顧愷之「女史箴図」

概要
東晋の画家が、宮女への訓戒の詩を絵巻にした。鏡の前の女、熊に立ち向かう妃、輿を断る妃。線だけで人の重さと視線を描いた。現存するのは唐の写しとされ、1900年に義和団の混乱の中でイギリス軍将校が持ち出し、大英博物館にある。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
顧愷之AD344年頃–AD406年頃 · 画家本文
3世紀の末、中国を再び一つにした西晋の宮廷では、皇帝の恵帝が政治をとる力を持たず、皇后の賈南風が実権を握っていた。賈皇后は、気に入らない皇族や重臣を次々に陥れ、やがて皇族たちが争う八王の乱の火種をまいたとされる。292年ごろ、学者で政治家の張華は、宮中の女性たちが守るべきつつしみを説く文章『女史箴』を書いた。女史は宮中で記録をつかさどる女官、箴は戒めの言葉である。名指しこそしないが、皇后をいさめる意図があったと伝えられる。
文章は、昔の后妃たちの手本となる行いを挙げていく。漢の元帝が獣の見世物を見ていたとき、檻を破った熊が皇帝に迫った。ほかの妃たちが逃げまどう中で、馮媛という妃だけが熊の前に進み出て、身をもって皇帝を守った。漢の成帝が、寵愛する班婕妤を自分の輿に一緒に乗せようとしたとき、班婕妤は、昔の名君の傍らにいたのは賢い臣下であって寵姫ではなかった、と言って断った。文章はまた、人はみな顔を飾ることは知っていても、心を飾ることを知らない、と説き、寵愛は極まればやがて衰えるものだ、と戒める。

この文章を絵巻にしたと伝えられるのが、東晋の画家顧愷之である。顧愷之は4世紀の後半に活躍した人で、人物を描く名手として知られた。人の姿を描いても、何年も目に点を入れなかったことがあり、わけを聞かれると、人の魂を伝えるものはまさにこの目の中にある、と答えたという話が、5世紀の逸話集『世説新語』に残っている。
いま大英博物館にある「女史箴図」は、絹に描かれた、縦25センチ、長さ3メートル半ほどの巻物である。文章の一節ごとに場面が描かれ、いまは9つの場面が残る。もとは12あったと考えられ、初めの3つは失われた。熊に向かって歩み出る馮媛と、槍で熊を突こうとする衛兵、身をのけぞらせる皇帝。輿を担ぐ男たちと、輿の中から振り返る皇帝、その後ろを歩いてついていく班婕妤。鏡の前に座る女性と、その後ろで髪をとかす侍女。山と狩人を描いた場面では、山が人と比べて不自然に小さく、風景がまだ人物の背景にすぎなかった時代の絵の特徴を見せている。線は、太さがほとんど変わらない細く長い線で、のちの人は、春の蚕が糸を吐くような線、と形容した。

この巻物が顧愷之自身の筆かどうかは、分からない。多くの研究者は、後の時代に描かれた写しと考えており、それがいつかについては、5世紀から8世紀ごろまで、さまざまな説がある。それでも、顧愷之の時代の絵の姿を伝える、現存する最古の部類の中国の絵巻であることに変わりはない。北京の故宮博物院には、南宋の時代に描かれた別の写しがあり、こちらには失われた最初の場面も含まれている。
巻物は、歴代の皇帝や収集家の手を渡った。宋の皇帝徽宗の宮廷の所蔵目録にも名が見え、清の乾隆帝は、これを特に愛した四つの名品の一つに数えて、たくさんの印を押し、巻の終わりには自ら蘭の絵を描き添えた。

1900年、義和団の乱を鎮めるため、欧米と日本の軍が北京に入った。混乱の中で、イギリスのインド人部隊の将校ジョンソン大尉が、この巻物を手に入れた。本人は、身の安全を守ってやった中国の高貴な家の人から礼として贈られたと語ったが、実際には略奪の中で持ち出されたものと見られている。1903年、大尉は巻物をロンドンの大英博物館に持ち込み、25ポンドで売った。巻物を包んでいた玉の留め具の値打ちを確かめに来たところ、館員が絵のほうの価値に気づいた、という話も伝わる。
大英博物館は、その後、ロンドンにいた日本人の表装の職人に修理をさせ、巻物を広げたまま板に貼る形に改めた。1912年には木版で複製も作られている。絹はもろく、光に弱いため、いまは年に数週間だけ、暗くした部屋で公開される。中国では、これを不当に持ち出された文化財として返還を求める声がある。同じ東晋の王羲之の書と並んで中国の美術の源に置かれる名品は、いまもロンドンの大英博物館(誰でも入れる博物館)にある。