人物

フランツ・カフカ

Franz Kafka
AD1883年7月3日 – AD1924年6月3日(享年40)
オーストリア=ハンガリー重要度 5

概要

プラハ。ドイツ語を話すユダヤ人。商人の父を恐れた(『父への手紙』)。法学博士。労働者傷害保険局。午後2時に帰って、夜に書いた。『判決』『変身』『流刑地にて』。婚約を3回して、2回はフェリーツェ・バウアーと、全部解消した。結核。41歳で療養所で死んだ。『審判』『城』『失踪者』は未完で、ブロートが出した。「僕の書いたものを全部焼いてくれ」。

関わったできごと(1)

『変身』AD1915年 · 書いた

本文

フランツ・カフカは、1883年7月3日、オーストリア=ハンガリー帝国のボヘミアの首都プラハに生まれた。生家は旧市街の広場の近く、かつてのユダヤ人街との境にあった。父ヘルマンは、南ボヘミアの村の貧しいユダヤ人の肉屋の子で、少年のころから行商で苦労を重ね、プラハで装身具や小物の卸の店を開いて成功した。大きな体と大きな声を持ち、自分の力で成り上がったことを誇る男だった。母ユーリエは、裕福な醸造業者の家の出だった。家ではドイツ語を話し、フランツはドイツ語の学校に通った。プラハの人口の大多数はチェコ語を話す人々で、ドイツ語を話す人は1割に満たず、そのかなりの部分がユダヤ人だった。カフカはチェコ語も不自由なく使えたが、チェコ人からはドイツ人として、ドイツ人からはユダヤ人として見られる、二重の少数派の中で育った。二人の弟は幼くして亡くなり、下に三人の妹、エリ、ヴァリ、オットラが生まれた。

1923年のフランツ・カフカ
1923年のフランツ・カフカWikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

父の前で、カフカはいつも自分を小さく、弱く感じていた。36歳のとき、彼は父に宛てて、ノートで100ページを超える長い手紙を書き、幼いころから父の言葉と態度にどれほど打ちのめされてきたかを綴った。この『父への手紙』は母に託されたが、母は夫に渡さず、父は読まないままだった。

プラハのドイツ語の大学で、カフカは父の望む実用の学問として法学を学び、1906年に法学の博士になった。大学時代には、生涯の友となる作家マックス・ブロートと出会っている。二人は一緒にギュスターヴ・フローベールの小説をフランス語の原文で読み、カフカはフローベールを生涯敬愛した。1908年から、彼はボヘミアの労働者傷害保険局に勤めた。工場で働く人々の事故を調べ、保険の料率を決め、事故を防ぐための報告を書く仕事である。彼は有能な役人で、昇進を重ねた。勤めは朝8時から午後2時までで、午後は眠り、夜から明け方にかけて書いた。眠りの足りない日々が、彼の体を少しずつ蝕んでいった。

1912年9月22日の夜から翌朝にかけて、カフカは一晩で短編『判決』を書き上げた。父に死を宣告された息子が、橋から川へ身を投げる話である。日記には、書くとはこういうことなのだ、と記した。同じ年の秋から冬にかけて、彼は、ある朝目覚めると巨大な虫に変わっていたセールスマンの話『変身』を書いた(『変身』)。家族を養うために働き続けた男が虫になると、家族は初め戸惑い、やがて彼を厄介者として扱い、彼が死ぬとほっとして郊外へ散歩に出かける。1914年には、処刑の機械を誇らしげに説明する士官を描いた『流刑地にて』を書き、ある朝、身に覚えの無いまま逮捕され、見えない裁判所に追い詰められていく銀行員の長編『審判』を書き始めた。

『変身』に関わる図版:Franz Kafka Die Verwandlung 1916 Orig.-Pappband
『変身』Wikimedia Commons © Foto H.-P.Haack · CC BY 3.0

1912年の夏、カフカはブロートの家で、ベルリンから来た女性フェリーツェ・バウアーに出会った。口述を録音する機械の会社に勤める、しっかり者の女性だった。彼は彼女に手紙を書き始め、5年間で500通を超える手紙を送った。1914年6月に二人は婚約したが、結婚して家庭を持つことと、夜に孤独の中で書くこととは両立しないと恐れた彼は、翌月、ベルリンのホテルで彼女と家族から問い詰められ、婚約は解消された。彼はその場面を「ホテルの法廷」と呼んだ。1917年7月に二度目の婚約をしたが、その8月、彼は喀血し、結核と診断された。病は、結婚から逃れる口実にもなった。12月、婚約は再び解消された。その後も彼は、1919年にプラハの女性ユーリエ・ヴォホリゼクと婚約し、父に反対され、やがて解消している。

1920年、カフカは、彼の作品をチェコ語に訳したいと手紙をくれたウィーンの女性ミレナ・イェセンスカーと、激しい文通をした。夫のいる彼女との恋は実らなかったが、彼の手紙の中でも最も美しいものとされる。ミレナはのちにチェコの抵抗運動に加わり、1944年、ドイツの強制収容所で亡くなった。病が進む中、カフカは1922年、測量士として呼ばれた村で、城に住む見えない権力にたどり着こうとしてたどり着けない男の長編『城』を書いた。これも未完に終わった。

1923年、休養に出たバルト海の浜で、彼はユダヤ人の若い女性ドーラ・ディアマントに出会った。カフカは40歳にして初めて家族のもとを離れ、彼女とベルリンで暮らし始めた。第一次世界大戦(第一次世界大戦)のあとのドイツはひどい物価の高騰に襲われ、寒さと食べ物の乏しさの中で、彼の病は急に悪くなった。結核は喉に広がり、食べ物も水も飲み込めなくなった。1924年の春、彼はウィーンの近くのキーアリングの療養所に移った。そこで彼は、見物人を失いながら断食を続ける芸人の話『断食芸人』の校正をしていた。6月3日、彼は40歳で亡くなり、プラハのユダヤ人墓地に葬られた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

カフカは、生前、ほんの数冊の薄い本しか出していなかった。死の前、彼はブロートに宛てて、日記も原稿も手紙も、すべて読まずに焼いてほしいと書き残した。だがブロートはその願いに従わなかった。自分は焼かないと生前に彼に告げてあった、彼はそれを知っていて自分に託したのだ、とブロートは書いている。ブロートは、『審判』を1925年、『城』を1926年、アメリカに渡った少年の長編を『アメリカ(失踪者)』として1927年に出版し、日記や手紙もまとめていった。

1939年3月、ナチス・ドイツの軍がプラハに入る直前、ブロートはカフカの原稿を鞄に詰めて最後の列車で国を脱出し、パレスチナへ渡った。カフカの三人の妹たちは、のちにみなホロコーストの中で殺された。ブロートの死後、原稿は彼の秘書とその娘たちの手に渡り、長い裁判の末、2016年にイスラエルの国立図書館に納められることになった。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

20世紀の半ば以降、カフカの作品は世界中で読まれるようになった。理由の分からない罪に問われ、見えない組織に翻弄される人間の姿は、全体主義や官僚の支配を経験した時代の人々に、自分たちの姿として映った。不条理で悪夢のような状況を指す「カフカ的」という言葉も生まれた。若いころ友人に宛てた手紙で、彼は、本とは私たちの内なる凍った海を砕く斧でなければならない、と書いている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1883年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →