人物

菅原孝標女

Daughter of Sugawara no Takasue
AD1008年 – ?
平安時代重要度 4

概要

道真の5代の孫。母は道綱母の妹。上総で育った。「あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人」。物語。源氏。宮仕え。橘俊通と結婚。夫が死んだ。「夢」。『更級日記』。『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』の作者とも。

関わったできごと(1)

『更級日記』AD1059年頃 · 著者

本文

1008年に生まれた。本名は伝わらず、父の名を借りて菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)と呼ばれる。父の菅原孝標は、学問の家として知られた菅原家の人で、菅原道真から数えて5代目の子孫にあたる。ただし本人は出世に恵まれず、地方の国司を務めることの多い中級の貴族だった。母は藤原倫寧の娘で、その姉(異母姉)が『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱母である。物語や日記を書く血は、母の側にも流れていた。

ちょうど彼女が生まれた頃、宮中では紫式部が長い物語を書き進めていた(『源氏物語』)。1017年、父が上総介(上総国の次官、実質の長官)に任じられ、10歳の娘も一緒に東国へ下った。今の千葉県市原市のあたりにあった国府で、少女時代の4年を過ごした。のちに書く日記は、東海道の果てよりさらに奥の国で育った者、という自己紹介から始まる。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

都から遠い国で、少女は物語に焦がれた。継母や姉が、光源氏の話などを思い出せるところだけ語ってくれる。それがかえって全部を読みたい気持ちをかき立てた。等身大の薬師仏を作ってもらい、人のいないときに手を洗って額をつき、早く都に上らせてください、物語をあるだけ見せてください、と祈ったという。

1020年、父の任期が終わり、一家は都へ上った。13歳だった。3か月近くかかったこの旅が、日記の最初の部分になる。足柄山の暗い山中で、どこからともなく現れた遊女たちが澄んだ声で歌う場面、雪をかぶって煙を上げる富士山、隅田川のあたりで聞いた伝説などが、少女の目で書き留められている。富士山が当時まだ煙を上げていたことを伝える記録としても読まれる。

都に着くと、親類のおばから『源氏物語』五十余巻を箱ごともらった。昼は日ぐらし、夜は目の覚めている限り、灯をともして読みふけった。この喜びの前では后の位も何になろう、と書いている。夢に黄色い袈裟の僧が現れ、法華経の五の巻を早く習えと告げたが、気にもとめなかった、とも書く。物語の女君のように、美しい人に見そめられて山里にひっそりと暮らすことを夢見ていた。

10代後半から20代にかけて、身近な人を次々に失った。乳母が亡くなり、子を産んだ姉も亡くなった。家に迷い込んできた猫を、亡くなった貴族の姫君の生まれ変わりだと思ってかわいがった話は、日記の中でもよく知られた一節である。父はまた常陸介になって東国へ下り、数年して戻ってきたが、すでに老いていた。

1039年、32歳で、後朱雀天皇の皇女、祐子内親王のもとに出仕した。内親王の後見は関白の藤原頼通で、華やかな宮仕えの場だった。だが、物語に描かれた宮廷の暮らしに憧れていたはずの彼女は、実際の宮仕えになじめなかった。人前に出ることに気後れし、あまり出仕しないまま過ごした。それでも、時雨の降る夜に、貴族の源資通と春と秋のどちらがすぐれているかを語り合った場面は、日記の中でひときわ印象深く書かれている。

その頃、橘俊通と結婚した。俊通は受領(地方官)を務める実務の人で、物語の貴公子とは違った。子どもにも恵まれ、現実の暮らしに足をつけるようになる。中年になってからは、石山寺、長谷寺、鞍馬寺などへの物詣でをたびたび重ね、若い頃に物語ばかり読んで仏道に心を寄せなかったことを悔やむようになった。末法の世が始まると信じられていた時代でもある(末法の始まり)。

1057年、夫が信濃守になって任地へ下った。翌年、都に戻った夫は、まもなく病で亡くなった。50歳を過ぎていた彼女は、夫の任地の信濃にある姨捨山を詠み込んだ歌を書く。月も出ないまま闇に暮れている姨捨の私を、どうして今夜あなたは訪ねてきたのか。訪ねてきた甥に詠んだ歌である。『更級日記』という題は、この姨捨のある信濃の更級の地に由来すると考えられている。

日記の終わり近くに、夢の話がある。阿弥陀仏が庭に立ち、今は帰るが、後で迎えに来よう、と告げたという。彼女はその夢だけを、後の世の頼みにしている、と書く。13歳の旅から50代の孤独まで、40年近い人生を振り返って一つにまとめた作品が『更級日記』で、書き上げたのは1059年頃とされる。その後どう生き、いつ亡くなったかは分からない。

『更級日記』に関わる図版:Teika-sarashina-nikki-calligraphy
『更級日記』Wikimedia Commons Fujiwara no Teika copied the poem from Sugawara no Takasue no musume (Sugawara no Takasue's daughter). · Public domain

日記は藤原定家が書き写した本が伝わり、ほかの写本の多くもそこから出ている。定家はその奥書に、『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』『みづからくゆる』『あさくら』もこの人の作だと伝え聞く、と書き添えた。前の二つは現存し、作者を彼女とする説は有力だが、確かめる手立ては無い。物語に憧れた少女は、物語の作者にもなっていたかもしれない。

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