高麗青磁
概要
中国の越州窯を学んで始まり、12世紀に独自の色に達した。「翡色」。宋の徐兢が『高麗図経』に「高麗人は青磁の色を翡色と言う。近年、作りが巧みで、色も美しくなった」と書いた。象嵌の技法——素地に文様を彫り、白土と赤土を埋めて焼く——は高麗の発明で、雲と鶴が器の上を飛ぶ。モンゴルの侵攻と、その後の窯の衰退で、技法は一度、失われた。
場所
37.97°N 126.55°E · 朝鮮民主主義人民共和国(高麗の都)
本文
朝鮮半島の高麗で青磁が焼かれ始めたのは、10世紀のことである。手本になったのは、中国の浙江にあった越州窯の青磁だった。青磁とは、鉄分をわずかに含む釉をかけ、窯の中の酸素を絞った炎で焼いて、青みがかった緑に発色させる焼き物である。高麗の陶工たちは11世紀にその技を自分のものにし、12世紀には、中国の青磁とも違う独自の域に達した。
主な窯は、半島の南西の全羅道、いまの康津と扶安にあった。どちらも西の海に面し、焼いた器を船で都の開京(いまの開城)へ運べた。康津には、200を超える窯の跡が残っている。

高麗の人々は、その色を「翡色」と呼んだ。翡翠の緑である。灰色を帯びた緑から、澄んだ青緑まで幅があり、宋の宮廷が好んだ汝窯の空色の青磁とは、色合いが異なる。1123年、宋の使節の一員として開京に来た徐兢は、翌年まとめた見聞録『宣和奉使高麗図経』に、青い陶器を高麗の人は翡色と言う、近年は作りが巧みになり、色がいっそう美しくなった、と書いた。瓜の形をした酒の器の蓋に、蓮の花と伏せた鴨の形が付いている、という細かな描写もある。宋の別の書物は、高麗の秘色は天下第一だと記している。焼き物の本場である中国の人々が、高麗の青磁を認めていたのである。
12世紀の半ばから、高麗の陶工は象嵌という技を青磁に用いた。乾ききる前の器の肌に文様を彫り、その溝に白く焼ける土と黒く焼ける土を埋める。表面を削って平らにし、釉をかけて焼くと、文様が澄んだ緑の釉の下に沈んで見える。金属や漆の器に貝や金銀をはめこむ技を、焼き物に移したものと考えられ、この形で大きく発達させたのは高麗とされる。雲の間を鶴が舞う雲鶴の文様、柳と葦と水鳥、菊、牡丹、葡萄と童子。円の中の鶴は上へ、円の外の鶴は下へ飛び、器を回すと空が動いて見える。

形もさまざまだった。肩が張って裾のすぼまった酒の瓶(梅瓶)、瓜の形の水注、竹の節や瓢箪の形、獅子や麒麟をのせた香炉、亀や童子の形の水滴。仏前に水を供える浄瓶、茶の碗、枕、そして瓦まで青磁で作られた。『高麗史』は、12世紀の半ば、王が庭園の亭の屋根を青磁の瓦で葺いたと記している。王室と貴族と寺院が、その主な使い手だった。宋から入った茶を飲む習慣と、国の教えだった仏教の儀礼が、器の求めを生んだ。
高麗青磁が最も華やいだのは、1170年に武臣たちが政権を握った(高麗の武臣政変)前後の時代である。だが1231年から、モンゴルの軍が半島に繰り返し攻め入った。王室は都を江華島に移して40年近く抵抗し、その間に仏の力で国を守ろうと高麗版大蔵経が彫られた。窯は荒れ、職人は散り、13世紀の末から、青磁の色は濁り、文様は粗くなっていく。14世紀には倭寇が沿岸を荒らし、海辺の窯は内陸へ移らざるをえなかった。

1392年に朝鮮王朝の成立が成ると、主流は、灰色の肌に白い土を刷毛で塗った粉青沙器へ、やがて白磁へと移った。儒教の質素を重んじる気風と、王室の好みの変化が背景にあった。翡色を生んだ技は途絶えた。のちの文禄・慶長の役で日本に連れ去られた朝鮮の陶工たちが九州で磁器を焼き始めるが、彼らが伝えたのは白磁の技だった。
高麗青磁が再び世に出たのは、20世紀のはじめである。日本人などによって高麗の墓が盗掘され、出てきた青磁が市場に流れた。初代の韓国統監だった伊藤博文も多くを集めて日本の皇室に献上し、その一部は日韓基本条約の後に韓国へ返された。1930年代から、韓国と日本の陶工たちが翡色の再現に挑み、いまも康津では復元の青磁が焼かれている。1976年から引き揚げられた新安沖の沈没船は、1323年に中国の港を出て日本へ向かった船で、2万点を超える陶磁器のほとんどは中国のものだったが、その中に高麗の青磁も数点まじっていた。