夏目漱石
概要
江戸の名主の末子で、養子に出され、戻された。英語教師としてロンドンに2年いて神経衰弱になった。帰って猫の話を書き、朝日新聞に入り、『三四郎』『それから』『こころ』。胃潰瘍で49歳。「則天去私」。
所属
日本関わったできごと(3)
夏目漱石『吾輩は猫である』AD1905年1月1日 · 作者夏目漱石『坊っちゃん』AD1906年4月 · 作者夏目漱石『こころ』AD1914年4月20日 · 作者本文
夏目漱石、本名夏目金之助は、1867年2月9日、江戸の牛込馬場下に生まれた。明治維新の前の年である。家は町方の名主で、父直克は50歳、母千枝は41歳だった。年を取ってからの末っ子を、両親は恥ずかしいものに感じたらしい。庚申の日に生まれた子は大泥棒になるという俗信があり、それを避けるために、名に「金」の字を入れたと伝わる。

生まれてすぐ、四谷の古道具屋に里子に出された。夜店のがらくたの横に、籠に入れられて置かれていたのを、通りかかった姉が見かねて連れ帰った、と本人が随筆『硝子戸の中』に書いている。翌年、今度は塩原昌之助という人の養子になった。養父母は彼を可愛がったが、夫婦仲が壊れて離婚し、9歳ごろの金之助は実家の夏目家に戻された。だが籍は塩原のまま残り、夏目に戻ったのは21歳のときだった。実の父母を祖父母と思っていた時期があった、と彼は書いている。この居場所の定まらない子供時代は、晩年の自伝的な小説『道草』で、年老いて金をせびりに来る養父の姿とともに描かれた。
少年時代は漢学の塾に通い、漢詩文を深く身につけた。だが、これからは英語の時代だと考え直し、1884年に大学予備門に入った。そこで同じ年に生まれた正岡子規と出会い、生涯の友となった。「漱石」という号は、負け惜しみの強いことを言う中国の故事「漱石枕流(石に漱ぎ流れに枕す)」から取ったもので、子規が使っていた号の一つを譲り受けたとされる。

1890年、帝国大学の英文科に入った。英文学を学べば学ぶほど、外国の文学を外国人の目で味わうことの限界にぶつかり、英文学に欺かれたような気がした、とのちに語っている。卒業後、東京で英語を教えたが、神経を病み、鎌倉の円覚寺で参禅したこともある。1895年、東京を離れて愛媛の松山中学に赴任した。その年の夏、日清戦争の従軍記者の帰りに血を吐き、療養のため故郷の松山に戻った子規が、漱石の下宿「愚陀仏庵」に転がり込み、50日あまり同居した。漱石はここで本格的に俳句を作り始めた。
1896年、熊本の第五高等学校に移り、その年、中根鏡子と結婚した。鏡子は貴族院の書記官長の娘で、朝が苦手で家事も得手ではなかった。流産のあと心を病み、川に身を投げようとしたこともある。夫婦の間には波風が絶えなかったが、二人は生涯連れ添い、子供7人をもうけた。

1900年9月、文部省の命でイギリスへ留学した。給費は年1800円で、本を買えば暮らしは切り詰めるしかなかった。ロンドンで5回下宿を替え、シェイクスピア学者クレイグの個人指導を受け、あとはほとんど部屋にこもって本を読み、ノートを取った。孤独と劣等感の中で神経が参り、日本には「夏目発狂す」という噂まで届いた。1903年1月に帰国した夫を、鏡子は別人のようだったと回想している。神経衰弱は家庭でも暴力となって表れ、女中や子供にあたることがあった。
帰国後は、第一高等学校と東京帝国大学で英語と英文学を教えた。大学では小泉八雲の後任だった。気晴らしに書いてみたらと、子規の後を継いで俳句雑誌『ホトトギス』を主宰する高浜虚子に勧められて書いたのが、1905年の『吾輩は猫である』である(夏目漱石『吾輩は猫である』)。中学教師の家に飼われる名もない猫が、人間の滑稽さを語るこの小説は大評判になった。翌年には『坊っちゃん』(夏目漱石『坊っちゃん』)、『草枕』が続いた。家には若い文学者が押しかけるようになり、面会日を木曜日の午後と決めた。この「木曜会」には、寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆、内田百閒、のちには芥川龍之介も加わった。

1907年、大学の職をすべて辞め、朝日新聞社に入社した。新聞に連載小説を書くことが仕事になった。帝大教授の座を捨てて新聞社に入ったことは世を驚かせた。最初の連載『虞美人草』以後、『三四郎』(1908年)、『それから』(1909年)、『門』(1910年)と、近代の東京に生きる知識人の恋と孤独を描く長編を次々に発表した。1909年には、学生時代の友人で南満洲鉄道の総裁となっていた中村是公に招かれて満洲と朝鮮を旅した。
1910年、胃潰瘍で入院し、療養に出かけた伊豆の修善寺で、8月24日、大量に血を吐いた。30分ほど意識がなく、一時は死んだも同然だった。「修善寺の大患」と呼ばれるこの体験のあと、彼の小説は人間の心の奥のエゴイズムへ、いっそう深く降りていった。1911年、文部省が文学博士の学位を贈ろうとすると、彼はこれを辞退した。政府が肩書きで文学者を格付けすることを嫌ったのである。

1912年7月、明治天皇が死に、9月の大葬の日に乃木希典が妻とともに殉死した。2年後に書かれた『こころ』(夏目漱石『こころ』)で、親友を裏切った過去を背負う「先生」は、乃木の殉死に触れたあと、自分も明治の精神に殉死するつもりだと遺書に書いて命を絶つ。明治という時代と、それを生きた人間の終わりを重ねた小説だった。同じ1914年の11月、学習院で行った講演「私の個人主義」では、他人の真似でも国家への奉仕でもなく、自分の内から出た考えを足場にする「自己本位」を説いた。
晩年の漱石は、胃の病と糖尿病に苦しみながら書き続けた。1915年に『道草』、1916年に『明暗』の連載を始めた。この頃、天に則り私を去るという意味の「則天去私」という言葉を、弟子たちに語ったと伝えられる。どこまで具体的な境地を指していたのかは、研究者の間でも解釈が分かれる。

1916年11月、胃潰瘍が悪化して倒れ、12月9日、東京早稲田の自宅で死んだ。49歳だった。『明暗』は188回で途切れ、未完に終わった。遺体は遺族の承諾で東京帝国大学で解剖され、脳はいまも東京大学に保存されている。
漱石の小説は、明治の日本が西洋の文明を急いで取り込む中で、個人として生きることの重さと孤独を描いた。1984年から2004年まで千円札の肖像になり、『坊っちゃん』や『こころ』は長く国語の教科書に載り続けた。日本で最も多くの人に読まれ、そして読まされてきた作家の一人である。