モーグ・シンセサイザー
概要
テルミンの組み立てで学生時代を過ごしたロバート・モーグが、電圧で音の高さを制御する発振器を作った。鍵盤の電圧を一オクターヴ一ボルトに決め、発振器・フィルタ・増幅器を線でつないで音を組み立てる。1968年、ウェンディ・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』が売れた。1970年のミニモーグで、実験室の装置が舞台の楽器になった。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ロバート・モーグAD1934年5月23日–AD2005年8月21日 · 作った本文
電気で音を作る試みは、十九世紀の終わりから続いていた。1897年に特許が出されたサディアス・ケイヒルのテルハーモニウムは、重さ二百トンに及ぶ巨大な発電機の楽器で、電話線を通して音楽を家々に配ろうとした。だが電話の通話に雑音を混ぜてしまい、事業は行き詰まった。1920年には、ロシアの技術者レフ・テルミンが、触れずに演奏する楽器を作った。二本のアンテナに手を近づけたり離したりすると、音の高さと大きさが変わる。テルミンはレーニンの前で演奏を披露し、アメリカでも興行して評判をとったが、のちにソ連へ連れ戻され、収容所で盗聴装置の開発をさせられた。
ロバート・モーグは1934年、ニューヨークで生まれた。十四歳のとき、雑誌に載ったテルミンの製作記事を見て、技術者の父と一緒に組み立てた。十九歳のころには自分で設計したテルミンの記事を書き、組み立て用の部品一式を通信販売し始め、その売り上げで学費をまかなった。ニューヨークのクイーンズ・カレッジで物理学を、コロンビア大学で電気工学を学び、コーネル大学で工学物理の博士号を取った。

転機は1963年、作曲家ハーバート・ドイチュとの出会いだった。電子音楽を作りたいというドイチュに、当時の方法は不便すぎた。ケルンの放送局のスタジオでも、パリの具体音楽の工房でも、ニューヨークのコロンビア・プリンストン電子音楽センターでも、音を録ったテープを切り貼りして曲を組み立てていた。一分の音楽を作るのに何日もかかり、しかも演奏はできない。モーグは考えた。音を作る部品を組み合わせて、鍵盤で弾ける楽器にできないか。
1964年、モーグが形にした核心は、電圧で音を操るという考え方である。制御のための電圧を上げると、音が高くなる。モーグはその関係を、一オクターヴにつき一ボルトと決めた。人の耳は、周波数が二倍になるたびに一オクターヴ上がったと感じる。電圧と周波数をそのまま比例させたのでは、鍵盤の鍵を等間隔に並べられない。そこでトランジスタの電流と電圧のあいだの指数的な関係を利用し、一ボルト上がるごとに周波数が二倍になる回路を作った。この一オクターヴ一ボルトの約束は事実上の標準となり、いまも多くの機材に受け継がれている。

楽器は三つの部品からできていた。音のもとになる波を作る電圧制御の発振器、音の成分を削って音色を作るフィルター、音量を決める増幅器である。それらを電話の交換台のようにケーブルで差し替えてつなぐ。つなぎ方を変えれば音が変わる。モーグが特許を取ったフィルターは、トランジスタを梯子のように積み重ねた独特の回路で、太く暖かいといわれる音を生み、ほかの楽器と聞き分けられる「モーグの音」になった。
もう一つ大切だったのが、音の時間の形を作る装置である。楽器の音には、鳴り始めから消えるまでの形がある。ピアノは一気に立ち上がってゆっくり減り、ヴァイオリンはゆっくり立ち上がって長く続く。この形を、立ち上がり、減衰、持続、余韻の四つの値で作る。作曲家ウラジーミル・ウサチェフスキーの求めに応じて作られた装置がもとになったとされ、いまも多くのシンセサイザーにこの四つのつまみが並んでいる。

同じころ、西海岸のサンフランシスコでは、ドン・ブックラがほぼ独立に電圧で制御する楽器を作っていた。大きな違いは、ブックラが鍵盤を付けなかったことである。鍵盤は西洋の十二の音の枠に縛るものだとして、触れて操る板や、音の並びを自動で進める装置を置いた。モーグは鍵盤を付けた。演奏家が使えるものでなければ楽器ではない、という考えだった。売れたのはモーグのほうで、ブックラの系譜はのちに「西海岸式」と呼ばれる別の伝統になった。
楽器を世に知らしめたのは、1968年のウェンディ・カーロスのアルバム『スイッチト・オン・バッハ』である。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品をモーグのシンセサイザーだけで演奏した。当時のモーグは一度に一つの音しか出せないので、一声部ずつ録音しては重ねた。発振器は温度でたちまち音程が狂うため、数小節ごとに調律し直しながらの作業だった。アルバムはクラシックの録音として異例の売れ行きを示し、のちに百万枚を超え、グラミー賞を三部門で受けた。この一枚で、シンセサイザーは研究室の装置から、売れる楽器になった。カーロスはその後、映画『時計じかけのオレンジ』や『トロン』の音楽を手がけ、1979年には性別を移行したことを公にした。当時としてはきわめて早い表明だった。

1970年には、小型のミニモーグが発売された。ケーブルでつなぐ方式をやめ、よく使う接続をあらかじめ内部で固定した。三つの発振器とフィルター、エンベロープの装置、四十四の鍵盤を一つの箱に収め、一人で持ち運べた。値段は千五百ドルほどだった。これが舞台に乗った。キース・エマーソンやリック・ウェイクマンのようなロックの鍵盤奏者、スティーヴィー・ワンダー、クラフトワーク、そしてディスコやファンクの音楽家たちが使い、十年あまりで一万二千台ほどが売れた。
だが、モーグは経営者ではなかった。会社は資金繰りに苦しみ、1971年には他社の手に渡り、モーグは1977年に会社を去った。その後しばらくは、自分の名前を製品名に使うことさえできなかった。1970年代の末からは、日本のヤマハやローランド、コルグが市場を広げ、1983年にヤマハが発売したデジタルのDX7は十数万台を売る大ヒットになった。アナログのシンセサイザーは時代遅れとみなされた。
2002年、モーグはようやく自分の名前の商標を取り戻した。2005年、脳腫瘍のため七十一歳で死去した。そのころには、アナログの回路が生む音がもう一度求められるようになっていた。
いま、音楽を作るソフトウェアの画面には、発振器とフィルターと増幅器、そして四つのつまみが並んでいる。流れているのはもう電圧ではなく数値だが、モーグが1960年代に決めた音の組み立て方は、ほとんどそのままの形で残っている。録音技術が磁気テープ録音から始まって演奏の姿を変えたように、電圧制御は楽器そのものの姿を変えた。