ローマ人の物語

概要
ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。
この物語について
なぜ一つの都市国家が、地中海をまるごと呑み込めたのか。そしてなぜ、その西半分は消え、東半分は千年残ったのか。
ローマの物語は、ローマだけを見ていても分からない。手本にしたギリシア、最大の敵だったカルタゴ、ついに屈服させられなかったパルティア、そして最後に境界の外から入ってきた人々。相手があってはじめて、この国が何をしたのかが見える。
始まりは、テヴェレ川のほとりの丘に立つ小さな集落だった。伝承ではローマの建国は紀元前753年、ロムルスによるとされるが、この年は後世の計算で、考古学が示すのは前8世紀ごろから丘の上の村々がしだいに一つにまとまっていく姿である。北には都市文明の進んだエトルリアの都市国家があり、南のナポリ湾にはギリシア人の植民市があった。ローマは両方から、文字も神々も、王の権標も、建築の技も受け取った。

王を戴いた時代は、前509年ごろ、最後の王タルクィニウス・スペルブスを追い出して終わったと伝えられる。以後ローマ人にとって「王」は最も忌まわしい言葉になり、権力は任期一年・二人一組の執政官に分けられた。一人の手に力を集めないこと、それがこの共和政の骨格だった。
だが共和政の内側は、はじめから貴族と平民の争いの場でもあった。平民は兵役を拒んで市の外へ立ち退くという手段で譲歩を引き出し、自分たちを守る護民官の設置を勝ち取る。前450年ごろには、それまで貴族の神官だけが知っていた慣習法が十二表法として広場に掲げられた。法を公開し、誰もが同じ規則に従うという考えは、のちのローマ法の出発点になる。

前390年ごろ(前387年とする説もある)、北から来たケルト人の一団がローマを占領し、身代金を払わせて去った。この屈辱は長く記憶され、市は城壁を固めた。以後、410年に西ゴートに入られるまで、ローマ市が外敵に落ちることはなかった。
ローマが他の都市国家と違ったのは、勝った相手の扱い方である。イタリアの諸都市を滅ぼさず、同盟市として兵を出させ、一部には市民権を与えた。敵が味方に変わり、兵の数が増えていく。南イタリアのギリシア人の都市が呼んだエペイロスの王ピュロスは、前280年のヘラクレアで象を使ってローマ軍を破ったが、何度勝っても次の軍団が現れることに音を上げた。「ピュロスの勝利」という言い回しはここから来ている。

イタリア半島をまとめたローマが次に向き合ったのは、海の向こうのカルタゴだった。前264年に始まる物語「ポエニ戦争」は、艦隊を持たなかったローマに海軍を作らせ、シキリアを最初の属州にした。二度目の戦争ではハンニバルがアルプスを越えて半島に現れ、カンナエでローマ軍を包囲して全滅させた。それでもローマは講和を求めず、同盟市の多くも離れなかった。勝った相手を味方に変えてきた仕組みが、ここで国を救った。前202年のザマで勝負がつき、前146年、カルタゴは街ごと焼かれた。同じ年、ギリシアのコリントスも破壊されている。
東では、マケドニアとセレウコス朝という、アレクサンドロスの後継国家と戦った。前197年のキュノスケファライで軍団がファランクスを破り、前190年のマグネシアでアジアの大王を退けた。この頃、人質としてローマに送られたギリシア人ポリュビオスは、わずか53年足らずでローマが世界の大半を支配下に置いたのはなぜかを問い、その答えを執政官・元老院・民会が互いを抑える混合政体に見た。外から来た者が、この国の仕組みをいちばんよく書き残した。

しかし勝利は、共和政そのものを蝕んでいった。属州から富と奴隷が流れ込み、大土地所有が広がって、兵の供給源だった中小の農民が土地を失う。前133年に土地の再分配を試みた護民官ティベリウス・グラックスは、元老院議員らに殴り殺された。前107年ごろからマリウスが無産市民を兵に取るようになると、兵は除隊後の土地を国家ではなく将軍に期待するようになる。前88年、スッラが自分の軍を率いてローマへ進軍し、越えてはならない線が越えられた。
そこから物語「共和政の終わり」までは一本の道だった。ポンペイウス、クラッスス、カエサルの三人が元老院を迂回して国を動かし、カエサルはガリアを征服して私兵のように忠実な軍団を手に入れた。前49年、カエサルはルビコン川を渡り、内戦に勝って終身の独裁官になったが、前44年3月15日、元老院で刺し殺される。共和政を最後まで弁護したキケロは、翌年の粛清で首と手を切られた。

内戦を最後に制したのは、カエサルの養子オクタウィアヌスだった。前31年のアクティウムでアントニウスとクレオパトラを破り、エジプトを手に入れる。前27年、彼は権力を元老院に「返す」と宣言し、代わりにアウグストゥス(尊厳ある者)の称号を受けた。王とも独裁官とも名乗らず、共和政の形を残したまま実権を握るこのやり方が、元首政と呼ばれる帝政の始まりである。
アウグストゥスは拡大の限界も知った。紀元9年、ゲルマニアのトイトブルク森の戦いで三個軍団が全滅すると、ライン川の東を属州にする計画は事実上放棄された。この線は、のちのヨーロッパでラテン語系の地域とゲルマン語系の地域を分ける線とほぼ重なる。
それから二百年、地中海はローマの平和の下にあった。街道と水道が整い、コロッセウムが建ち、カエサル以来の暦が使われ続けた。117年、トラヤヌスの下で版図は最大になるが、跡を継いだハドリアヌスはメソポタミアを手放し、ブリタニアに長城を築いた。拡げることから守ることへ。ローマは東のパルティアをついに屈服させられず、ユーフラテス川のあたりが東の限界であり続けた。
五賢帝の最後、マルクス・アウレリウスの治世には、陣中で『自省録』を書く哲人皇帝の姿の裏で、疫病が帝国を襲い、ドナウ川の向こうからマルコマンニ族が押し寄せた。ローマは攻める側から守る側に回りつつあった。息子コンモドゥスが192年に暗殺されると、翌年には皇帝が次々に立つ。212年、カラカラ帝は帝国内の自由人のほとんどに市民権を与え、「ローマ人」は一都市の名から地中海世界の住民の名になった。

235年からの半世紀、三世紀の危機が帝国を揺さぶる。軍が皇帝を立てては殺し、半世紀で二十人を超える皇帝が入れ替わった。東ではパルティアに代わったササン朝が攻め込み、西ではガリアが、東ではパルミラが事実上の別国家になった。アウレリアヌスが274年に帝国を再びまとめたとき、首都ローマにはもう城壁が必要になっていた。
立て直したのはディオクレティアヌスである。284年に即位した彼は、帝国を四人の皇帝で分けて治める四分統治を始め、税制と軍を組み直し、物価の上限まで勅令で定めた。キリスト教徒への最後で最大の迫害を行ったのも彼だった。その後を争って勝ち残ったコンスタンティヌスは、313年のミラノ勅令でキリスト教を公認し、330年、ボスポラス海峡の古都ビュザンティオンに新しい都コンスタンティノープルを開いた。帝国の重心は、豊かで人の多い東へ移っていく。

378年、ドナウを越えて帝国内に入ったゴート人がハドリアノポリスで東の皇帝ウァレンスを敗死させた。帝国の中に、帝国の軍ではない武装集団が住みつくことになる。キリスト教を国の宗教にしたテオドシウス1世が395年に死ぬと、帝国は二人の息子に分けられ、二度と一人の皇帝の下に戻らなかった。
西はその後、八十年あまりで崩れた。410年、西ゴートがローマを略奪し、439年にはヴァンダル人がカルタゴを奪って西の穀倉を断った。名将アエティウスが外敵を防いだが、454年に皇帝自身の手で殺される。476年、ゲルマン人の将軍オドアケルが少年皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退け、帝冠を東の皇帝へ送り返した。これが西ローマ帝国の滅亡とされる年だが、当時の人々がこれを一つの時代の終わりと感じた形跡は乏しい。イタリアには元老院も役人も残り、オドアケルは東の皇帝の名の下で統治した。

東の帝国は、自分たちをローマ人と呼び続け、1453年にオスマン帝国に都を落とされるまで千年続いた。西の跡地にはゲルマン人の王国が並び、やがてローマの司教が西の権威の中心になる。ラテン語は各地でイタリア語やフランス語、スペイン語に分かれ、ローマ法は東の皇帝ユスティニアヌスの法典を通して近代ヨーロッパの民法に受け継がれた。
西が消えて東が残った理由は、一つではない。東は都市と人口と税収で勝り、コンスタンティノープルは三方を海に守られていた。西は長い国境を抱え、富は大土地所有者のもとに集まって国庫に入らなかった。ただ、ローマが残したものは国の形より長く生きている。任期と同僚で権力を縛る共和政の工夫も、それが勝利と富によって壊れていった過程も、いまの私たちがその両方を学ぶ手本になっている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(147)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ギリシア諸ポリス国? – BC338年(カイロネイアの戦い)手本にした先進地域。のちに属州として組み込むアテナイ・スパルタ・テーバイなどの都市国家。互いに争い続け、カイロネイアでマケドニアに屈した。
- マケドニア国? – BC168年(ピュドナの戦い)東地中海の覇権を争った相手ギリシア北方の王国。フィリッポス2世がギリシアを制し、アレクサンドロスがインダス川まで到達した。帝国は死後に分裂し、本国はローマに滅ぼされる。
- ティルスの紫できごとBC1500年頃皇帝以外は着られないアクキガイ科の巻貝の鰓下腺から、ごく微量だけ取れる分泌物。空気と日光にさらすと、黄から緑、青を経て、深い赤紫に変わる。1グラムの染料に貝が1万個要る。だからこの色は、王と神官と高位の官職の色になった。ローマでは皇帝以外が全身を紫に染めることを禁じ、ビザンツでは皇后の産室を紫の石で覆って「生まれながらの紫(ポルフュロゲネトス)」と呼んだ。1453年のコンスタンティノープル陥落のころには、製法はほぼ途絶えていた。ティルス
- カルタゴ国BC814年(伝承) – BC146年最大の敵。これを倒して地中海の覇権が決まったフェニキア人が築いた西地中海の海洋国家。三度のポエニ戦争でローマに敗れ、市は破壊された。
- ヌマ・ポンピリウス人物BC753年(伝承) – BC673年(伝承)ヤヌスの門ロムルスの死後、サビニ人の賢者が王に選ばれた。暦、神官、巫女、ヤヌスの門、境界の神。ローマの宗教をすべて作ったと伝わる。43年、戦争をせず、ヤヌスの門は閉じたままだった。実在は疑わしいが、ローマ人はこの王を信じた。
- ローマ国紀元前8世紀(伝承ではBC753年) – (続く)主役ラティウムの一都市から地中海全域を支配する帝国へ。共和政のまま版図を広げ、内戦を経て帝政に移った。
- ローマの建国できごと紀元前8世紀(伝承ではBC753年4月21日)始まり。年代は伝承伝承ではロムルスがBC753年に建国したとされるが、考古学的には紀元前8世紀の集落の統合としか言えない。ローマ
- ギリシア人のクマエ植民できごとBC750年頃イタリア最初のギリシア植民市エウボイア島のギリシア人がナポリ湾の北に街を建てた。イタリア本土で最初のギリシア植民市。ここからエトルリア人とローマ人がアルファベットを学んだ。ラテン文字はクマエのギリシア文字から来ている。クマエ
- ヌマの暦と祭祀できごとBC715年(伝承)43年戦争をしなかった王ロムルスの次の王。サビニ人。10か月の暦に1月と2月を足して12か月にし、神官団と巫女とヤヌスの門を定めた。43年、戦争をしなかったと伝わる。ニンフのエゲリアに夜、教えを受けた。ローマの宗教の形は、この伝説の王に帰される。ローマ
- エトルリアの都市国家できごとBC7世紀頃ローマの制度の多くがここから来ているイタリア中部に、言語の系統が分からない人びとの都市が並んだ。ローマは王をここから迎え、文字と占いと建築を学ぶ。タルクィニア
- ウェスタの火できごとBC7世紀頃火が続いていることを、国が続いていることの形にしたローマの中心に、屋根のある丸い建物があり、そこで火が燃え続けていた。神像は置かず、火そのものを祀る。守るのは六人の巫女で、十歳前後で選ばれ、三十年を務め、その間は結婚できない。火を絶やせば鞭で打たれ、貞潔を破れば生き埋めにされた。三月一日に一度だけ、木を擦って新しい火を起こし、改めて灯し直す。火を保つことが国家の存続そのものと結ばれていた。西暦394年、テオドシウスがこの火を消させ、千年以上続いた炉が閉じられた。ローマ
- タルクィニウスの追放(王政の廃止)できごとBC509年(伝承)王は最も憎まれる言葉に王の息子がルクレティアを犯し、彼女が自殺し、ブルトゥスが短剣を掲げて王を追った。二人の執政官を1年で選ぶ共和政。ブルトゥスは自分の息子二人が王の復帰を謀ったのを処刑した。「王」はそれからローマで最も憎まれる言葉になった。ローマ
- ルキウス・ユニウス・ブルトゥス人物? – BC509年愚か者を装った「愚か者」を装って王の下で生き延びた。ルクレティアの遺体から短剣を抜き、王の追放を誓わせた。最初の執政官。息子二人が王と通じ、自分が処刑を見届けた。王の息子と一騎打ちで刺し違えて死んだ。カエサルを殺したブルトゥスは自分をその子孫と信じた。
- タルクィニウス・スペルブス人物? – BC495年傲慢王「傲慢王」。ローマ第7代で最後の王。舅を殺して王位を取り、元老院に諮らず、ケシの頭を切る仕草で敵を殺せと息子に伝えた。ユピテル神殿を建て、シビュラの書を買った。追われてエトルリアの助けを求め、レギッルス湖で負けて、クマエで死んだ。
- 護民官の設置できごとBC494年(伝承)平民の側の柱平民が兵役を拒んで聖山に立てこもり、貴族が譲った。平民の身を守る役人が置かれ、その体は不可侵とされ、あらゆる決定に拒否権を持った。共和政の中の、平民の側の柱になる。ローマ
- 十二表法できごとBC451年慣習法を公開した。ローマ法の出発点慣習法を成文にして公開した。ローマ法の出発点になる。ローマ
- ローマのケンススできごとBC443年頃数えることが権利を割り当てる5年ごとに、市民全員が名と年齢と財産を申告した。監督するのは監察官(ケンソル)。ここで決まるのは、どの階級に属し、どの部隊で戦い、どの投票区で何票を持つかである。数えることは、税と兵役と政治的な権利を同時に割り当てる行為だった。申告を怠れば、財産を没収され、奴隷に落とされることもあった。ケンソルは風紀も監督し、名簿から元老院議員を除くことができた。censor(検閲)の語はここから来る。ローマ
- ケルト人のローマ略奪できごとBC390年このあと800年、市が落ちることはなかったローマが外敵に落とされた数少ない例。以後800年、市が占領されることはなかった。ローマ
- ローマの水道できごとBC312年動力は重力だけ。一キロで数十センチの勾配監察官アッピウス・クラウディウスが、市の外の水源から水を引いた。全長約16キロ、そのほとんどが地下である。以後五百年で十一本が加わり、総延長は五百キロを超えた。動力は重力だけで、勾配は一キロあたり数十センチに保たれる。谷は水道橋で越えた。運ばれた水は、まず公共の泉と浴場へ行き、余った分が個人の家に配られた。管理者フロンティヌスが記録を残しており、無許可の分岐が横行していたことも書かれている。市内の水は、昼夜、止まらずに流れ続けた。ローマ
- アッピア街道できごとBC312年兵のための道が、支配を続ける道具になったサムニウム人との戦いのさなか、監察官アッピウス・クラウディウスは、ローマから南のカプアまで、真っ直ぐな道を敷かせた。砂利を層に重ね、上に多角形の石を隙間なく組む。雨水を流すため中央を高くし、脇に溝を掘った。目的は兵と補給を速く送ることである。商人が使い、巡礼が使い、やがて南のブルンディシウムまで延びて、東方への出口になった。「街道の女王」と呼ばれる。道は征服の道具であり、征服のあとは支配を続ける道具になる。二千三百年後のいまも、石畳の一部は歩ける。ローマ
- ポントス王国国BC281年(ミトリダテス1世の自立) – BC63年(ミトリダテス6世の死)小アジアでローマ人8万人を殺させた相手黒海の南岸に、ペルシア系の王家が建てた国。ギリシア風の都市と、内陸の山の民を抱えた。ミトリダテス6世が25年ローマと戦い、その死で属州になる。
- ヘラクレアの戦いできごとBC280年ローマ兵は象を初めて見たエピロス王ピュロスが南イタリアのギリシア都市に呼ばれ、象20頭でローマ軍を破った。ローマ兵は象を初めて見た。勝ったが失った兵が戻らず、翌年も勝って「もう一度こう勝てば、私は滅びる」。ピュロスの勝利。ヘラクレア
- 第一次ポエニ戦争できごとBC264年23年に及ぶ海の戦い。ローマは艦隊を一から作り、シキリアを最初の属州にした。
- ミュラエの海戦できごとBC260年カラス海を知らないローマが、座礁したカルタゴ船を写して100隻を、木を切ってから60日で作ったと伝えられ、「カラス」と呼ぶ橋を敵船に落として陸戦に変えた。最初の海戦で勝った。海の国と陸の国の戦争が、ここから海でも続く。ミュラエ
- パルティア国BC247年頃 – AD224年東の限界。ついに屈服させられなかったセレウコス朝から独立し、メソポタミアを奪ってローマと直接接した。以後300年、ローマの東の限界であり続ける。
- ハンニバル・バルカ人物BC247年 – BC183年(一説にBC181年)外から見たローマ。最大の脅威として現れる敵役カルタゴの将軍。アルプスを越えてイタリアに侵入し、カンナエでローマ軍を殲滅した。
- アエガテス諸島の海戦できごとBC241年3月10日最初の属州国庫が空で、富裕な市民が自分の金で200隻を造った。ルタティウス・カトゥルスがシチリアの西で、荷を積んで重いカルタゴの補給艦隊を沈めた。23年の戦争が終わった。シチリアはローマ最初の属州。海底から発見された衝角が2010年代に次々と上がっている。アエガテス諸島
- 大スキピオ人物BC236年 – BC183年ザマの戦いでハンニバルを破り、第二次ポエニ戦争を終わらせた。
- 大カトー人物BC234年 – BC149年「カルタゴは滅ぼされるべきである」と説き続け、第三次ポエニ戦争を導いた政治家。
- 第二次ポエニ戦争できごとBC218年ハンニバルのイタリア侵入からザマの敗北まで、17年に及んだローマとカルタゴの戦争。
- カンナエの戦いできごとBC216年8月2日史上最悪の敗北。それでも降伏しなかった中央をあえて後退させる両翼包囲でローマ軍を殲滅。ローマ史上最悪の敗北とされ、以後ローマは会戦を避ける持久戦略へ転じた。カンナエ

- ザマの戦いできごとBC202年スキピオがハンニバルを破り、第二次ポエニ戦争を決した。戦場の正確な位置は今も特定されていない。ザマ(位置は特定されていない)
- ポリュビオス人物BC200年頃 – BC118年頃ギリシア人の人質として来て、この国の仕組みを書き残したギリシア人の歴史家。ポエニ戦争の同時代史料『歴史』を書いた。
- キュノスケファライの戦いできごとBC197年軍団がファランクスに勝ったローマの軍団が、マケドニアのファランクスを丘の上で破った。長槍の密集隊は横から崩れた。翌年フラミニヌスはコリントスで「ギリシアの自由」を宣言し、歓声で鳥が落ちたと伝わる。自由は、ローマの許す限りだった。キュノスケファライ

- マグネシアの戦いできごとBC190年タウルス山脈の向こうへセレウコス朝の大王アンティオコス3世が、ハンニバルを迎えていたことをローマは許さなかった。小アジアで7万の軍が破れ、アンティオコスはタウルス山脈の向こうへ引き、賠償金1万5000タラントを払った。東地中海の主が決まった。マグネシア

- マリウス人物BC157年 – BC86年無産市民を兵に取り、軍を将軍個人に忠実な集団へ変えた。内乱の世紀の入口。
- カルネアデスのローマ訪問できごとBC155年二日で逆のことをアテナイの三人の哲学者が使節として来た。アカデメイアの学頭は一日目に正義を讃え、二日目に正義を否定して、同じ聴衆を説得した。大カトーは「早く帰らせよ」と言った。ローマの若者が哲学を知った日、とされる。ローマ
- ガイウス・グラックス人物BC154年 – BC121年首は金と同じ重さ兄ティベリウスより9歳下。兄の死を見て、10年待って護民官になった。演説で最初に演壇の向きを元老院から民衆へ変えた。奴隷に自分を殺させ、首は金と同じ重さで買われた。母コルネリアは「息子の墓は、二人の死んだ場所」と言った。
- カルタゴ滅亡できごとBC146年第三次ポエニ戦争の末、市は破壊され住民は売られた。地中海西部にローマの敵はいなくなった。カルタゴ

- スッラ人物BC138年 – BC78年ローマに軍を入れて独裁官となり、政敵を名簿にして処断した。
- ミトリダテス6世人物BC135年 – BC63年毒に慣らした体は最後に毒で死ねなかった毒殺を恐れて少量の毒を飲みつづけ、22の言語を話し、ローマと三度戦った。最後は息子に裏切られ、毒が効かず、部下に殺させた。
- ガイウス・グラックスの改革と死できごとBC121年演壇を民衆へ向けた兄の死から10年、弟が護民官になった。穀物の廉売、属州の徴税権の騎士への売却、植民市、イタリア人への市民権。二期目に落ち、元老院が非常事態を宣言し、3000人が殺された。首は金と同じ重さで買い取られ、鉛が詰められていた。ローマ
- ユグルタ戦争できごとBC112年「売り物の街だ」ヌミディアの王が元老院議員を買収して戦争を長引かせた。「売り物の街だ」と言ったと伝わる。マリウスがこの戦争で名を上げる。キルタ
- マリウスの軍制改革できごとBC107年軍が個人に忠実になる。共和政の終わりの起点無産市民を兵に取った。兵は土地を将軍に頼るようになり、軍が個人に忠実になる。ローマ

- キケロ人物BC106年1月3日 – BC43年12月7日共和政を最後まで弁護し、粛清された弁論家・政治家。共和政の擁護に回り、アントニウスの手で殺された。
- アラウシオの戦いできごとBC105年10月6日カンナエ以来の敗北。マリウスの改革を引き出す北から来たキンブリ人とテウトニ人に、ローマの二つの軍が全滅した。カンナエ以来の敗北で、マリウスの軍制改革を引き出す。アラウシオ(オランジュ)
- マルクス・トゥッリウス・ティロ人物BC103年頃 – BC4年頃キケロ家の奴隷として生まれ、BC53年に解放された。以後、主人の姓を名乗る。秘書であり、書記であり、校正者であり、そして事実上の共同編集者だった。キケロの書簡と演説の多くは、彼が写し、整理し、死後に編纂したものである。速記の体系を作ったとされ、その記号はティロ式と呼ばれた。健康を害しやすく、キケロが心配する手紙が残っている。主人が殺された後も長く生き、伝記を書いたと伝えられるが、失われた。
- アクアエ・セクスティアエの戦いできごとBC102年荷車の上で戦った女たち北から来たキンブリ族とテウトネス族が、ローマの軍を5度破った。アラウシオで8万。マリウスが軍を作り直して、プロヴァンスでテウトネスを、翌年ヴェルケッラエでキンブリを潰した。女たちは荷車の上で戦い、子を殺して自殺した。ゲルマン人の最初の侵入。アクアエ・セクスティアエ

- ガイウス・ユリウス・カエサル人物BC100年7月12日(13日説あり) – BC44年3月15日ガリアを征服し、ルビコンを渡って内戦に勝ち、終身独裁官となった。暦を作り直した。
- ルクレティウス人物BC99年頃 – BC55年頃生涯のことはほとんど分からない。原子論を六巻の詩にした。中世の写本はわずかしか残らず、1417年にポッジョが見つけた写本の写しから広まる。
- 同盟市戦争できごとBC91年30万人が死んで市民権イタリアの同盟都市がローマ市民権を求め、拒まれて反乱した。3年、30万人が死んだ。ローマは戦いながら市民権を与えて終わらせた。イタリア人がローマ人になった。マリウスもスッラもポンペイウスの父も、ここで軍を持った。ローマ
- ミトリダテス戦争できごとBC88年小アジアのローマ人8万人が一日で殺されたポントスの王が小アジアのローマ人8万人を一日で殺させ、25年ローマと戦った。毒に慣らした体は、最後に毒で死ねなかった。シノペ

- ウェルキンゲトリクス人物BC82年頃 – BC46年フランスの祖アルウェルニ族の若い首長がガリアの部族を一つにし、焦土でカエサルを疲れさせ、ゲルゴウィアで勝ち、アレシアで負けた。馬でカエサルの前に来て、武器を足元に置いた。6年獄にいて、凱旋式で引き回されて、絞められた。19世紀にフランスの祖になった。
- スパルタクスの反乱できごとBC73年カプアの剣闘士養成所から始まった奴隷反乱。2年にわたりイタリアを揺るがした。カプア
- ヘロデ大王人物BC73年頃 – BC4年ヘロデの豚でいるほうが安全イドマヤ人の家からローマの後ろ盾でユダヤの王になった。エルサレムの神殿を建て直し、カイサリアを築き、マサダを要塞にした。妻と三人の息子を殺し、「ヘロデの豚でいるほうが息子でいるより安全だ」とアウグストゥスに言われた。
- ウェルギリウス人物BC70年10月15日 – BC19年9月21日マントヴァの農家に生まれ、農事詩を書き、10年かけて『アエネイス』を書いた。死ぬとき焼けと遺言し、皇帝が止めた。ダンテが地獄の案内役に選ぶ。
- アウグストゥス人物BC63年9月23日 – 14年8月19日カエサルの養子。アクティウムで勝ち、共和政の形を残したまま帝政を始めた。
- アグリッパ人物BC63年 – BC12年最初のパンテオン無名の家の出で、オクタウィアヌスの同級生。彼の戦いをすべて代わりに戦った。ナウロコス、アクティウム。ローマの水道と浴場と最初のパンテオンを建て、地図を作った。娘婿になり、後継者になり、先に死んだ。孫は皇帝にならず、曾孫ネロが皇帝になった。
- ティロの速記できごとBC63年話す速さで書き取る方法である。キケロの解放奴隷マルクス・トゥッリウス・ティロが体系を作ったとされる。プルタルコスは、カティリナ弾劾に続く元老院の討論で、カトーの演説をこの方法で記録させたのが最初だと書く。約4,000の記号から始まり、中世には13,000にまで膨れた。ローマ帝国の元老院と裁判の記録は、これで取られた。中世の修道院でも使われ、そしてカロリング朝の後に廃れた。ただし ⁊ の記号だけは、アイルランド語の表記に、いまも残っている。ローマ
- ガリア戦争できごとBC58年カエサルによるガリア征服。8年の遠征でローマの版図と、カエサル自身の力が決定的に大きくなった。

- ルクレティウス『事物の本性について』できごとBC55年頃世界は原子と空虚でできていて、神は関わらず、死は恐れるに足りない。エピクロスの教えを詩にした。1417年に写本が見つかり、ルネサンスを揺らす。ローマ

- アレシアの戦いできごとBC52年二重の包囲陣でウェルキンゲトリクスを降し、ガリアの組織的抵抗を終わらせた。アレシア
- ルビコン渡河できごとBC49年1月10日軍を率いて属州の境を越えた時点で内戦が始まった。渡ったとされる川の比定には諸説ある。ルビコン川(位置は特定されていない)

- ユリウス暦の施行できごとBC45年1月1日季節から3か月ずれていた暦を、1年365.25日の太陽暦に作り直した。以後1600年以上使われる。ローマ
- カエサル暗殺できごとBC44年3月15日元老院会議の場で共和派の一団に刺殺された。共和政の回復ではなく、次の内戦の始まりになった。ローマ

- 第二回三頭政治と追放告示できごとBC43年11月舌に簪オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスがボノニアの川の島で会い、殺す者の名簿を作った。元老院議員300人、騎士2000人。キケロの名も。首と手が演壇に釘づけにされた。アントニウスの妻フルウィアが舌に簪を刺した。財産は三人と兵のものに。ローマ

- フィリッピの戦いできごとBC42年10月23日共和政を守る軍が消えたカエサルを殺した二人が、二人の後継者と戦った。カッシウスは負けたと誤解して自死し、ブルートゥスは20日後に「私は徳を実体だと思っていたが、言葉にすぎなかった」と言って剣に伏した。共和政を守る軍は、これで消えた。フィリッピ
- ナウロコスの海戦できごとBC36年9月3日鉤付きの投射器ポンペイウスの息子セクストゥスがシチリアから海を握り、ローマを飢えさせていた。アグリッパが船を造り、水兵を訓練し、鉤付きの投射器で敵船を引き寄せて、300隻で破った。セクストゥスは東へ逃げて殺された。レピドゥスが兵に見捨てられ、三頭は二人になった。ナウロコス
- アクティウムの海戦できごとBC31年9月2日オクタウィアヌスがアントニウスとクレオパトラの艦隊を破り、ローマ世界の唯一の勝者となった。アクティウム

- クレオパトラの死できごとBC30年8月12日(10日説あり)プトレマイオス朝が終わり、エジプトはローマの属州になった。死の日付には異説がある。アレクサンドリア

- 元首政の始まり(アウグストゥスの称号)できごとBC27年1月16日帝政の始まりオクタウィアヌスが元老院で「すべての権限を返す」と言い、元老院が「受け取ってほしい」と頼み、属州の半分と軍を10年預けた。3日後、「アウグストゥス」。「尊厳ある者」。共和政の形を残して、一人が治める。「プリンケプス」、第一の市民。皇帝という語はまだない。ローマ
- ヘロデの神殿できごとBC20年イエスが歩いた工事中の神殿第二神殿を土台から建て直した。神殿の丘を倍に広げ、擁壁を築いた。その西側の壁が「嘆きの壁」。完成はAD64年で、6年後にローマが壊した。イエスが歩いたのは、この工事中の神殿になる。エルサレム
- ウェルギリウス『アエネイス』できごとBC19年(作者の死。未完)アウグストゥスのための建国神話トロイアの落人がイタリアに着き、ローマの祖になる。アウグストゥスの時代に書かれた建国の叙事詩で、作者は未完のまま焼けと遺言した。ローマ

- クラウディウス人物BC10年8月1日 – AD54年10月13日カーテンの後ろでゲルマニクスの弟。どもり、足を引きずり、家族に「馬鹿」と隠された。カリグラが殺されたとき、カーテンの後ろで見つかり、近衛兵が皇帝にした。歴史を書いた。ブリタニア。解放奴隷に行政を。妻メッサリナは彼の留守に結婚式を挙げて処刑された。次の妻アグリッピナに毒キノコで殺され、ネロが。
- イエス人物BC4年頃 – AD30年頃ローマの支配下にあったガリラヤの大工の家に育ったとされる。洗礼者ヨハネのもとに現れたのち、神の国が近づいたと説いて村々を回った。貧しい者、病む者、罪人とされた者と食事をともにし、律法の守り方をめぐって宗教の指導者たちと対立する。エルサレムで捕らえられ、ローマの総督の命で十字架にかけられた。弟子たちは彼が復活したと信じて教えを広め、そこからキリスト教が生まれた。本人は一行の文書も残していない。
- トイトブルク森の戦いできごとAD9年ここで拡大が止まる。ヨーロッパの東西を分けた線3個軍団が全滅し、ローマはライン川より東への拡大を諦めた。ヨーロッパの東西を分ける線がここで決まる。トイトブルク森(位置は特定されていない)
- ローマの絹できごとAD16年元老院が男性の絹の着用を禁じた。国富が東へ流れる、と大プリニウスが嘆いている。作り方を知らないまま、木に生える綿毛だと考えられていた。ローマ
- イエスの処刑できごとAD30年頃過越の祭りでエルサレムに人が集まる頃、ガリラヤから来た教師イエスが捕らえられた。神殿の商人を追い払い、祭司たちの怒りを買っていたとされる。ユダヤの最高法院で取り調べられたのち、ローマの総督ポンティウス・ピラトゥスの前に引き出され、反逆の罪で十字架刑を言い渡された。十字架は、ローマが奴隷や反乱者に科した見せしめの刑である。弟子たちは散り散りになったが、やがて師が復活したと告げ始める。処刑された一人の教師が、のちに世界最大の宗教の中心になった。エルサレム
- セイヤヌスの失脚できごとAD31年10月18日長い手紙の最後にティベリウスがカプリに引きこもり、近衛長官が9年ローマを持った。皇帝の息子を毒殺し、その妻と通じ、次の皇帝の座を求めた。ティベリウスは長い手紙を元老院で読ませ、最後に「逮捕せよ」。その日に絞殺され、子供も殺され、遺体は3日テヴェレに引きずられた。ローマ
- ネロ人物37年12月15日 – 68年6月9日ローマ大火の責をキリスト教徒に負わせたと伝わる。反乱に追われて自死し、王朝が絶えた。
- クラウディウスのブリタニア征服できごとAD43年象を連れて16日カエサルの100年後。どもりで足を引きずる皇帝が、凱旋のために4個軍団を送った。象を連れて自分で16日いた。カムロドゥヌムでカラタクスの側を破った。カラタクスは8年戦って、ローマに送られ、「これほどの街を持ちながら、なぜ我々の小屋を」と言って赦された。360年あまりの属州。カムロドゥヌム(コルチェスター)
- パウロの伝道旅行できごとAD47年ユダヤ教の枠を越えて、割礼を求めずに異邦人へ説いた。地中海を三度回り、手紙を書いた。その手紙が新約聖書の最も古い部分になる。エフェソス
- ガルムできごとAD50年頃自分の商品の広告を、玄関の床に敷いた小魚を塩と一緒に石の槽に積み、日に晒して数か月置く。魚自身の酵素と細菌が身を分解し、澄んだ琥珀色の液が上がる。ローマ人はこれをほとんどの料理にかけた。産地と等級があり、上等品は同じ重さの香水に迫る値で取引された。ポンペイに製造業者アウルス・ウンブリキウス・スカウルスの家が残り、床のモザイクに壺の絵と銘が描かれている。同じ原理の調味料が、東アジアの魚醤と、そして醤油につながる。ポンペイ
- トラヤヌス人物53年9月18日 – 117年8月8日版図が最大になるダキアとメソポタミアを加え、帝国の版図を最大にした。属州出身の最初の皇帝。
- カラタクス人物? – AD54年頃なぜ我々の小屋をカトゥウェッラウニ族の王クノベリヌスの子。「シンベリン」。43年に負けてウェールズへ。8年、ゲリラ。カルティマンドゥアに売られた。ローマ。「なぜこれほど持つ者が、我々の小屋を欲しがるのか」。クラウディウスが赦した。ローマで死んだ。ブリテンで最初に名の残る抵抗者。
- タキトゥス人物AD56年頃 – AD120年頃一冊の写本で生き延びたガリアの騎士の家。執政官、アシア総督。ドミティアヌスの恐怖を生き延びて、『アグリコラ』『ゲルマニア』『同時代史』『年代記』。「他の者が沈黙で仕えたとき」。簡潔で暗い文体。ゲルマン人を高潔に描いて、ナチスがそれを使った。
- ブーディカの反乱できごとAD60年ローマの入植地を三つ焼いた。記録はすべてローマ側のもので、彼女自身の言葉は残っていない。カムロドゥヌム
- ブーディカ人物? – AD61年頃勝利ローマに反乱を起こしたブリテンの女王。ロンディニウムを焼いたが敗れ、自ら命を絶ったと伝わる。
- マサダの陥落できごとAD73年ローマ軍が数か月かけて土の斜道を築いて岩山の砦に達したとき、籠城していた者はほぼ全員死んでいた。ヨセフスは集団自決と書き、考古学は遺体を数十体しか出していない。マサダ
- ハドリアヌス人物76年1月24日 – 138年7月10日拡大をやめて境界を固めた。ブリタンニアに長城を築き、帝国中を巡った。
- コロッセウムの完成できごとAD80年5万人を収容した円形闘技場。トラバーチンの石を積み上げて建てられた。ローマ
- ローマのインスラ(集合住宅)できごとAD1〜2世紀都の庶民の集合住宅人口が百万人に近づいた帝政のローマでは、市民の大多数が、インスラと呼ばれる何階建てもの集合住宅に住んでいた。一階には通りに面して店が並び、上の階ほど狭く、家賃は安く、貧しい人が住んだ。台所も便所も水道も無い部屋が多く、人々は公衆の浴場と便所、屋台の食べ物に頼った。急ごしらえの建物はしばしば崩れ、火事も絶えなかった。皇帝たちは建物の高さを制限し、64年の大火のあとには、ネロが通りを広げ、燃えにくい材料を使うよう命じた。詩人たちは、崩れかけた高い部屋の暮らしの惨めさを書き残している。ローマ
- ダキア戦争できごとAD106年記念柱に2662人トラヤヌスが二度遠征し、王デケバルスを追い詰めて自死させた。金鉱と50万人の奴隷。ローマの記念柱に2662人が彫られ、いまも見られる。ダキアはローマの最後の大きな属州で、165年後に放棄され、ラテン語だけが残った。ルーマニア。サルミゼゲトゥサ
- タキトゥス『年代記』できごとAD116年頃荒野を作って平和と呼ぶティベリウスからネロまで。「私は怒りも偏愛もなく書く」と言って、皇帝たちを冷たく描いた。「彼らは荒野を作って、それを平和と呼ぶ」。ローマの歴史家の最高峰で、中世には一冊の写本で生き延びた。ローマ

- ローマ帝国の最大版図できごとAD117年版図がここで頂点に達した。以後の皇帝は広げるのではなく守る側に回る。ローマ
- マルクス・アウレリウス人物121年4月26日 – 180年3月17日五賢帝の最後。北方の戦陣で自らへの覚え書き『自省録』を書いた。
- ハドリアヌスの長城できごとAD122年拡大をやめて境界を固める方針の象徴拡大をやめて境界を固める方針の象徴。全長117kmの石壁が島を横切った。ハドリアヌスの長城(位置は特定されていない)
- ローマのコンクリートできごとAD125年頃石灰と、ナポリ近郊ポッツオーリの火山灰と、石の塊を混ぜる。水と反応して固まる。木の型枠に流し込めるので、石を積むのでは作れない曲面が作れた。パンテオンの直径43メートルの丸屋根は、上へいくほど軽い骨材を使い、いまも無筋で立っている。海水中では、灰の成分が海水と反応して結晶が育ち、時とともに強くなる。この配合は中世に失われ、十九世紀に別の原理のセメントが現れるまで、これを超えるものは無かった。ローマ
- ハドリアヌスのパンテオンできごとAD126年鉄筋なしの最大のドームアグリッパの神殿が焼けたあと、皇帝が建て直した。直径43メートルのコンクリートのドーム。頂上に9メートルの穴。碑文はアグリッパの名のまま残した。1900年、鉄筋なしの最大のドーム。7世紀から教会で、だから残った。ローマ
- ガレノス人物AD129年 – AD216年頃ペルガモンの剣闘士の医者から、皇帝の侍医へ。猿と豚の解剖で人体を論じ、その誤りごと1500年の権威になった。
- セプティミウス・セウェルス人物AD145年4月11日 – AD211年2月4日アフリカ生まれの最初の皇帝アフリカ生まれの最初の皇帝。ラテン語に訛りがあった。内戦に勝ち、近衛兵を入れ替え、兵の給料を上げた。ブリタニアの遠征先ヨークで死に、息子たちに「兵を富ませ、他は気にするな」と言い残した。
- コンモドゥス人物AD161年8月31日 – AD192年12月31日闘技場に立った皇帝マルクス・アウレリウスの息子。ゲルマン戦争を金で終わらせ、闘技場で剣闘士として戦い、自分をヘラクレスと呼び、ローマを自分の名に改めた。愛人と侍従に毒を盛られ、それが効かず、風呂で絞められた。
- アントニヌスの疫病できごと165年五賢帝の世紀の裏で、人口の1割が死んだ東方遠征から戻った軍が持ち帰った。天然痘とされる。帝国の人口の1割前後が死に、マルクス・アウレリウスの治世の背景になる。ローマ

- マルコマンニ戦争できごとAD166年ローマが守る側に回ったドナウの向こうのゲルマン諸族が、疫病で兵の減ったローマに押し寄せた。皇帝は14年、前線で過ごし、陣中で『自省録』を書き、ウィーンで死んだ。ローマが守る側に回った最初の戦争になる。ウィーン

- 大秦王安敦の使者できごとAD166年「大秦王安敦」の使者が海路で日南に着き、象牙と犀の角を献じた、と後漢書が記す。マルクス・アウレリウスの使者か、商人の名乗りかは分からない。洛陽
- 『自省録』できごとAD170年頃北方の戦陣で皇帝が自分に向けて書いた覚え書き。公開するつもりのない文章が残った。

- アプレイウス『黄金の驢馬』できごとAD170年頃完全に残る唯一のラテン語小説魔術に手を出した若者がロバになり、盗賊、粉屋、料理人、見世物を巡って、イシスに救われる。中に「クピドとプシュケ」。完全に残るラテン語の小説はこれだけ。作者は魔術を使って寡婦と結婚したと訴えられ、自分で弁護した。『弁明』。マダウロス

- マクシミヌス・トラクス人物AD173年 – AD238年元老院に来なかったトラキアの羊飼い。身長2メートル40と伝える。セウェルスの下で兵に。235年、兵がアレクサンデルを殺して担いだ。元老院に来なかった。ローマに来なかった。ゲルマニアで戦い、税を上げ、238年にアフリカとローマが反乱。アクイレイアを囲んで、自分の兵に殺された。
- コンモドゥスの暗殺と五皇帝の年できごとAD192年12月31日五賢帝の世紀が終わる闘技場で剣闘士として戦った皇帝が、大晦日に風呂で絞め殺された。翌年、近衛兵が帝位を競売にかけ、四人が名乗り、属州の軍を持つセウェルスが勝った。五賢帝の世紀が終わる。ローマ
- アントニヌス勅令できごとAD212年ローマ人が地中海の人全部の名にカラカラが帝国の自由人全員にローマ市民権を与えた。属州民も。「神々に感謝する者を増やすため」と勅令は言い、ディオは「相続税を取るため」と書いた。市民と属州民の区別が消え、「ローマ人」が地中海の人全部の名になった。ローマ

- カラカラ浴場できごとAD216年1600人が同時に入れた1600人が同時に入れた。図書館、運動場、庭園。皇帝は弟を母の腕の中で殺した人で、浴場は民衆への贈り物だった。廃墟はいまオペラの野外劇場になる。ローマ
- ササン朝ペルシア国AD224年(アルダシール1世がパルティアを破る) – AD651年(ヤズデギルド3世の死)パルティアに代わった東の相手パルティアに代わってイラン高原を取り、ゾロアスター教を国の宗教として整えた。400年にわたってローマ・東ローマと戦い、最後は消耗しきったところへイスラム勢力が来る。
- 三世紀の危機できごと235年一度壊れかける50年で20人を超える皇帝が立ち、疫病と内戦と侵入が重なった。帝国は分裂の一歩手前まで行く。
- 軍人皇帝時代の始まりできごとAD235年50年で26人トラキアの農民出身の巨漢マクシミヌスが、兵に担がれてセウェルス・アレクサンデルを殺した。元老院に来なかった皇帝。3年後、兵に殺された。238年は6人が皇帝。50年で26人。ほとんどが殺された。ペルシア、ゴート、疫病、インフレ。帝国が割れかけた。ローマ
- ディオクレティアヌス人物AD244年頃 – 311年帝国を四人で分けて統治し、三世紀の危機を収めた。自ら退位した数少ない皇帝。
- デキウスの迫害できごとAD250年証明書を持たせた帝国中の住民に神々への犠牲を命じ、証明書(リベルス)を持たせた。エジプトからその証明書が何十枚も出土している。従った信徒と逃げた信徒をどう扱うかで、教会が割れた。ローマ

- ガリア帝国できごとAD260年14年、別の帝国皇帝がペルシアに捕えられた年、ライン軍がポストゥムスを皇帝に立てた。ガリア、ブリタニア、ヒスパニアが14年、別の帝国になった。皇帝も元老院も貨幣もあった。アウレリアヌスが終わらせる。トリーア

- ゼノビアのパルミラできごと267年三世紀の危機で、属領が自立した三世紀の危機でローマが揺れた隙に自立し、エジプトまで押さえた。5年で鎮圧される。パルミラ
- ナイススの戦いできごとAD269年ゴティクスゴート族とヘルール族が数万で船で黒海からバルカンへ。クラウディウス2世が近衛と騎兵でナイススで潰した。「ゴティクス」。翌年、疫病で死んだ。次のアウレリアヌスがゴートをドナウの北へ追い、ダキアを捨てた。ゴートは100年、来なかった。ナイスス(ニシュ)
- コンスタンティヌス1世人物AD272年頃 – 337年5月22日キリスト教を公認し、ビザンティウムに新都を築いた。帝国の重心が東へ移る。
- アウレリアヌスの帝国再統一できごとAD274年帝都に城壁が要る時代になった三つに割れた帝国を、5年でひとつに戻した。パルミラを落とし、ガリアを取り戻し、ローマに城壁を築く。「世界の回復者」と刻まれ、翌年に部下に殺された。ローマ
- 四分統治の開始できごとAD293年帝国を四人で分けて治める仕組み。危機は収まったが、のちに内戦の種になる。
- ディオクレティアヌスの最高価格令できごとAD301年床屋の値段まで貨幣を改めても物価が止まらず、皇帝は1000以上の品と賃金に上限を定め、違反は死刑とした。小麦、獅子、紫の絹、床屋の値段まで。品物が市場から消え、数年で守られなくなった。石に刻まれた断片が帝国中で見つかっている。ニコメディア
- ディオクレティアヌスの大迫害できごとAD303年2月23日最後で最大の迫害教会を壊し、聖書を焼き、聖職者を投獄し、翌年、全員に犠牲を命じた。10年続き、東方で厳しかった。最後で最大の迫害。それが終わって10年で、皇帝がキリスト教徒になる。ニコメディア

- ミルウィウス橋の戦いできごとAD312年10月28日盾にキリストの印コンスタンティヌスがローマの北の橋でマクセンティウスを破った。前夜、空にしるしを見て、兵の盾にキリストの印を描かせたと伝わる。マクセンティウスはテヴェレに落ちて溺れた。翌年、ミラノ勅令。キリスト教の皇帝の始まり。ローマ

- ミラノ勅令できごとAD313年キリスト教を含むすべての信仰を認めた。300年続いた迫害が終わる。メディオラヌム

- ニケーア公会議できごとAD325年皇帝が招集し、教義の統一が図られた。信仰の内容を国家が決める前例になる。ニカイア

- コンスタンティノープル遷都できごとAD330年重心が東へ移る帝国の重心が東へ移った。この都はこの後1100年以上続く。コンスタンティノープル
- ユリアヌス人物AD331年 – AD363年6月26日異教の最後の皇帝一族を殺されて育った皇族の学者が、皇帝になって古い神々を戻そうとした。2年でペルシアの戦場に死ぬ。「背教者」の名は勝った側が付けた。
- テオドシウス1世人物AD347年1月11日 – AD395年1月17日帝国を二人の息子に分けたヒスパニアの将軍の子。ゴートと講和して帝国の中に住まわせ、キリスト教を国教にし、異教の神殿を閉じ、オリンピアの競技を終わらせた。死ぬとき帝国を二人の息子に分け、それきり一つに戻らなかった。
- ハドリアノポリスの戦いできごとAD378年8月9日帝国の中に、帝国でない集団ができたフン人に追われて帝国内に入ったゴート人が、飢えと役人の搾取で反乱し、皇帝の軍を破って皇帝を殺した。帝国は以後、ゴート人を内側に抱えて生きる。ハドリアノポリス(エディルネ)

- キリスト教の国教化できごとAD380年テオドシウス帝がニケーア信条を国家の信仰と定めた。他の祭祀は禁じられていく。
- ガイセリック人物AD389年頃 – AD477年1月25日ヴァンダリズム足が不自由で、口数が少なく、欲が深かった、とヨルダネス。50年王だった。スペインからアフリカへ、カルタゴ、シチリア、サルデーニャ、ローマ略奪。皇帝の未亡人と娘を連れ帰った。ローマとビザンツの艦隊を二度焼いた。アリウス派。死ぬまで負けなかった。
- アエティウス人物AD391年頃 – AD454年9月21日最後のローマ人若い頃フン人の人質だった。フン人の兵でガリアを守り、ブルグント族を潰し、西ゴートと組んで、カタラウヌムでアッティラを止めた。「最後のローマ人」。皇帝ウァレンティニアヌス3世が自分の手で剣で刺した。翌年、皇帝もアエティウスの部下に殺された。
- ローマ帝国の東西分割できごとAD395年テオドシウスの死で東西に分けられ、二度と一つに戻らなかった。
- 東ローマ帝国国AD395年(テオドシウスの死による東西分割) – AD1453年(コンスタンティノープル陥落)西が消えたあとも1000年続いた東半分西が消えたあとも1000年続いた、ローマの東半分。自分たちはずっとローマ人と名乗っていた。版図は縮みつづけ、最後は城壁の内側だけになる。
- 西ゴート王国国AD418年(アクィタニアへの定住) – AD711年(グアダレーテの戦い)西の跡地に建った国の一つローマを略奪した部族が、そのローマから土地をもらってガリアに落ち着いた。フランクに追われてイベリアへ移り、300年治める。711年、イスラム軍に一戦で倒れた。
- オドアケル人物AD433年 – AD493年3月15日帝冠を送り返したスキリ族の王の子。ローマの傭兵隊長。476年、土地を求めた兵に推されて、16歳の皇帝を退位させ、帝冠をコンスタンティノープルに送った。「西に皇帝はいらない。私はあなたの代理」。イタリア王。17年。テオドリックに3年囲まれ、和睦の宴で自分の手で殺された。
- ヴァンダル王国国AD435年(ローマとの協定) – AD534年(東ローマによる征服)穀倉を握り、艦隊でローマを略奪したライン川を渡り、ガリアとイベリアを通り抜けて、海を渡ってアフリカに国を建てた。ローマの穀倉を握り、艦隊でローマを略奪する。ユスティニアヌスの軍が一年で滅ぼした。
- ガイセリックのカルタゴ占領できごとAD439年10月19日ローマの穀倉を失ったスペインからジブラルタルを渡ったヴァンダル族8万が、10年でローマの穀倉を取った。カルタゴの艦隊を得て地中海を荒らし、455年にローマを14日略奪した。「ヴァンダリズム」の語は18世紀にフランスの司教が作った。100年後にベリサリウスが滅ぼした。カルタゴ
- ロムルス・アウグストゥルス人物AD460年頃 – ?最初の王と最初の皇帝の名父オレステスがアッティラの書記で、ローマの軍司令官になって息子を皇帝にした。10か月。「小さなアウグストゥス」。オドアケルが父を殺し、子は殺さず、ナポリの近くの荘園に年金をつけて送った。ローマの最初の王と最初の皇帝の名を持った、最後の皇帝。いつ死んだか分からない。
- 西ローマ帝国の滅亡できごとAD476年終わり。当時そう感じた人はいなかった最後の皇帝が退位させられた。古代の終わりの目印として使われるが、当時そう感じた人はいなかった。ラヴェンナ
- テオドリックのイタリア統治できごとAD493年二つの民族が別々の法で同じ国に住むゴート人が軍を担い、ローマ人が行政を担う。元老院も法もそのまま使った。ボエティウスを重用し、そして処刑した。その死後、東ローマが攻め込む。ラヴェンナ
- 東ゴート王国国AD493年(テオドリックのラヴェンナ入城) – AD553年(ゴート戦争の終わり)イタリアを継いだテオドリックがオドアケルを殺してイタリアを取った。ローマの元老院と法をそのまま使い、ゴート人は軍だけを担う。彼の死後、東ローマが攻め込んで20年の戦争になる。
- トティラのローマ占領できごとAD546年12月17日二度と大都市に戻らなかった東ゴート戦争の11年目。トティラが1年囲んだローマに、イサウリア人の兵が門を開けた。市民は500人しか残っていなかった。壁を壊し、元老院議員を連れ去った。ローマが40日無人になった。ベリサリウスが翌年戻したが、ローマは二度と大都市に戻らなかった。ローマ
- ランゴバルドのイタリア侵入できごとAD568年半島は以後1300年、一つの国にならないユスティニアヌスが20年かけて取り戻したイタリアを、皇帝の死の3年後に別のゲルマン人が北から取った。半島は以後1300年、一つの国にならない。ラヴェンナ

- グレゴリウス1世の即位できごとAD590年疫病のさなかに、修道士だった貴族が教皇になった。ロンバルドと交渉し、穀物を配り、イングランドへ宣教師を送る。教皇が都市の統治者になった始まりで、聖歌に名が残る。ローマ
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
『ローマ人の物語』で読むローマ45件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。共和政の終わり24件を共有 / 500年続いた仕組みが、なぜ一人の男に明け渡されたのか。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ18件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。ポエニ戦争16件を共有 / 地中海の覇権をめぐる、ローマとカルタゴの120年。三度戦い、三度目でカルタゴは消えた。キリスト教のひろがり16件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。民族移動の時代13件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。東ローマ千年11件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。帝国と独立9件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。誰が書き残したか9件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。コテンラジオで聞く歴史8件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。主権はだれのものか6件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。表現の歴史6件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。都市の歴史5件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史5件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。交易路とお金4件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。考えることの歴史4件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。女性の権利3件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。『サピエンス全史』で読む歴史3件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。差別の歴史3件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。感染症と人類2件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。技術と産業2件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。ペルシア戦争2件を共有 / 当時最大の帝国に、都市国家の寄り合いが勝った。ギリシアが自分たちを語りはじめる。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。交通と旅の歴史2件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。アレクサンドロスの東方遠征1件を共有 / 20歳で王になった男が、11年でギリシアからインダス川まで到達した。そして32歳で死ぬ。確かめるという方法1件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『歴史とは何か』で読む歴史の読み方1件を共有 / 事実は自分では語らない。誰がどれを選んだかが、そのまま歴史になる。この年表そのものへの問いかけ。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。性の歴史1件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。法と裁判の歴史1件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。言葉と文字の歴史1件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。