはない。世界は、目に見えないほど小さく、それ以上分けることのできない無数の粒(原子)と、それが動く空っぽの空間(空虚)だけでできている。原子は永遠に落ち続け、ときおり、ほんのわずかに進む向きを逸れる。その逸れがあるから、原子はぶつかり合って物を作り、決められた運命の鎖から外れた生き物の自由な意志も生まれる。星も海も動物も人間も、原子の偶然の組み合わせで生まれ、いつかはほどけて散っていく。この世界のほかにも、無数の世界がある。
魂も原子でできているから、体が死ねば散る。死んだあとには、感じる自分がもういない。だから「死は私たちにとって何ものでもない」。生まれる前の永い時間を苦しんだ人がいないのと同じことだ、とルクレティウスは説く。神々はいるかもしれないが、自分たちの至福の中にいて、人間の世界には関わらない。雷も地震も疫病も、神の怒りではなく自然の働きで説明できる。詩の第1巻は、娘イフィゲネイアを神に捧げて殺したギリシアの王の話を引き、「宗教はこれほどの悪を人に勧めることができた」と書く。第5巻では、人間が火や言葉や農耕を手に入れ、社会を作っていく歩みを描き、最後の第6巻は、アテナイの疫病で人びとが倒れていく凄惨な場面で終わる。詩は未完だったとも言われる。

神の摂理も魂の不死も否定するこの詩は、キリスト教が広まると読まれなくなった。それでも中世の修道院で何冊かは写され、9世紀の写本が今も残っている。ただ、それは誰にも開かれず、書庫の奥で眠っていた。
1417年、教皇の秘書を務めた人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニが、コンスタンツ公会議で主人の教皇が退けられて職を失った間に、ドイツの修道院を回って古い写本を探し、この詩の一冊を見つけた。フルダの修道院だったとみられている。ポッジョが写させた本はイタリアで書き写されて広まり、1473年には印刷された(グーテンベルクの活版印刷)。若いニッコロ・マキャヴェッリは全文を自分の手で写し、その写本はいまヴァチカンの図書館にある。モンテーニュは自分の本の余白に書き込みを重ね、『エセー』でこの詩を何度も引いた。16世紀の初め、フィレンツェの教会会議は学校でこの詩を読むことを禁じている。

17世紀には、フランスの哲学者ガッサンディがエピクロスの原子論をキリスト教と両立する形で復活させ、ボイルやニュートンらの新しい自然学にも影響を与えた。19世紀の初め、ドルトンの原子論が化学の実験に基づいて原子の考えを打ち立てる。トマス・ジェファソンはこの詩のラテン語版と翻訳を何冊も持ち、自分はエピクロス派だと手紙に書いた。2011年にアメリカの文学研究者グリーンブラットが、ポッジョの発見が近代を開いたという本を書いてベストセラーになったが、一冊の写本の影響を大きく見すぎているという批判も研究者から出ている。それでも、原子と空虚からなる世界という考えが、この一編の詩を通って古代から近代へ渡ったことは確かである。