
概要
何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。
この物語について
いま、私たちは一年じゅう同じものを食べ、遠い国の食べ物を当たり前に口にしている。それはいつから、どういう仕組みで可能になったのか。
長いあいだ、食べ物は季節と土地に縛られていた。とれる時にとれるものを食べ、塩と干物と発酵で冬を越し、凶作の年には人が死んだ。米を蓄える倉、塩を専売にする国、パンの値段で倒れる王。食べ物は、そのまま政治だった。
大航海の時代、トウモロコシとジャガイモと唐辛子が海を渡り、砂糖と茶とコーヒーが植民地の畑で作られた。食卓は世界とつながったが、その畑では奴隷と年季の労働者が働いた。
十九世紀から、食べ物は工場と機械の手に移る。缶詰、冷蔵船、化学肥料、冷凍。季節と距離の縛りが解け、代わりに、中身を確かめる法律と、腐らせない仕組みが要るようになった。
二十世紀の後半、外で食べ、買って温めることが日常になる。即席麺、回転寿司、ファミレス、ハンバーガー、コンビニ。豊かになった国では食べ物が余り、捨てられ、同じ時代に飢える土地が残った。
この物語は、畑から台所までのあいだにある、倉と船と工場と法律と店を並べたものになる。
この物語が起きた場所
筋(50)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 農耕の始まりできごと紀元前90世紀自分で育てて食べる麦を蒔き、羊を囲った。栄養は偏り、身長は縮み、病気は増えた。それでも人口は桁違いに増える。肥沃な三日月地帯(位置は特定されていない)
- トウモロコシの栽培化できごと約9000年前雑草から主食へ実が指ほどしかない野生のテオシントから、数千年かけて作った。新大陸で農耕の立ち上がりが遅れた理由の一つに挙げられる。バルサス川流域(位置は特定されていない)
- 最初のチーズできごとBC5500年頃乳を日持ちさせる成人の多くは、乳糖を分解できない。搾った乳をそのまま飲めば腹を下す。ところが乳酸菌が糖を食べ、水を切れば、消化できる食べ物になり、しかも保つ。土器の破片に残る乳脂肪の分析から、この加工がアナトリアとバルカンで新石器時代に行われていたことが分かっている。ポーランドの孔の空いた土器は、乳を漉した道具と考えられている。乳を飲めるように体が変わるより先に、飲まずに済ませる技術のほうが、先にあった。チャタル・ヒュユク
- 河姆渡の稲できごと約7000年前長江の稲杭州湾の南で1973年に出た。高床の家、骨の鍬、そして厚さ数十センチの稲の層。長江の下流で、黄河の粟より早く、稲が作られていた。中国の農耕は北の一つの中心からでなく、二つの川で別々に始まった。河姆渡
- ビールとニンカシへの讃歌できごとBC1800年頃ビールの作り方は歌で伝える粘土板に書かれた、醸造の女神への讃歌。同時に、ビールの作り方の手順書でもある。大麦を発芽させ、パン(バッピル)に焼き、砕いて水に浸し、発酵させ、濾す。文字を持たない者でも、歌として覚えられる。当時、ビールは日常の飲み物であり、そして労働の対価だった。ウルクの粘土板に、労働者への配給として、日に一定量のビールが記録されている。ストローで飲む。濾しきれない殻を避けるためである。ウル
- 箸できごとBC12世紀殷の遺跡から青銅の箸が出ている。初めは煮えた鍋から具を取るための道具で、食べるのには手を使っていたらしい。食卓の道具になったのは、食べ物を細かく切って調理する形が広まってからだと考えられている。台所で切ってしまえば、食卓に刃物は要らない。儒教は刃物を殺生の道具として遠ざけ、それも後押しした。箸は朝鮮、日本、ベトナムへ広がり、土地ごとに材質と長さが変わる。中国は長く、日本は短く先が細い。魚の骨を外す食べ方に合わせたと言われる。殷墟(安陽)
- 塩鉄会議できごとBC81年塩を国が握る国が塩と鉄を専売するのは正しいか。官僚と儒者が朝廷で論じ、その記録が残った。国家と市場をめぐる最古の討論の一つになる。長安
- 常平倉できごとBC54年凶作に備える倉豊作の年は米が安く、農民が困る。凶作の年は高く、都市の貧民が困る。前漢の宣帝の時代、耿寿昌が提案した。国家が、安い年に買い上げ、高い年に放出する。価格を平らにするので常平という。米を蓄えるだけでなく、市場に介入して値を動かす仕組みである。隋唐の義倉、宋の社倉、そして朝鮮の還穀と日本の江戸期の囲米へ。1938年、アメリカの農業調整法にも同じ名の制度が入った。起草に関わった学者が、中国の古典から取ったと述べている。長安
- ガルムできごとAD50年頃ローマの魚醤小魚を塩と一緒に石の槽に積み、日に晒して数か月置く。魚自身の酵素と細菌が身を分解し、澄んだ琥珀色の液が上がる。ローマ人はこれをほとんどの料理にかけた。産地と等級があり、上等品は同じ重さの香水に迫る値で取引された。ポンペイに製造業者アウルス・ウンブリキウス・スカウルスの家が残り、床のモザイクに壺の絵と銘が描かれている。同じ原理の調味料が、東アジアの魚醤と、そして醤油につながる。ポンペイ
- 『斉民要術』できごとAD540年頃農と料理の書北魏の役人が、農業、園芸、養蚕、畜産、醸造、料理を10巻92篇に書いた。現存する中国最古の農書。「食べ物が足りなければ礼儀はない」。輪作、接ぎ木、酒と酢と醤油の作り方、羊の飼い方。日本の農書も朝鮮の農書も、ここから始めた。青州
- フォークは無作法できごとAD11世紀フォークは無作法十一世紀、ビザンツから嫁いできた王女がヴェネツィアで二股の小さな道具を使って食事をした。聖職者は激怒したと伝えられる。神が指を与えたのに、金物で食べるとは何事か。当時のヨーロッパでは、手と刃物で食べるのが普通だった。フォークが広まるのは、まずイタリアで、それも熱くて手で扱いにくいパスタと結びついてからになる。十七世紀にフランス宮廷が採り入れ、十八世紀には作法の一部になった。同じ道具が、無作法の象徴から上品さの証拠へ、六百年かけて意味を変えている。ヴェネツィア
- 占城稲の導入できごとAD1012年早く実る稲が人口を増やす11世紀初め、北宋の真宗が、ベトナム中部の占城(チャンパ)から早稲の種籾を取り寄せ、江南に配って栽培を奨励した。干魃に強く、100日ほどで実る。それまで一年一作だった土地で二期作ができ、丘陵にも田を開けるようになった。宋代の人口は、この時期に倍増して1億を超えた。米が余れば、人は都市へ出て、別の仕事に就ける。宋の都市と商業と貨幣経済は、この稲の上に立っている。杭州(臨安)
- スコーネのニシン市できごとAD14世紀塩漬けのニシンと断食の日毎年の秋、デンマーク領だったスコーネの沖には、ニシンの大群が押し寄せた。浜には各地の商人の小屋が建ち並び、何万人もの人が集まる。ニシンは脂が多く、すぐに傷む。リューベックの商人たちは、リューネブルクの塩を運んできて、捕れたその日のうちに腹を裂き、樽に塩と交互に詰めた。樽の大きさと詰め方には決まりがあり、印を押した樽は中身を開けずに売り買いされた。四旬節に肉を断つキリスト教徒にとって、塩漬けのニシンは欠かせない食べ物だった。塩と魚と樽を押さえたことが、ハンザの商人たちの力になった。スカーノル(スコーネ)
- 塩税できごとAD14世紀塩税が王の財布塩は誰にでも要る。肉も魚も、塩がなければ保存できない。だから塩に税をかければ、確実に集まる。フランス王は塩を専売にし、地方ごとに違う税率をかけた。しかも、一定量を毎年必ず買わせる決まりまで作る。税の高い地方と安い地方の境では、塩を担いで越える密売が絶えず、専門の取り締まり官と、子どもまで動員した運び屋が争った。捕まれば漕役刑である。不公平で、逃げ場がなく、生きるために必要なものにかかる。革命で真っ先に廃止された税の一つになった。パリ
- チューニョと倉できごとAD15世紀凍らせて干すジャガイモアンデスの高地では、昼は日が照り、夜は凍る。人々はジャガイモを地面に広げて夜の寒さで凍らせ、昼に足で踏んで水を絞り出し、また日に干した。こうしてできたチューニョは、軽く、何年も腐らない。インカの国は、山の斜面に石の倉を何百、何千と並べ、チューニョや干し肉やトウモロコシを蓄えた。倉は風通しのよい高みに建てられ、中は涼しく乾いている。蓄えは、道を行く兵と役人を養い、不作の年には民に配られた。文字を持たない国が、結び目の紐で数を記し、食べ物を貯めて、広い領土を治めていた。クスコ
- コロンブス交換できごとAD1500年頃食べ物が大洋を渡る1492年を境に、1万年ぶりに二つの生物界が繋がった。アメリカからヨーロッパ・アジア・アフリカへ、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ、トマト、唐辛子、カカオ、落花生、タバコ。逆向きに、小麦、米、サトウキビ、コーヒー、馬、牛、豚、羊、そして天然痘・麻疹・インフルエンザ。旧世界の人口は新作物で増え、新世界の人口は病で9割減った。イタリア料理のトマトも、四川の唐辛子も、この交換の産物である。メキシコシティ
- 唐辛子の伝播できごとAD1550年頃唐辛子が海を越えて各地の料理に入る中南米原産。コロンブスが胡椒だと思って持ち帰り、pimiento(胡椒)の名を与えた。ヨーロッパでは当初、観賞用と薬だった。広めたのはポルトガル船である。1500年代、インドのゴアへ、東南アジアへ、そして中国と朝鮮へ。日本には16世紀に伝わった(南蛮胡椒、高麗胡椒)。安く、育てやすく、暑い土地でよく実る。100年ほどで、四川、湖南、タイ、韓国、ハンガリーの食が塗り替えられた。伝統に見えるものの多くは新しい。長崎
- 塩ダラできごとAD16世紀ニューファンドランド沖の浅瀬には、底が見えないほどのタラがいた。十六世紀、バスク、ポルトガル、フランス、イングランドの漁師たちが毎年大西洋を渡り、夏のあいだタラを釣った。タラは脂が少ないので、塩をして浜の棚で風に干せば、板のように固くなって何年も持つ。塩の豊かな南の国の船は塩をたっぷり使い、塩の乏しいイングランドの船は陸に上がってよく干した。干しダラは船乗りの食料になり、カトリックの国々の断食の日の食卓に並び、やがて西インドの農園で働かされる人々の食べ物にもなった。セントジョンズ
- モカとコーヒーの広がりできごとAD1600年頃エチオピア原産の実を、15世紀のイエメンのスーフィーが、夜の勤行で眠らないために煮て飲んだ。紅海の港モカが積出港になり、オスマンが独占した(種の持ち出しを、煮てから出すことで防いだ)。17世紀、オランダがバンテンとジャワへ、フランスがカリブへ苗を持ち出した。コーヒーハウスは、ロンドンでは新聞と保険(ロイズ)と株式取引を、パリでは革命の議論を生んだ。「1ペニー大学」。モカ
- 醤油できごとAD1600年頃大豆と小麦に麹菌を生やし、塩水に仕込み、半年から数年寝かせる。菌の酵素がタンパク質をアミノ酸に、澱粉を糖に分解する。中国の醤が原型で、鎌倉期に紀州湯浅で径山寺味噌を作る際、樽の底に溜まる液が使われるようになったと伝えられる。江戸期に湯浅、野田、銚子で量産され、関東の濃口が江戸の味を決めた。オランダ東インド会社が樽で輸出し、ヨーロッパの宮廷の食卓にも上っている。湯浅
- バンダ諸島の虐殺と香辛料の独占できごとAD1621年香辛料のための虐殺ナツメグの木が世界でここにしか無かった。オランダ東インド会社が独占のために島民1万5000人のほとんどを殺すか奴隷にし、空いた土地に農園を作った。バンダ諸島(位置は特定されていない)
- カリブの砂糖プランテーションできごと1640年甘さの裏の奴隷制小さな島が、世界で最も利益の出る土地になった。砂糖のために数百万人が大西洋を運ばれ、ヨーロッパの食卓に甘さが日常として入る。工場に似た労働の管理も、ここで先に生まれた。バルバドス(位置は特定されていない)
- 堂島の米市場できごとAD1730年米が金融になる大坂には諸藩の蔵屋敷が100以上あり、年貢米が集まった。米切手(米の引換券)が売買され、やがて、現物の受け渡しをせず、期日の値段の差額だけを決済する取引が生まれた。1730年、幕府が公認した。帳合米商い。世界で最初の、組織された先物市場とされる。値段は飛脚と旗振り信号で全国へ伝えられ、江戸まで数時間で届いた。相場の記録から、ローソク足の図が生まれた。堂島(大坂)

- 享保の飢饉と打ちこわしできごとAD1732年凶作が打ちこわしを呼ぶ1732年の夏、西日本で稲の害虫が大発生し、実りがほとんど失われた。多くの村で餓死者が出た。翌年の正月、米の値が上がった江戸で、米を買い占めているとされた米問屋の家が、町人たちに襲われて壊された。江戸で初めての大きな打ちこわしである。幕府は米の値を抑えようとし、飢饉に強い作物として、蘭学を学んだ青木昆陽にさつまいもの栽培を広めさせた。食べ物の値段が、都市の治安を左右するようになっていた。江戸
- パン屋の行列できごとAD1790年代前半パンの値段と革命革命のさなかのパリでは、パンが足りず、値は統制されていた。夜明け前からパン屋の戸口に人が並び、先に来た者から売ってもらう。列はフランス語で「尾」(queue)と呼ばれ、戸口の鉄の輪に綱を結んで、並ぶ者がそれを握ったと伝えられる。英語で人の列を queue と呼ぶ用法は、この頃のフランスから入った。四十年後、トマス・カーライルは『フランス革命史』で、自然に列を作るこの才能こそフランス人を他の民から分けると皮肉を込めて書いた。行列は、足りないものを、力ではなく時間で分ける方法である。パリ
- アペールの瓶詰と缶詰できごとAD1810年ナポレオンの兵のための瓶詰革命政府とナポレオンが、軍の食料を保存する方法に懸賞金1万2000フランを出した。パリの菓子職人ニコラ・アペールが、食品を瓶に詰め、コルクで栓をして、湯で長時間加熱する方法を14年かけて完成させた。なぜ腐らないのかは分からないまま(微生物の発見はパスツールの50年後)。同じ年、イギリスのデュランドがブリキ缶の特許を取った。缶切りが発明されるのは45年後で、初期の缶にはノミと槌で開けよと書いてあった。パリ
- 植物は何を食べるかできごとAD1840年植物は土の腐植を食べて育つ、と考えられていた。ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒは、植物を燃やして灰を分析し、窒素、リン、カリウムなどの無機の成分が要ることを示した。足りない一つの要素が、全体の収穫を決める。この考え方は樽の板にたとえられ、いちばん低い板の高さまでしか水が溜まらないと説明された。不足する成分を補えばよい、という発想から、化学肥料の産業が生まれる。彼は同時に、土から取り出した養分を都市が下水として海へ捨てていることを批判した。ギーセン
- アイルランドのジャガイモ飢饉できごと1845年一つの作物に頼る危うさアンデス原産の作物と、アメリカから来た疫病菌が、島の人口を四分の一減らした。飢えた年も、食料は輸出され続けている。ダブリン
- 穀物法の廃止できごとAD1846年6月25日安い穀物を輸入する1815年から、外国の安い穀物に関税をかけて、地主の穀物の値段を守っていた。工場主は「パンが高いから賃金が高い」と言い、コブデンとブライトの反穀物法同盟が7年運動した。アイルランドの飢饉。保守党の首相ピールが自分の党を割って廃止した。自由貿易。イギリスは食糧を輸入し、工業製品を輸出する国になった。ピールは4日後に辞めた。ロンドン

- 冷蔵船できごとAD1882年肉が赤道を越える1882年、ニュージーランドのポート・チャーマーズを出た帆船ダニーデン号が、圧縮式の冷凍機を積み、羊5000頭分の枝肉を98日かけてロンドンへ運んだ。腐らずに着いた。以後、アルゼンチンの牛、オーストラリアとニュージーランドの羊、アメリカのバターが、ヨーロッパの食卓に流れ込んだ。イギリスの労働者が肉を食べられるようになり、ヨーロッパの農業は打撃を受けた。南半球の草原が、北半球の都市の胃袋に繋がった。ロンドン
- 純正食品薬事法できごとAD1906年6月30日中身を書かせる瓶に何が入っているか、誰も保証していなかった。乳児用の鎮静剤にはアヘンが入り、牛乳にはホルマリン、肉には亜硫酸が入っていた。農務省の化学者ハーヴェイ・ワイリーは、志願した若い職員に防腐剤入りの食事を摂らせ、体調の変化を記録した。新聞が毒物班と呼んだ。同じ年、シンクレアの小説『ジャングル』が食肉工場の内情を描いて反響を呼び、法が通った。表示の義務と、有害物の禁止。後の食品医薬品局につながる。ワシントンD.C.
- うま味の発見できごとAD1908年第五の味東京帝国大学の池田菊苗が、昆布だしの味は甘・酸・塩・苦のどれでもない第五の味だと考え、38キロの昆布を煮詰めてグルタミン酸ナトリウムの結晶を取り出した。「うま味」と名づけた。翌年、鈴木製薬所が「味の素」として売り出した。西洋の生理学は長くこれを認めず、2000年に舌のグルタミン酸受容体が見つかって、ようやく第五の基本味として受け入れられた。だしも、チーズも、トマトも、同じ分子を含んでいる。東京
- 脚気とビタミンの発見できごとAD1910年白い米が脚気を生む白米ばかりを食べる海軍と陸軍で、脚気が猛威をふるった。明治の日本では、これを細菌の病と考える東大・陸軍と、食事の問題と考える海軍軍医の高木兼寛が対立した。高木が兵食に麦と洋食を混ぜて発症を止めても、原因物質は分からない。1910年、鈴木梅太郎が米糠から有効成分を取り出し、オリザニンと名づけた。論文が日本語だったため、翌年ポーランドのフンクが独立に見つけた「ビタミン」の名が世界に残った。東京
- ハーバー・ボッシュ法できごとAD1913年空気からパンを作る空気の窒素を肥料に変える工場が動いた。土地が養える人の数が、この日から別の桁になる。いまの人口の半分は、この方法で作った窒素でできている。ルートヴィヒスハーフェン

- 米騒動できごとAD1918年米の値段で内閣が倒れる第一次世界大戦の好景気で物価が上がり、シベリアへの出兵を見越した米の買い占めで、米の値段が一年で倍になった。1918年7月、富山の漁村の女性たちが、米を県外へ積み出すのをやめよと浜に集まった。新聞が「越中の女一揆」と報じると、八月には全国の都市と炭鉱に騒ぎが広がり、米屋や商社が襲われる。政府は軍隊を出して鎮めたが、内閣は倒れた。代わって、初めての本格的な政党内閣が生まれた。台所の怒りが、政治の形を変えた。富山
- 急速冷凍できごとAD1930年凍らせても味が落ちないゆっくり凍らせると、氷の結晶が大きく育ち、細胞の壁を破る。解けたとき、水が流れ出て、味も歯応えも失われる。クラレンス・バーズアイは、ラブラドルで先住民が氷点下四十度の外気で魚を一瞬に凍らせ、数か月後も生のように食べられることに気づいた。速く凍らせれば結晶が小さい。彼は二枚の冷えた金属板で挟む装置を作り、1930年に十都市の店で試験販売した。冷凍庫を持つ家庭がまだ少なく、普及には二十年を要した。スプリングフィールド
- 食糧管理法できごとAD1942年2月21日米を国が配る1942年2月、戦争のさなかの日本で、米や麦を国が生産者から買い上げ、配給で国民に渡す法律ができた。食糧管理法である。農家は決められた量を国に売らなければならず、町の人々は通帳を持って配給所で米を受け取った。量は一人一日二合三勺と決められたが、戦争の末期から戦後にかけては、それも届かないことが多かった。戦後も法律は残り、国は米を農家から高く買って消費者に安く売った。その赤字と米の余りが、のちの減反につながる。法律が廃止されたのは、1995年である。東京
- 食糧メーデーできごとAD1946年5月19日米よこせ1946年5月19日、配給の遅れと飢えに苦しむ東京の人々およそ25万人が、皇居前の広場に集まった。「米よこせ」を掲げた、食糧メーデーである。数日前には世田谷の住民が皇居に押しかけ、台所を見せろと求めていた。集会には「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」と書いたプラカードが現れ、掲げた人は不敬の罪で起訴される。翌日、占領軍のマッカーサーは、暴民によるデモは許さないと声明を出した。一方で、アメリカからの小麦や脱脂粉乳の援助が始まり、日本の食卓は小麦と乳製品のほうへ動いていった。東京
- 即席麺できごとAD1958年湯を注ぐだけの麺戦後の闇市で、屋台のラーメンに人が並ぶのを見た安藤百福は、家で簡単に作れる麺を考えた。裏庭の小屋で試行を重ね、味を付けて蒸した麺を油で揚げると、水分が抜けて穴だらけになり、湯を注げば戻ることを見つける。1958年、袋入りの即席麺が売り出された。値段はうどんの数倍だったが、保存が利き、二分でできる。のちに、アメリカで現地の人が麺を割ってカップに入れて食べるのを見て、容器ごと売る形を思いつく。食べる場所と器から、料理を組み直した商品になった。池田(大阪)
- 回転寿司の誕生できごとAD1958年1958年、大阪の布施(いまの東大阪)で、立ち食い寿司の店を営んでいた白石義明は、ビール工場で瓶がベルトの上を流れていくのを見て、寿司を皿に載せて客の前を回す仕組みを思いついた。人手が足りず、職人の給料も高い。曲がり角で皿がうまく回らない問題を、扇形の板を組み合わせるやり方で解いた。「元禄寿司」の一号店である。1970年の大阪万博に出店して知られるようになり、寿司は、値段の分からない高級な料理から、皿の色で値段が分かる家族の外食になった。東大阪
- 緑の革命できごとAD1965年収量を倍にした品種高収量品種と化学肥料と灌漑で、穀物の生産が倍以上になった。飢饉が消える一方、水を大量に使い、地下水位が下がり、農家の負債が増える。デリー

- フードバンクの始まりできごとAD1967年余りと飢えをつなぐ1960年代、アメリカのアリゾナ州フェニックスで、炊き出しの手伝いをしていたジョン・ヴァン・ヘンゲルは、スーパーマーケットの裏のごみ箱に、まだ食べられる食品が大量に捨てられているのを見た。ある母親から、食べ物を預けておいて必要な人が引き出せる、銀行のような場所があればいいと言われたという。1967年、彼は教会の支えで、余った食品を集めて配る「セント・メアリーズ・フードバンク」を開いた。捨てられる食べ物と飢える人をつなぐ仕組みは、アメリカ全土に、そして世界に広がった。日本でも2000年代から各地に作られている。フェニックス
- 減反政策できごとAD1970年作らないことに払う戦後、国は農家から米を高い値段で買い入れ、増産を促してきた。ところが1960年代、人々の食事がパンや肉に移って、米を食べる量が減りはじめる。1970年ごろには、国の倉庫に古い米が大量に積み上がった。国は、米を作る田の面積を減らせば補助金を出すという、生産の調整を始める。「減反」である。田を休ませ、麦や大豆に作り替えることが求められた。米を作り続けたい農家との間で、あつれきが続いた。国が作る量を割り当てるこの仕組みは、2018年に廃止された。東京
- ファミリーレストランの始まりできごとAD1970年7月7日1970年7月7日、東京の国立の甲州街道沿いに、「すかいらーく」の一号店が開いた。もとは食料品のスーパーを営んでいた四兄弟が、大手のスーパーの進出で先行きを危ぶみ、アメリカで見た郊外の車で来るレストランをまねたのである。広い駐車場があり、子どもの椅子があり、家族みんなで気軽に洋食を食べられる。料理は工場でまとめて仕込み、店では温めて仕上げる。車を持つ家族が郊外に増えた時代に合い、ロイヤルホストやデニーズとともに、休日の家族の外食の場になった。国立
- マクドナルドの日本一号店できごとAD1971年7月20日1971年7月20日、東京の銀座の三越の一階に、マクドナルドの日本での一号店が開いた。ハンバーガーは一つ80円。日本の会社を興した藤田田は、流行は銀座から始まると考え、郊外から店を開くよう勧めるアメリカ本社の言い分を退けた。歩行者天国になった銀座の通りで、若者たちは立ったままハンバーガーを食べた。立って物を食べるのは行儀が悪いとされていた時代である。藤田は、日本人も肉とパンを食べ続ければ体つきが変わる、と冗談めかして語っている。ハンバーガーは、米の飯に代わる手軽な食事の一つになった。東京
- コールドチェーンできごとAD1974年冷やしたまま運ぶワクチンは熱で壊れる。製造から接種まで、温度を保ったまま運ばなければならない。1974年、WHOが拡大予防接種計画を始めたとき、最大の障害はこれだった。電気の来ない村へ、二度から八度を保って届ける。灯油とガスで動く冷蔵庫、太陽電池の保冷庫、氷嚢を入れた運搬箱、そして温度が上がると色が変わる標識。天然痘の根絶も、麻疹とポリオの後退も、この鎖が作れたかどうかで決まった。2020年の新型コロナのワクチンで、同じ問題が再び現れた。ジュネーヴ
- コンビニの一号店できごとAD1974年5月15日いつでも開いている台所1974年5月15日、東京の豊洲に、アメリカの店の名を借りたコンビニエンスストアの一号店が開いた。酒屋を営んでいた家が、店を改装して加わったものである。大型スーパーの進出で町の小売店が苦しむなか、小さな店が生き残る道として始まった。売れた品を細かく記録して仕入れを決め、一日に何度も少量ずつ届ける。やがて弁当、公共料金の支払い、銀行の窓口まで引き受ける。町の小さな店が、生活の窓口に変わった。東京
- 遺伝子組み換え作物の登場できごとAD1994年1994年、アメリカで、遺伝子を組み換えた作物として初めて、店に並べることが認められたトマト「フレーバー・セーバー」が売り出された。熟しても柔らかくなりにくいよう、カリフォルニアの会社が遺伝子に手を加えたものである。トマトは商売としては失敗したが、1996年からは、除草剤に強い大豆や、害虫に強いトウモロコシが大規模に作られはじめる。いまアメリカの大豆とトウモロコシの九割以上が組み換えである。一方でヨーロッパや日本では、安全や環境への影響を心配する声が強く、表示の義務づけをめぐって議論が続いてきた。デイヴィス
- 堺市のO157集団食中毒できごとAD1996年1996年7月、大阪府の堺市で、小学校の給食を食べた子どもたちが、次々に激しい腹痛と血の混じった下痢に襲われた。腸管出血性大腸菌O157による食中毒で、患者は九千人を超え、子どもが亡くなった。厚生省は原因としてカイワレ大根の疑いを発表し、カイワレは全国の店から消え、生産者は打撃を受けた。のちに裁判所は、確かな根拠が無いまま発表したとして国に賠償を命じている。この事件のあと、給食の衛生の基準が厳しくされ、食べ物を十分に加熱するという習慣が、家庭にも広まった。堺
- 和食の無形文化遺産できごとAD2013年12月4日消えかけているから遺産にする2013年12月4日、アゼルバイジャンのバクーで開かれたユネスコの委員会は、「和食:日本人の伝統的な食文化」を無形文化遺産に登録すると決めた。登録されたのは料理そのものではなく、季節の食材を生かし、栄養の釣り合いがとれ、自然の美しさを盛りつけに表し、正月などの行事と結びついた食の習わしである。申請の背景には、日本人の家庭で和食が作られなくなりつつあるという危機感があった。フランスの美食術やメキシコの伝統料理に続く登録で、海外での和食の人気と、日本の食材の輸出を後押しした。バクー
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
交易路とお金18件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。技術と産業16件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。都市の歴史13件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。感染症と人類7件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。確かめるという方法5件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。中国の王朝4件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。接触前のアメリカ4件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。文明のはじまり4件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。支え合いの歴史4件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。主権はだれのものか3件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。帝国と独立3件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。考えることの歴史3件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。日本の古代3件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層3件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『繁栄』で読む歴史3件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。二つの大戦2件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。冷戦のあと2件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史2件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『1491』『1493』で読む新大陸2件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。お金の歴史2件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。『ホモ・デウス』で読む次の歴史2件を共有 / 飢餓と疫病と戦争を抑え込んだ人類が、次に何を目指すか。『サピエンス全史』の続編。『砂糖の世界史』で読む世界商品2件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。『交易の世界史』で読む物の流れ2件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。ローマ人の物語1件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。古代オリエント1件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。武士の700年1件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。イスラム世界1件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。女性の権利1件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。民族移動の時代1件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。キリスト教のひろがり1件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。表現の歴史1件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『暴力の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『万物の黎明』で読む歴史1件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『昨日までの世界』で読む伝統社会1件を共有 / 国家のない社会は、争いも子育ても老いも、私たちと違うやり方で扱ってきた。何を学べるか。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ1件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。働くことの歴史1件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。