できごと

白居易「長恨歌」

Song of Everlasting Regret
AD806年
重要度 3
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概要

50年前の玄宗と楊貴妃を、120句の詩にした。馬嵬で殺され、仙界で再会する。「天に在りては願わくは比翼の鳥」。『源氏物語』の桐壺の巻は、この詩を下敷きにしている。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

関わった人(1)

白居易AD772年–AD846年 · 作者

本文

756年、安史の乱の反乱軍に追われて長安を逃れた玄宗の一行は、都の西の馬嵬駅で足を止めた。従ってきた兵たちは、反乱を招いたのは楊一族の専横だとして宰相の楊国忠を殺し、さらにその従妹である貴妃の死を求めた。玄宗はこれを拒めず、楊貴妃は仏堂で首をくくって死んだ(馬嵬の変)。それから半世紀がたち、乱を知る世代が少なくなったころ、一人の若い役人がこの話を長い詩にした。

806年、白居易は数えで35歳だった。官吏の登用試験に通ったあと、皇帝が自ら行う特別の試験にも合格し、長安の西の盩厔という県の尉(警察や雑務を受け持つ下級の官)に任じられていた。散文家の陳鴻の記すところでは、その年の冬、白居易は陳鴻と友人の王質夫とともに近くの仙遊寺に遊び、玄宗と貴妃の話になった。王質夫は、このような話も優れた筆で書き留めなければ時とともに消えてしまう、あなたは詩が得意なのだから歌にしてはどうか、と勧めた。こうして白居易が詩を作り、陳鴻がその由来を散文の『長恨歌伝』に書いた。

『唐詩三百首』の一葉
『唐詩三百首』の一葉Wikimedia Commons First compiled around 1763 by Sun Zhu (1722-1778), the Qing Dynasty scholar, also known as Hengtang Tuishi Published in · Public domain

詩は120句、840字からなる。書き出しは「漢皇色を重んじて傾国を思う」。唐の皇帝のことを、遠い漢の皇帝の話のように書くのは、当代の天子をはばかる当時の習いだった。詩はまた、貴妃がもとは玄宗の息子の妃であったという事実に触れず、「楊家に女有り初めて長成す、養われて深閨に在り人未だ識らず」と、深窓の娘が見いだされたように語る。歴史の不都合なところを伏せて、二人の恋の物語に仕立てたのである。

前半は、華清池の温泉で湯を賜る場面、後宮三千人の寵愛を一身に集める日々、楊一族の栄華を描き、そこへ「漁陽の鼙鼓地を動かして来たる」と反乱の太鼓が響く。馬嵬の場面は「六軍発せず奈何ともする無く、宛転たる蛾眉馬前に死す」。兵が動かず、どうにもならないまま、美しい人が馬の前で死ぬ。玄宗は蜀へ落ち、山道で夜の雨に鳴る鈴の音を聞いて腸を断つ。乱が収まって長安に戻っても、宮殿の池の蓮も柳も貴妃の面影にしか見えず、灯が尽きても眠れない。

『長恨歌』の一場面、玄宗(中央)と妃たちを描く(狩野山雪画、1590-1651年)
『長恨歌』の一場面、玄宗(中央)と妃たちを描く(狩野山雪画、1590-1651年)Wikimedia Commons Kanō Sansetsu · Public domain

後半は、史実を離れて幻想に入る。道士が玄宗の思いを受けて天と地の果てまで貴妃の魂を探し、ついに海上の仙山で、太真という名の仙女になった貴妃に会う。太真は、かつて貴妃が女道士として名乗った名でもある。貴妃は形見の品を分けて道士に託し、七月七日の夜、長生殿で人のいない夜半に二人だけで交わした誓いの言葉を伝える。「天に在りては願わくは比翼の鳥と作り、地に在りては願わくは連理の枝と為らん」。詩は「天は長く地は久しきも時有りて尽く、此の恨みは綿綿として尽くる期無からん」と結ばれる。題の「恨」は、うらみではなく、尽きることのない悲しみを指す。

詩はたちまち広まった。白居易はのちに親友の元稹にあてた手紙で、都から江西まで三、四千里の旅のあいだ、村の学校や寺や宿や舟の壁に自分の詩が書きつけられていたと記している。同じ手紙には、ある妓女が、自分は白学士の「長恨歌」を暗誦できるのだから、ほかの妓女と同じ値ではない、と言い張った話も出てくる。ただ白居易自身は、自分の詩を四つの部類に分け、政治や社会を批判する「諷諭」の詩をいちばん重んじていた。世の人が好むのは「長恨歌」のような詩ばかりで、諷諭の詩は分かってもらえない、と同じ手紙で嘆いている。白居易が亡くなったとき、皇帝の宣宗が、子どもでさえ「長恨」の歌を口ずさむ、という句を含む詩を作って悼んだとされる。

日本への影響は、中国以上だったと言ってよい。白居易の詩文集は、本人がまだ生きていた9世紀の前半には日本に伝わり、平安の貴族たちの教養の土台になった。紫式部は『源氏物語』の最初の巻「桐壺」で、愛する更衣を失った帝が、明け暮れ「長恨歌」の絵を眺めて悲しむさまを描いた。「太液の芙蓉、未央の柳も」と詩の句をそのまま引き、身分の低い女性への帝の偏った寵愛、周囲の反発、女性の死、残された者の嘆きという筋立てそのものが、この詩を下敷きにしている。『枕草子』にも、この詩の句を引いて梨の花を語る段がある。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

その後も「長恨歌」は、軍記物語や能や浄瑠璃に繰り返し取り込まれ、「比翼連理」は仲の良い夫婦を表す言葉として日本語に残った。杜甫や李白の詩と並んで、半世紀前の皇帝の恋を詠んだこの一篇が、日本で最も広く読まれた中国の詩の一つになったのである。

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