
概要
子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。
この物語について
いま私たちは、子どもは守られ、学校に通い、遊び、自分の意見を言う権利を持つものだと考えている。だが、そうした「子ども時代」は、いつ、どのようにして生まれたのか。
長いあいだ、子どもは小さな大人として扱われ、幼いうちから家や畑や工房で働いた。多くの子が大人になる前に病で死に、親を失った子や捨てられた子の行き場は少なかった。ルソーは、子どもには子どもの見方と考え方があると説き、子ども時代を人生の特別な時期として見る考えを広めた。
産業革命は、子どもを工場と炭鉱に送り込んだ。それに対して、工場法が子どもの労働を制限し、学校が子どもを教室へ迎え入れた。幼稚園が生まれ、グリム童話や『不思議の国のアリス』のような、子どものための物語が書かれた。子どもを裁くための別の法廷、親のいない子を家庭で育てる工夫も始まった。
20世紀の戦争は、子どもたちを容赦なく巻き込んだ。疎開、空襲、親との別れ、飢え。その反省から、子どもを救う団体と国際的な機関が生まれ、子どもの権利をうたう宣言が出された。1989年の子どもの権利条約は、子どもを、大人に守られるだけでなく、自らの権利を持つ一人の人として位置づけた。
一方で、子どもの数そのものが減り、家庭の中の虐待が見えるようになり、子どもをめぐる問題は新しい形をとっている。この物語は、子どもが働き手から、守られ、学び、権利を持つ存在へと変わってきた歩みを並べたものになる。
この物語が起きた場所
筋(40)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 少年十字軍できごとAD1212年中世の子どもたちの群れ1212年、フランスとドイツで、聖地エルサレムを取り戻すため、武器ではなく信仰の力で東へ向かおうという若者たちの群れが現れた。フランスでは羊飼いの少年ステファヌスが王に会いに行き、ドイツではケルンの少年ニコラウスが数千人を率いてアルプスを越え、イタリアのジェノヴァに着いた。海が二つに割れて聖地へ渡れると信じていたが、海は割れず、群れは散り散りになった。帰る途中で飢えや病で倒れた者も多い。後の年代記は、奴隷として売られた子どもたちの話を伝えるが、確かではない。「少年」と記された人々の多くは、子どもではなく、貧しい若者だったとも考えられている。ジェノヴァ
- ルソー『エミール』できごとAD1762年子どもは小さな大人ではない1762年、ジャン=ジャック・ルソーは、架空の少年エミールを家庭教師が育てていく物語の形で、教育の本を出した。子どもは小さな大人ではなく、子どもには子どもの見方、考え方、感じ方がある。大人の知識を早くから詰め込まず、自然の中で、自分の体と感覚で学ばせよ。そう説いたこの本は、宗教を論じた部分がとがめられてパリの高等法院に焼かれ、ルソーは逮捕を逃れて国を出た。だが本は広く読まれ、ペスタロッチやフレーベルの教育を通じて、子ども時代を人生の特別な時期と見る考えを育てた。ルソー自身は、自分の5人の子をみな孤児院に預けていた。パリ
- プロイセンの義務教育できごとAD1763年国が子どもを学校へフリードリヒ2世が一般地方学事通則を出し、5歳から13歳の子に就学を義務づけた。七年戦争の直後である。目的は、読み書きできる兵士と、従順で勤勉な臣民を作ることだった。教員の養成、教科の指定、そして出席の強制。19世紀に整備が進み、学年制、時間割、卒業試験(アビトゥア)が揃った。この模型が、日本、アメリカ、フランス、そして世界中に写された。近代の学校の形は、ほとんどがここに遡る。ベルリン
- ジェンナーの種痘できごとAD1796年種痘を受けた少年牛痘で天然痘を防げると確かめた。人類が病を根絶できると初めて示す。ロンドン
- 寺子屋できごとAD1800年頃庶民の子が読み書きを学ぶ江戸の後期、町と村に無数の私塾があった。師匠は僧、神官、浪人、医者、そして女性。一部屋に年齢のばらばらな子が集まり、それぞれ違う手本を写す。一斉授業ではない。教えたのは「読み書き算盤」と、往来物と呼ばれる実用の教科書(商売往来、百姓往来)。全国で1万数千以上あったとされる。幕末の日本の識字率は、男子で4割前後という推計がある。国家が作った制度ではなく、需要に応じて自然に増えた。江戸

- ニュー・ラナークの実験できごとAD1800年工場の子どもに学校をクライド川の紡績工場を買ったロバート・オーウェンが、10歳未満の児童労働をやめ、労働時間を10時間半に減らし、工場の中に学校(1816年、性格形成学院)と、世界初とされる幼児学校と、安い店を作った。生産は落ちなかった。「人の性格は環境が作る」。1819年の工場法、協同組合、労働組合、そしてユートピア社会主義が、ここから出た。2001年、世界遺産。ニュー・ラナーク

- グリム童話できごとAD1812年12月20日子どもと家庭のための昔話ナポレオンに支配されたドイツで、ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟は、ドイツの人々が語り継いできた昔話を、民族の宝として集めた。1812年の暮れに出た『子どもと家庭のための昔話集』の第1巻には、「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」「シンデレラ」など86の話が収められた。話を語ったのは、素朴な農民というより、町の教養ある家の若い女性たちが多かった。版を重ねるうちに、兄弟は性的な場面を削り、教訓を加えて、子どもに読ませる本へと書き直していった。最後の版では210話になり、聖書に次いで多くの言葉に訳されたドイツの本の一つになった。カッセル
- 1833年工場法できごとAD1833年子どもの労働を法で縛る綿工場で、9歳未満の労働を禁じ、9〜13歳は1日9時間、13〜18歳は12時間まで、夜業を禁じ、9〜13歳に1日2時間の教育を義務づけた。それまでの法と違ったのは、給料を払う工場監督官を4人置いたこと。国家が、工場の中に人を入れて確かめる。児童労働は消えなかったが、「国が労働の条件を決める」という考えが、ここから広がった。同じ年、大英帝国の奴隷制が廃止された。ロンドン

- フレーベルと幼稚園できごとAD1840年子どもの庭それまで、就学前の子どもを預かる施設は、母親が働く間の託児所だった。フリードリヒ・フレーベルは、幼児期そのものに固有の意味があると考えた。子どもは遊びを通して世界を理解する。彼は球、立方体、円柱から始まる一連の教具(恩物)を作り、庭仕事と歌と手仕事を組み合わせた。施設を「子どもの庭(キンダーガルテン)」と名づけた。1851年、プロイセンが革命思想の温床として禁止した。彼の死後、弟子たちが世界へ広めた。バート・ブランケンブルク
- 孤児列車できごと1854年9月路上の子どもを農村の家庭へ19世紀の半ばのニューヨークには、親を失い、あるいは捨てられて、路上で新聞売りや靴磨きをして暮らす子どもが何万人もいた。牧師チャールズ・ローリング・ブレイスは、児童援助協会を作り、こうした子どもたちを西部の農村の家庭に送り出すことを考えた。1854年9月、最初の子どもたちが列車でミシガンへ向かった。子どもたちは途中の駅で並ばされ、農家の人々が引き取る子を選んだ。1929年までに二十万人を超える子どもが運ばれた。家族として愛された子もいれば、働き手として酷使された子もいた。この試みは、のちの里親の制度の源の一つになった。ニューヨーク
- 『不思議の国のアリス』できごとAD1865年楽しむための子どもの本オックスフォード大学の数学の講師チャールズ・ドジソンは、1862年7月の夏の日、学寮長の娘アリス・リデルら三姉妹を連れて川でボートを漕ぎながら、白いウサギを追って穴に落ちた女の子の話を即興で語った。アリスにせがまれて書き留めた話は、ルイス・キャロルの筆名で、テニエルの挿絵を添えて1865年に出版された。それまでの子どもの本の多くは、良い子になるための教訓を説くものだったが、この本は言葉遊びと奇妙な論理で、ただ読む楽しさを子どもに差し出した。子どもの文学は、ここから大きく変わったといわれる。オックスフォード
- 学制の公布できごとAD1872年9月5日(明治5年8月3日)すべての子どもを学校へ「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」。全国を8大学区、256中学区、5万3760小学区に分けた。授業料は親の負担で、就学率は最初3割。学校が焼き討ちされた県もある。それでも30年で9割になった。東京
- 砂場できごとAD1885年子どもの遊び場都市の子どもは、路地と道路で遊んでいた。馬車と、のちに自動車が走る場所である。ベルリンで砂の山が子どもの遊び場になっているのを見た医師の紹介で、1885年、ボストンの慈善団体が空き地に砂を積んだ。監督する大人を置いたのが新しい。遊びを危険から守り、同時に、街頭の子どもを目の届く場所に集める狙いもあった。やがて滑り台とブランコが並び、学校と公園に設けられていく。子どもが遊ぶ場所を、大人が設計して与える。それが当たり前になったのは、この百数十年のことになる。ボストン
- 学校給食できごとAD1889年(明治22年)学校給食山形の鶴岡で、貧しい家の子に昼食を出す試みが始まった。寺の僧が寄付を集め、握り飯と焼き魚と漬物を配ったと伝えられる。弁当を持って来られない子は、昼に姿を消していた。同じ試みが各地に広がり、やがて国の制度になる。戦後は、アメリカからの小麦と脱脂粉乳が配られ、パンと牛乳の献立が定着した。栄養を補うためだけではない。全員が同じものを食べることで、家の貧富が見えなくなる。給食は、教育の一部として設計された食事になる。鶴岡
- 子どもを別に裁くできごとAD1899年子どもを別に裁く十九世紀まで、七歳を超えた子どもは大人と同じ法廷で裁かれ、同じ監獄に入れられた。刑務所で犯罪を学んで出てくる、と指摘されていた。1899年、シカゴのあるイリノイ州が、子どものための裁判所を作る。裁くのではなく、その子にとって何が最善かを決める場だとされた。非公開で、記録は残さず、判事は後見人のように振る舞う。処遇の幅は広く、家庭に戻すことも、施設に送ることもできる。守るための仕組みは、同時に、罪を犯していない子まで施設に送る力にもなった。手続きの保障が入るのは、七十年後になる。シカゴ
- 『ピーター・パン』の初演できごとAD1904年12月27日子ども時代の象徴スコットランド出身の劇作家ジェームズ・マシュー・バリーは、ロンドンのケンジントン公園で知り合った少年たちと遊ぶうちに、大人にならない少年の物語を作り上げた。1904年12月27日、ロンドンの劇場で劇『ピーター・パン』が初演された。ネバーランドに住み、空を飛ぶピーターが、ウェンディと弟たちを連れ出し、海賊フック船長と戦う。妖精ティンカー・ベルを救うため、観客の子どもたちに妖精を信じるなら拍手をと呼びかける場面は、劇場を沸かせた。バリーは1929年、この作品の権利を、ロンドンの子どものための病院に贈った。ロンドン
- モンテッソーリの子どもの家できごとAD1907年1月6日子ども自身の力を信じる教育ローマのスラム、サン・ロレンツォ地区。親が働く間、放置されていた3歳から6歳の子ども50人余りを預かる施設として始まった。医師マリア・モンテッソーリは、知的障害児の教育で用いた教具を、ここで健常児に試した。子どもは自分で教具を選び、集中し、繰り返し、そして満足すると自分で片付けた。大人が教え込むのではなく、環境を整えて子どもが自分で学ぶのを待つ。子どもの背丈に合わせた家具も、彼女の考案である。ローマ
- ボーイスカウトの始まりできごとAD1907年8月1日野外で育つイギリスの軍人ロバート・ベーデン=パウエルは、南アフリカのボーア戦争で、包囲された町マフェキングを7か月守り抜いて英雄になった。包囲の間、少年たちを伝令や見張りに使った経験から、野外の生活で少年を鍛える方法を考えた。1907年8月、彼はイングランド南部のブラウンシー島に、階層の違うおよそ20人の少年を集めて、キャンプを開いた。少年たちは小さな班に分かれ、火のおこし方、追跡、救急法を学んだ。翌年出した『スカウティング・フォア・ボーイズ』は大評判になり、ボーイスカウトの運動は世界に広がった。1910年には少女のためのガールガイドも生まれた。ブラウンシー島
- ハインの写真と児童労働できごとAD1908年写真が子どもを工場から救う20世紀のはじめのアメリカでは、何十万人もの子どもが、綿の紡績工場や炭鉱、缶詰工場、街頭の新聞売りで働いていた。1908年、元教師の写真家ルイス・ハインは、全国児童労働委員会に雇われ、工場の監督の目をかいくぐって、働く子どもたちを撮り始めた。保険の外交員や聖書の売り子を装って工場に入り込み、子どもの背丈を服のボタンの位置で測り、名前と年を書き留めた。機械の前に立つ小さな女の子、石炭の粉で黒くなった少年たち。十年あまりで撮った数千枚の写真は世論を動かし、1938年、連邦の法が子どもを雇うことを厳しく制限した。ニューヨーク
- 母の日の始まりできごとAD1908年5月10日アメリカのアンナ・ジャーヴィスは、南北戦争のころから、病気の予防や敵味方を超えた和解のために母親たちの集まりを率いた母を、1905年に亡くした。彼女は、母を偲び、すべての母親をたたえる日を作ろうと呼びかけ、1908年5月10日、ウェストヴァージニア州の教会で最初の催しが開かれ、フィラデルフィアのデパートでも大きな式典が開かれた。母が好きだった白いカーネーションが配られた。1914年、議会は5月の第2日曜日を母の日と定めた。だがアンナは、花屋やカード会社が母の日を商売にしていくことに怒り、晩年は母の日の廃止を訴えた。フィラデルフィア
- 『赤い鳥』の創刊できごとAD1918年7月1日子どものための芸術1918年7月、作家の鈴木三重吉は、子どものための文芸の雑誌『赤い鳥』を創刊した。それまでの子どもの読み物は、教訓めいたお話や講談が多かった。三重吉は、一流の作家たちに子どものための芸術を書いてほしいと頼み、創刊号には芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が載った。有島武郎の「一房の葡萄」、新美南吉の「ごん狐」も、この雑誌から生まれた。北原白秋は童謡を書き、山田耕筰らが曲をつけた。子どもたちの作文や詩も募集し、ありのままを書く綴り方を広めた。雑誌は、大正の子どもの文化と童話・童謡の運動の中心になった。東京
- セーブ・ザ・チルドレンと子どもの権利の宣言できごとAD1919年5月19日子どもの権利の最初の宣言第一次世界大戦が終わっても、イギリスとフランスは、敗れたドイツとオーストリアへの海上の封鎖を続け、そこでは子どもたちが飢えていた。イギリスのエグランタイン・ジェブは、やせ細った子どもの写真を載せたビラを街頭で配り、罰金を科された。1919年5月、ジェブは妹とともに、敵国の子どもも含めて飢えた子どもを救うための基金、セーブ・ザ・チルドレンを作った。1923年には、子どもが持つべき権利を5か条にまとめ、翌年、国際連盟がこれを「子どもの権利に関するジュネーヴ宣言」として採択した。子どもの権利を国際的にうたった初めての文書である。ロンドン
- アンネ・フランク人物AD1929年6月12日 – AD1945年2月または3月隠れ家の日記隠れ家で2年日記を書き、15歳で収容所で死んだ。600万という数を、一人の人間に戻す文章になっている。
- キンダートランスポートできごとAD1938年12月2日一万人の子どもを逃がす1938年11月の水晶の夜のあと、イギリスは、ナチ・ドイツの支配下にいるユダヤ人の17歳以下の子どもを、親を伴わずに受け入れることを決めた。1938年12月から第二次世界大戦が始まる翌年9月まで、ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキアなどから、およそ一万人の子どもが列車と船でイギリスへ渡った。受け入れの費用は民間が保証し、子どもたちは里親の家や施設に引き取られた。駅のホームで親と別れた子どもの多くは、二度と親に会えなかった。親たちは、その後ホロコーストで殺された。ロンドン
- 母子手帳できごとAD1942年母と子の健康を記録する1942年、戦時の日本で、妊娠を届け出た女性に手帳が配られた。妊産婦手帳である。人口を増やすという国の方針のもと、健診を促し、出産に要る米や綿の配給を受けるための証明にもなった。戦後の1948年、子どもの成長と予防接種まで記録する母子手帳に改められる。一冊に妊娠から幼児期までの記録がまとまり、どの医者にかかっても続きが分かる。戦争のために作られた仕組みが、戦後の乳児死亡の減少を支え、いまは海外の多くの国に広がっている。東京
- 学童疎開できごとAD1944年6月30日親元を離れた子どもたちサイパン島の守りが危うくなり、本土への空襲が避けられなくなった1944年6月30日、政府は、都市の国民学校の3年生から6年生の子どもを地方へ疎開させることを決めた。親類を頼れない子どもたちは、学校ごとに集団で、農村の寺や旅館に移った。8月から、東京や大阪などの十数の都市から、四十万人を超える子どもが親元を離れた。食べ物は乏しく、子どもたちはひもじさと寂しさに耐えた。沖縄から九州へ子どもを運ぶ対馬丸は、8月22日、潜水艦に沈められ、多くの子どもが死んだ。疎開先から帰ったとき、空襲で家族を失っていた子どもも少なくなかった。東京
- ユニセフの設立できごとAD1946年12月11日戦争で傷ついた子どもへ第二次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパとアジアの焼け跡では、何百万人もの子どもが、食べ物も衣服も薬も無いまま取り残されていた。1946年12月11日、国際連合の総会は、戦争で傷ついた子どもたちに緊急の援助を届けるため、国連国際児童緊急基金、すなわちユニセフを作った。粉ミルクと薬と毛布が送られ、日本でも戦後の学校給食などに、ユニセフから届いた脱脂粉乳が使われた。1953年には常設の機関になり、援助の先は途上国の子どもたちへと移って、予防接種や安全な水、栄養、教育の支えに取り組むようになった。ニューヨーク
- 第一次ベビーブームできごと1947年団塊の世代戦争が終わり、戦地や外地から何百万人もの男たちが帰ってくると、日本では結婚と出産が一気に増えた。1947年から1949年の3年間、毎年260万人を超える子どもが生まれ、1949年には270万人近くに達した。いまの年間の出生数の3倍以上である。この世代は、のちに作家の堺屋太一の小説の題から「団塊の世代」と呼ばれた。彼らが育つにつれて、学校は教室が足りずに一クラス50人を超え、受験の競争は激しくなり、就職、住宅、消費の市場が次々に膨らんだ。アメリカやヨーロッパでも、同じころからベビーブームが起きている。東京
- 児童福祉法できごとAD1947年12月12日すべての子どもの福祉戦争が終わった日本の町には、空襲や引き揚げで親を失った子どもたちがあふれていた。駅の地下道で寝起きし、靴磨きや物乞いで生きる子どもたちは「浮浪児」と呼ばれ、警察に追われ、施設に収容された。1947年12月12日に公布された児童福祉法は、すべての子どもが心身ともに健やかに生まれ育つことを保障され、愛護されなければならず、国と地方の自治体は保護者とともにその責任を負うと定めた。親のいない子どもだけでなく、すべての子どもを対象にした法だった。1951年の子どもの日には、子どもは人として尊ばれると書き出す児童憲章が定められた。東京
- かみ合うブロックできごとAD1958年1月28日遊びの道具デンマークの村ビルンの大工オーレ・キアク・クリスチャンセンは、大恐慌で家具が売れなくなり、木のおもちゃを作り始めた。社名は「よく遊べ」を縮めたレゴ。戦後、イギリスの製品にならってプラスチックの積み木を作るが、組んでもすぐ外れた。1958年1月28日、上の突起を下の管で挟んで留める形の特許を出す。この年に作られたブロックは、いまのものとそのまま組める。形を変えないという決まりが、何十年分の箱を一つの遊びにつないだ。ビルン
- バービー人形できごとAD1959年3月9日ルース・ハンドラーは、娘のバーバラが紙の人形で大人の役を演じて遊ぶのを見ていた。当時の人形は、ほとんどが赤ん坊の姿である。ドイツの大人の女性の人形を手本に、1959年3月9日、ニューヨークの玩具見本市で大人の体の人形を出した。最初の人形は日本で作られている。服を替え、職業を替え、宇宙飛行士にも大統領候補にもなった。一方で、ありえない体の比率が少女に与える影響も批判され続け、2016年に体型の違う人形が加わった。ニューヨーク
- 経口避妊薬できごとAD1960年5月9日子どもを持つかを選ぶ避妊の道具はそれまでもあったが、使うかどうかを決めるのは多くの場合、男の側だった。産児制限を訴え続けたマーガレット・サンガーは、老年になってから資産家の支援を取りつけ、生物学者に飲む避妊薬の開発を頼む。臨床試験は、規制の緩いプエルトリコで行われ、副作用の説明が十分でなかったことが後に問題になった。1960年、アメリカの当局が避妊薬として承認する。女性が、相手に告げずに、自分で妊娠の時期を決められるようになった。働き方も、結婚の時期も、そこから変わっていく。ワシントンD.C.
- 丙午の年に子が減るできごとAD1966年迷信で子が減った年干支で六十年に一度めぐる丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の命を縮める。江戸時代に広まった迷信で、火付けをした八百屋お七が丙午の生まれだという話と結びついた。1966年、日本の出生数は前の年より四分の一ほど減った。結婚や出産を一年ずらした夫婦が多かったとみられる。前の丙午の1906年に生まれた女性が縁談で避けられたことも、まだ記憶にあった。高度成長のさなか、統計に表れるほど多くの人が暦を気にしていた。次の丙午は2026年である。東京
- 体外受精で生まれた子できごとAD1978年7月25日体外受精で生まれた子卵管が詰まっていて子を授かれない女性は多い。生理学者ロバート・エドワーズと産婦人科医パトリック・ステップトーは、卵子を体の外に取り出して受精させ、子宮に戻す方法を十年近く試み続けた。宗教界からも科学者からも強い反対があった。1978年7月25日、イングランドのオールダムの病院で、ルイーズ・ブラウンが生まれる。いまでは世界で千万人を超える人がこの方法で生まれている。エドワーズは2010年にノーベル賞を受けた。オールダム
- 一人っ子政策できごとAD1980年9月25日国が子どもの数を決める人口が十億に迫り、経済の発展を食いつぶすと恐れた中国の指導部は、1980年9月25日、夫婦に子を一人にとどめるよう呼びかける公開の書簡を出した。都市では厳しく守らされ、違反すれば罰金や職を失うこともあった。強制された中絶や不妊の手術も各地で起きる。男の子を望む家では、女の子が生まれて届け出されないこともあり、男女の比率が大きく崩れた。2016年に二人まで、のちに三人まで認められたが、出生数は減り続けている。北京
- 子どもの権利条約できごとAD1989年11月20日子どもは権利の主体1989年11月20日、国際連合の総会は、子どもの権利条約を全会一致で採択した。18歳未満のすべての人を子どもとし、生きる権利、育つ権利、守られる権利に加えて、自分に関わることに意見を言い、その意見を年齢と成熟に応じて重んじられる権利を認めた。子どもを、大人に守られるだけの存在ではなく、権利を持つ一人の人として扱う条約である。条約を作るきっかけはポーランドの提案で、そこには子どもの権利を唱えた医師コルチャックの記憶があった。条約は世界で最も多くの国が加わる人権の条約になり、日本は1994年に批准した。ニューヨーク
- 1.57ショックできごと1990年6月少子化の始まり1990年6月、前年1989年の日本の合計特殊出生率、すなわち一人の女性が一生のうちに産む子どもの数の見込みが、1.57だったと発表された。迷信のために子どもを産み控える人が多かった1966年の丙午の年の1.58を下回る、戦後で最も低い数字だった。この発表は「1.57ショック」と呼ばれ、少子化が社会の問題として広く意識されるきっかけになった。政府は1994年のエンゼルプランを皮切りに、保育所の整備や育児休業の制度などに取り組んだが、出生率はその後も下がり続け、2005年には1.26まで落ちた。東京
- マララ・ユスフザイ人物AD1997年7月12日 – ?学ぶ権利を訴えた少女女子が学校へ行くことを主張して銃撃され、生き延びた。17歳でノーベル平和賞を受ける。
- 児童虐待防止法できごとAD2000年5月24日家の中の暴力に踏み込む家庭の中で親が子どもを殴り、食事を与えず、心を傷つけることは、長いあいだ家の中のしつけの問題として外から口を出しにくかった。1990年代、児童相談所に寄せられる虐待の相談は年々増え、子どもが命を落とす事件が相次いだ。2000年5月24日に公布された児童虐待防止法は、身体への暴力、性的な虐待、育児の放棄、心への暴力を虐待と定め、虐待を見つけた人に通告を求め、児童相談所が家に立ち入って子どもを保護できるようにした。2019年の改正では、しつけのために親が子どもに体罰を加えることも禁じられた。東京
- こうのとりのゆりかごできごとAD2007年5月10日名前を明かさずに預ける2007年5月10日、熊本市のカトリック系の慈恵病院は、育てられない事情を抱えた親が、名前を明かさずに赤ちゃんを預けられる窓口を設けた。「こうのとりのゆりかご」と名づけられた。窓の扉を開けて赤ちゃんを保育器に置くと、病院の人が駆けつける。病院は、捨てられて命を落とす赤ちゃんを救いたいと考えた。ドイツの「赤ちゃんポスト」を手本にしていた。育児の放棄を助長するという批判もあったが、15年あまりで170人を超える子どもが預けられた。病院は2021年から、母親が病院にだけ身元を明かして出産する「内密出産」にも取り組んでいる。熊本
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
教育の歴史12件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。支え合いの歴史12件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。女性の権利8件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。考えることの歴史6件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。表現の歴史5件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。二つの大戦4件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。都市の歴史4件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。交易路とお金4件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。働くことの歴史3件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。明治2件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。民族移動の時代2件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。主権はだれのものか2件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。誰が書き残したか2件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。老いと死の歴史2件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。性の歴史2件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。技術と産業1件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。冷戦のあと1件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。キリスト教のひろがり1件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。日本の古代1件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。確かめるという方法1件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。障害の歴史1件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。メディアの歴史1件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。