働くことの歴史

概要
一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。
この物語について
一日八時間、週に五日。その区切りは、どこから来たのか。誰が決め、誰が争って手に入れたのか。
「働く」という言葉が指すものは、時代でまるで違う。畑を耕すことと、工場で同じ動作を繰り返すことと、机で数字を打ち込むことは、同じ言葉で呼べない。
人類の歴史の大半で、働く時間を決めていたのは太陽と季節だった。種をまく時期と刈り入れの時期には朝から晩まで働き、冬にはそれほど働かない。一日の長さは季節で伸び縮みし、時計で測られることはなかった。人の力を別の力に置き換える工夫は早くからあった。1086年にイングランドで作られた土地台帳には、五千を超える水車が記録されている。ドゥームズデイ・ブックの水車は、粉をひく重労働を水の力に任せていた村々の姿を伝えている。
働き手の数が、働く条件を変えることもある。14世紀の黒死病で人口が大きく減ると、生き残った働き手は高い賃金を求めることができた。領主たちは賃金を据え置く法で押さえ込もうとし、さらに新しい税が課された。1381年、イングランドの農民たちが立ち上がり、ロンドンに攻め上った。ワット・タイラーの乱である。指導者の一人だった司祭ジョン・ボールは、アダムが耕しイヴが紡いだとき、誰が貴族だったか、と説いたと伝えられる。働く側が、初めて大きくまとまって動いた出来事だった。反乱は鎮圧されたが、領主に縛られた農民の身分は、その後しだいに崩れていく。
大きな切れ目は、時計になる。14世紀のヨーロッパで、町の塔に機械時計が据えられるようになった。塔の時計は、季節によって伸び縮みしない、等しい長さの一時間を人々の暮らしに持ち込んだ。機械時計と、等しい一時間である。日の出から日没までだった仕事が、時間で測られ、時間で買われるようになった。すると、何時間が限度かという争いが始まる。
18世紀のイングランドでは、共同で使っていた土地を柵で囲い込む動きが議会の法によって進み、土地を失った人々は、賃金で働くほかに暮らしの道がなくなった。1776年、アダム・スミスの『国富論』は、ピンを作る作業を十数の工程に分ければ、一人で作るよりはるかに多くのピンを作れると説いた。分業は生産を増やす。だがそれは、一人の人間が一日じゅう同じ小さな動作を繰り返すことでもあった。

蒸気機関が工場を動かすようになると、働く場所は家や畑から工場へ移った。機械は止まらず、工場の鐘と時計が一日を区切った。労働時間は十数時間に及び、幼い子どもも働かされた。1833年の1833年工場法は、9歳未満の子どもを繊維工場で働かせることを禁じ、子どもの労働時間に上限を設け、守らせるための工場監督官を置いた。働かせてよい年齢と時間に、初めて国が線を引いたのである。
八時間という数字は、19世紀の初めに、工場主で改革者のロバート・オーウェンが掲げた。働く八時間、休む八時間、自分のための八時間。八時間労働は、要求として世界に広がっていった。1886年5月1日、アメリカの各地で八時間労働を求めるストライキが行われ、シカゴでは数日後の集会で爆弾が投げられ、警官と労働者に死者が出た。この出来事を記念して、5月1日はメーデーとして世界の労働者の日になる。八時間労働という区切りは、法や機械から自然に出てきたのではなく、争って、負けて、また争って、少しずつ削り取ったものになる。

20世紀の初め、働き方を測る学問が生まれた。アメリカの技師テイラーは、作業を細かな動作に分け、ストップウォッチで時間を測り、最短の手順を決めた。1913年、フォードの工場ではフォードの流れ作業が始まり、人が車の周りを動くのをやめ、車のほうが人の前を流れていくようになった。仕事は単調になり、辞める者が相次いだ。フォードは翌年、日給を5ドルに引き上げて人を引き止め、のちに週五日、四十時間の勤務も取り入れた。休む時間もまた、作って売る仕組みの一部だった。
休む日を決めることも、働く時間を決めることと同じくらい古い争いだった。321年、ローマの皇帝コンスタンティヌスは、日曜日を休みの日と定めた。フランス革命の政府は、一週間を十日に改めて休みを減らし、1920年代の末のソ連は、休みの日を人ごとにずらして工場を休まず動かそうとした。どちらも長続きしなかった。休みは、家族や友人と同じ日に休めてはじめて休みになる。日本で週に二日休む働き方が広まったのは、1980年代の終わりから1990年代にかけてである。
安全もまた、犠牲のあとで法になった。1911年、ニューヨークのトライアングル・シャツウエスト工場の火災では、出口の扉が閉ざされた建物で火事が起き、逃げ場を失った146人が死んだ。その多くが若い移民の女性だった。この惨事をきっかけに、ニューヨークでは工場の安全を定める法が次々に作られた。
第一次世界大戦のあと、1919年のILOの設立で国際労働機関が生まれた。その最初の条約は、工場で働く人の労働時間を一日八時間、週四十八時間に限るものだった。平和は社会正義の上にしか築けない、という考えが、その設立の土台にあった。1936年のフランスでは、人民戦線の政府のもとで、働く人々に二週間の有給休暇が認められ、多くの人が初めて海へ出かけた。
もう一つの軸は、誰にやらせるかになる。奴隷、農奴、年季奉公、移民、女性と子ども。嫌な仕事、危ない仕事、安い仕事は、いつでも押しつけられる相手を探してきた。19世紀のペルー沖の島では、肥料になる鳥の糞を掘る仕事に、契約の名のもとで中国から連れてこられた人々が、逃げ場のないまま働かされた。

日本の近代も、底で支えた労働があった。1925年の『女工哀史』は、紡績工場で長時間働かされた若い女性たちの暮らしを書き記した。日本で最初の工場法は1911年に作られたが、施行は5年後で、小さな工場には及ばなかった。戦後の1947年に労働基準法が一日八時間を定めたが、長い残業は当たり前のように続いた。1980年代の終わりには、働きすぎによる死を訴える相談窓口が開かれ、過労死という言葉は、そのまま外国でも使われるようになった。休まないことが、死因として名指しされたのである。
安い品の値段の中に、誰かの危険が入っていることは、いまも変わらない。2013年、バングラデシュの首都近郊で、縫製工場の入った建物が崩れ、1100人を超える人が死んだ。縫製工場の崩落である。その建物で作られていたのは、豊かな国々の店に並ぶ安い服だった。
機械は、人の仕事を引き取り続けてきた。かつて計算は、計算手と呼ばれる人々の仕事だった。1946年に動き出した電子計算機は、その仕事を機械に移し始めた。いま、同じことが事務や知的な仕事の多くで起きようとしている。
働き方を決めてきたのは、時計、機械、そして誰にやらせるか、の三つである。八時間という区切りも、週五日も、有給休暇も、どこかの誰かが争って手に入れたものだった。次の区切りをどう引くかは、これからの争いで決まる。
この物語が起きた場所
筋(84)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 休む日を決めるできごとAD321年3月7日キリスト教徒は日曜に集まって礼拝していた。321年、コンスタンティヌス帝は、都市の裁判所と工房をこの日に休ませる布告を出す。文面は「太陽の尊ぶべき日」と書かれており、キリスト教とも、太陽神の信仰とも読める言い方になっていた。農作業は例外とされた。宗教の慣わしが、国の休みとして法に書かれたのはこれが早い例になる。以後、休日は信仰の側の理由と、働かせる側の都合とで、何度も引き直されていく。週に一度必ず休む、という形はここから広がった。ローマ
- ドゥームズデイ・ブックの水車できごとAD1086年人の力を、水の力に置き換えていくウィリアム征服王の土地台帳は、イングランドに5624の水車を数えた。50世帯に1つ。穀物を挽く。ローマの技術(ウィトルウィウス)が、中世に村ごとに広がった。領主は水車を独占して、農民に使用料を取った(「バナリテ」)。12世紀から、縮絨(毛織物)、鍛冶のハンマー、製材、製紙、鉱山の排水。ヨーロッパは、水の力で、機械の文明になった。ウィンチェスター
- 機械時計と、等しい一時間できごとAD1335年仕事が、日の長さではなく時間で測られ始めるそれまでの時間は、日の出から日の入りまでを等分したものだった。だから、一時間の長さが、夏と冬で違う。日時計も水時計も、そう作られていた。修道院が、定時の祈りのために正確な合図を求め、脱進機を持つ機械が生まれた。1335年、ミラノのサン・ゴッタルド教会の塔で、時刻ごとに自動で鐘を打つ装置が動いた。以後、時間は、天体からではなく、機械の刻みから来るものになった。長さの等しい一時間が、そこから始まる。ミラノ
- 黒死病できごと1347年働き手が減り、賃金が上がり、身分が揺れたヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
- 浮浪を罰するできごとAD1349年働かない者を罰することで、働かせる黒死病で人が減り、労働力が不足した。賃金が上がりそうになる。イングランドは労働者勅令を出し、疫病前の賃金を超えて払うことも受け取ることも禁じ、健康な者が働かずに施しを受けることを罪とした。以後、浮浪はたびたび厳罰化される。1547年の法は、三日以上働かない者を二年間の奴隷とし、胸にVの烙印を押すと定めた。過酷すぎて二年で廃止されている。移動する貧しい者を罰する法は、その後も形を変えて長く残った。ロンドン
- ジャックリーの乱できごとAD1358年反乱の歴史は、鎮めた側の言葉で書かれる百年戦争でフランス王がイギリスに捕らえられ、黒死病で人が減り、傭兵くずれの兵が村を荒らした。そのうえ領主たちは、身代金と戦費のために農民から取り立てを重ねる。1358年の春、パリの北のボーヴェ地方で農民が蜂起し、城館を焼いて貴族を殺した。貴族が農民を呼んだ蔑称から、ジャックリーと呼ばれる。反乱は数週間で貴族の軍に鎮められ、何千人もの農民が殺された。記録を残したのは貴族の側で、農民の言い分はほとんど残っていない。ボーヴェ
- ワット・タイラーの乱できごとAD1381年6月働く側が、初めて大きくまとまって動いた黒死病で人手が減り、賃金を抑える法と人頭税に農民が怒った。ロンドンを占拠し、王と会い、指導者は殺された。それでも農奴制は崩れていく。ロンドン

- 塩ダラできごとAD16世紀季節ごとに海を渡って働く人々ニューファンドランド沖の浅瀬には、底が見えないほどのタラがいた。十六世紀、バスク、ポルトガル、フランス、イングランドの漁師たちが毎年大西洋を渡り、夏のあいだタラを釣った。タラは脂が少ないので、塩をして浜の棚で風に干せば、板のように固くなって何年も持つ。塩の豊かな南の国の船は塩をたっぷり使い、塩の乏しいイングランドの船は陸に上がってよく干した。干しダラは船乗りの食料になり、カトリックの国々の断食の日の食卓に並び、やがて西インドの農園で働かされる人々の食べ物にもなった。セントジョンズ
- メソジストの始まりできごとAD1738年5月24日炭鉱の入口での説教イギリス国教会の牧師ジョン・ウェスレーは、オックスフォードの学生のころ、弟チャールズらと規則正しい祈りと奉仕の会を作り、きちょうめんなやり方から「メソジスト」とからかわれた。1738年5月24日、ロンドンのアルダーズゲート通りの集まりで、ルターの書いた文章の朗読を聞いていたとき、彼は心が不思議に温まるのを感じたと日記に書いた。翌年から、教会の外の野原や炭鉱の入口で、労働者に向けて説教を始める。馬で国じゅうを回り、信徒を小さな組に分けて互いに支え合わせた。産業革命で教会から取り残された人々の信仰になり、のちに国教会から分かれた。ロンドン
- 理髪師と外科医が分かれるできごとAD1745年髭を剃る者が、瀉血もし、歯も抜き、傷も縫った。刃物を扱う職として同じ組合に属していたからである。大学で学んだ内科医は手を汚す仕事を見下し、外科は職人の技だった。1745年、ロンドンの理髪外科医組合が分かれ、外科医が独立する。解剖の知識を積み、やがて学位と試験の体系に入っていった。理髪師には髪と髭が残る。赤白の三色柱は、瀉血の時代の名残である。同じ道具を持つ二つの仕事が、知識の側に付くか手の側に付くかで身分を分けた。ロンドン
- 囲い込みできごと1750年土地を失った人が、賃金で働く人になる共有地に柵が立ち、法で私有地になった。羊と機械のために土地が空き、行き場を失った人びとが工場の働き手になる。土地が売り買いされる商品になった過程でもある。ロンドン

- 鯨油できごとAD1750年頃何年も帰れない仕事と、その分配の仕組み夜を明るくする最良の油は、マッコウクジラの頭部から採れた。煙が少なく、臭わず、白く明るい。頭の中の脳油は冷えると蝋になり、ほとんど煤の出ない蝋燭になった。ナンタケット島とニューベッドフォードの船が、大西洋から太平洋へ、そして日本の沖へと漁場を広げていく。航海は三年に及んだ。乗組員は多様で、逃亡奴隷と先住民と各国の船乗りが同じ船で働いた。鯨油の値が高騰し、そして石油とガス灯が、この産業を終わらせた。ナンタケット
- ワットの蒸気機関できごとAD1769年力の値段が下がり、工場の形が変わる復水器を分けて燃料を大幅に減らした。既にあった蒸気機関が、ここで工場に置ける道具になる。ロンドン
- 『国富論』できごとAD1776年分業が生産を増やす、という見立て富は金銀ではなく労働の生産物だと定め、分業と市場が国を豊かにすると論じた。経済学がここから一つの学問になる。エディンバラ

- パリの水売りできごとAD18世紀十八世紀のパリに、水道の蛇口はほとんど無かった。人々はセーヌ川か公共の噴水から水を買う。天秤棒に二つの桶を下げた水売りが、六階まで階段を上って届けた。二万人ほどがこの仕事で暮らしていたと推定される。値段は階数で上がる。貧しい家ほど水を節約し、洗濯と入浴の回数が減った。運ばれた水は川の水そのままで、上流には下水が流れ込んでいる。水道が引かれると、この職は消えた。運ぶ労働が管に置き換わるまで、水の値段は距離と高さで決まっていた。パリ
- ド・プロニーの計算工場できごとAD1793年計算を細かく分けて、人に流れ作業でやらせた革命政府は、十進法にもとづく新しい三角関数表と対数表を必要とした。桁数も規模も、前例が無い。ガスパール・ド・プロニーは、アダム・スミスのピン工場の記述を読んで着想した。仕事を三層に分ける。上層の数学者数人が式を決め、中層の十人ほどが計算の手順に落とし、下層の百人近くが足し算と引き算だけを繰り返す。下層の多くは、革命で職を失った理髪師だったと伝えられる。人間を部品として組んだ計算機であり、バベッジが機械化を構想する直接の手本になった。パリ
- 十日の週できごとAD1793年フランス革命は、暦も作り替えようとした。一年を三十日の十二か月に分け、余りを祭日にする。月の名は、風、雨、芽、花など季節から取った。そして一週間を十日にした。理由は十進法への統一と、日曜という宗教の区切りを消すことである。休みは十日に一度になった。働く側にとっては、休みが減ったことになる。農民も職人も従わず、教会の暦がそのまま使われ続けた。十二年でナポレオンが廃止する。数え方は理屈で決められても、暮らしの区切りは簡単には替わらない。パリ
- ニュー・ラナークの実験できごとAD1800年労働時間を短くしても回ることを示そうとしたクライド川の紡績工場を買ったロバート・オーウェンが、10歳未満の児童労働をやめ、労働時間を10時間半に減らし、工場の中に学校(1816年、性格形成学院)と、世界初とされる幼児学校と、安い店を作った。生産は落ちなかった。「人の性格は環境が作る」。1819年の工場法、協同組合、労働組合、そしてユートピア社会主義が、ここから出た。2001年、世界遺産。ニュー・ラナーク

- 部品を入れ替えるできごとAD1801年銃は、職人が一挺ずつ仕上げるものだった。同じ型でも、部品は互いに入れ替わらない。壊れれば、その銃のために作り直す。1801年、イーライ・ホイットニーは政府の前で、複数の銃から部品を取り混ぜて組み立ててみせたと伝えられる。この実演は準備された仕込みで、彼の工場は実際には互換の水準に届いていなかった、という研究がある。それでも発想は政府を動かし、国営の工場が治具と型と検査の道具をそろえて、この方式を実現していく。手の技を、道具の精度に移し替える考え方が、ここで形になった。ニューヘイヴン
- ペミカン布告できごとAD1814年1月8日運ぶ仕事を支えた保存食と、その取り合い北米の平原の人々は、バイソンの肉を薄く切って干し、砕いて、溶かした脂と混ぜ、皮の袋に詰めた。ペミカンと呼ばれるこの食べ物は、軽く、何年も持ち、少しで力が出る。毛皮を運ぶカヌーの漕ぎ手たちは、これなしでは遠い奥地まで行けなかった。その平原の真ん中に、ハドソン湾会社の後ろ盾で入植地が作られた。1814年、入植地の総督は、冬の食料が足りないとして、土地からペミカンを持ち出すことを禁じた。ペミカンに頼っていた競争相手の毛皮会社と、それを作っていたメティスの人々は怒り、二年後、血が流れた。レッドリヴァー植民地(位置は特定されていない)
- 安全灯できごとAD1815年炭鉱の坑道には、可燃性のガスが溜まる。灯りの裸火が引火すれば、坑内の全員が死ぬ。1812年の爆発で九十人以上が亡くなったあと、化学者ハンフリー・デービーは、炎を細かい金網で囲む灯を作った。網が熱を逃がすので、外のガスに火が移らない。しかも、炎の色と高さでガスの有無が分かる。彼は特許を取らず、誰でも作れるようにした。ただし、安全になった坑道はより深く、より危ない場所まで掘られるようになる。安全の装置が、危険な場所での労働を可能にした面もあった。ニューカッスル
- 八時間労働できごとAD1817年八時間という区切りが、要求として掲げられるロバート・オーウェンが標語を作った。八時間労働、八時間休息、八時間の自由。当時の工場は、一日14時間から16時間が普通で、子どもも同じだけ働いた。彼は自分の紡績工場で、労働時間を短縮し、子どもの就労年齢を上げ、それでも利益が出ることを示した。以後100年、この三つの八が、世界中の労働運動の要求になった。1886年5月1日のアメリカのゼネスト、そしてヘイマーケット事件。1919年、国際労働機関の第1号条約が、これを国際基準とした。ニュー・ラナーク
- 左右のある靴できごとAD19世紀17世紀から約200年、靴は左右の区別なく作るのがふつうだった。同じ形の木型で二つ作り、履く人の足がそれに合わせて変形する。痛いのは当たり前で、履き慣らすものだと考えられていた。十九世紀の初め、左右別の木型が作られ始める。靴を大量に作る機械が普及すると、左右別はそのまま標準になる。足に靴を合わせるのか、靴に足を合わせるのか。当たり前に見える答えが定着するまでに、何百年もかかっている。フィラデルフィア
- 二宮尊徳の村の立て直しできごとAD1820年代洪水で家の田畑を失い、両親も亡くした二宮金次郎は、捨てられた苗を拾って植え、荒れ地を開いて家を立て直した。やがて小田原の藩に頼まれ、荒れた村々の立て直しを任される。村の収入を調べて、支出の上限を決め、余りを貸し付けと開墾に回す。勤勉と倹約と、余りを他に譲ることを説いた。報徳の仕法と呼ばれるこのやり方で、六百の村を立て直したとされる。薪を背負って本を読む少年の像が、戦前の学校の校庭に建てられた。小田原
- 防水の布できごとAD1823年布に油や蝋を塗れば水をはじくが、重くて硬く、臭う。1823年、グラスゴーのチャールズ・マッキントッシュが、ゴムをナフサで溶かし、二枚の布で挟む方法を特許にした。継ぎ目から水が入る、暑いと粘る、といった欠点は残ったが、雨の多い土地では歓迎される。加硫の技術が加わって実用になり、鉄道員と警官の制服になった。やがて防水の外套は、人名そのままの普通名詞になる。雨に濡れずに外を歩けるという条件が、屋外で働く人の仕事を変えた。グラスゴー
- 1833年工場法できごとAD1833年働かせてよい年齢と時間に、線が引かれた綿工場で、9歳未満の労働を禁じ、9〜13歳は1日9時間、13〜18歳は12時間まで、夜業を禁じ、9〜13歳に1日2時間の教育を義務づけた。それまでの法と違ったのは、給料を払う工場監督官を4人置いたこと。国家が、工場の中に人を入れて確かめる。児童労働は消えなかったが、「国が労働の条件を決める」という考えが、ここから広がった。同じ年、大英帝国の奴隷制が廃止された。ロンドン

- チャーティスト運動できごとAD1838年5月8日働く人が、政治に入れろと求めた1832年の選挙法改正で選挙権を得たのは中産階級だけだった。労働者は「人民憲章」6か条を掲げた。男子普通選挙、秘密投票、議員の財産資格の廃止、議員の歳費、平等な選挙区、毎年の選挙。署名128万、330万、570万(1848年、偽名が多かった)。議会は3回とも拒んだ。運動は消えた。6か条のうち5つは、1918年までに実現した。ロンドン

- 鳥の糞の時代できごとAD1840年代逃げられない場所での、契約という名の強制労働ペルー沖の小さな島々には、雨がほとんど降らないため、海鳥の糞が何千年も流されずに積み重なり、厚さ数十メートルの層になっていた。窒素とリンを多く含むこの糞は、畑に撒けば収穫が大きく増える。1840年代、ヨーロッパとアメリカの農家がこぞって買い求め、ペルーの国の収入の大半がこの糞になった。掘ったのは、中国から契約労働で連れてこられた人々で、鼻を突く粉塵の中で、逃げられない島で働かされた。糞は数十年で掘り尽くされる。そのあとを継いだのは、隣の砂漠の硝石をめぐる戦争だった。チンチャ諸島
- 安全ピンできごとAD1849年4月10日ウォルター・ハントは、十五ドルの借金を返すために一日で考えたと伝えられる。針金を一本曲げ、ばねの力で先を受け金に納める。刺さらない留め具ができた。特許はその日のうちに四百ドルで売られ、ハントの手には何も残らなかった。買った側は莫大な利益を得る。彼はミシンも作りながら、縫い子の職を奪うと考えて特許を取らなかった人でもある。発明と、それで稼ぐことは別の技能である。単純な形ほど真似されやすく、誰の発明かは忘れられていく。ニューヨーク
- 人を起こす仕事できごとAD19世紀時計に合わせて起きる暮らしは、まず人の手で作られた工場の始業は早く、遅れれば賃金を引かれる。だが目覚まし時計は労働者には高かった。産業革命のイギリスには、夜明け前の町を回り、長い棒で二階の窓を叩いて人を起こす職業があった。管で豆を吹いて窓に当てる者もいた。客が窓から顔を出すまで叩き続け、週に数ペンスを受け取る。1920年代まで、地方によってはもっと後まで残ったとされる。時計に合わせて起きる暮らしは、まず人の手で作られ、それから機械に置き換えられた。マンチェスター
- ミシンと分割払いできごとAD1851年家の中の仕事が、機械と分割払いで変わる手縫いでシャツ1枚に14時間かかった。ミシンなら1時間である。1846年にハウが本縫いの機構を特許にし、1851年にシンガーが実用的な足踏み式を作った。特許の争いが泥沼化し、1856年、各社が特許を持ち寄る共同管理(世界最初のパテント・プール)で決着した。シンガーの発明はむしろ売り方にある。高価な機械を、月賦で家庭に売った。分割払いという仕組みが、ここから消費財に広がる。同時に、縫製工場と既製服の産業が生まれた。ボストン
- 農奴解放令できごとAD1861年3月3日土地に縛られた労働から、人を解くロシアの人口の3分の1、2300万人の農奴が、人身の自由を得た。地主の所有でなくなった。土地は、49年の年賦で買い戻す。土地は村(ミール)が持ち、農民は村から出られなかった。「上から与えなければ、下から起きる」とアレクサンドル2世は貴族に言った。買い戻し金は重く、農民は貧しいままで、1905年と1917年に立った。皇帝は1881年に爆弾で殺された。サンクトペテルブルク
- 既製服できごとAD1860年代軍服の型と工場が、そのまま紳士服に転用された服は、仕立てるか、家で縫うものだった。既製の服は、船乗りや奴隷に着せる粗末なものに限られていた。変えたのは戦争になる。南北戦争で軍服を大量に作る必要が生まれ、兵の体を何十万人分も測った記録から、背丈と胸囲の組み合わせに規則性があることが分かった。いくつかの型を用意すれば、多くの人に合う。戦後、その型と工場がそのまま紳士服に転用される。ミシンと型紙と分業で、服は買うものになった。同時に、体を「サイズ」という数字で表す習慣も広まっていく。ニューヨーク
- 第一インターナショナルできごとAD1864年9月28日国を越えて労働者がつながろうとしたセント・マーチンズ・ホール。イギリスの労働組合、フランスのプルードン派、イタリアのマッツィーニ派、ドイツの亡命者。国際労働者協会。マルクスが創立宣言と規約を書いた。「労働者階級の解放は労働者階級自身の仕事である」。バクーニンとマルクスが割れ、1872年、本部をニューヨークに移して、1876年、解散した。第二インターは1889年。ロンドン

- 銀行が休む日できごとAD1871年休日を作ったのは、金融の都合だった産業革命のイギリスでは、工場は日曜のほかほとんど休まなかった。銀行家で政治家のジョン・ラボックは、銀行が閉まれば手形の支払いも止まり、商売全体が休めると考えた。1871年、復活祭の翌月曜日や八月の月曜日などを銀行の休日と定める法律を通す。人びとはその日を、海辺や郊外へ出かける日にした。祝う理由を宗教に置かない、ただ休むための日である。休日を作ったのは、労働者の要求よりも、金融の仕組みの都合だった。ロンドン
- タイプライターとQWERTYできごとAD1873年事務の仕事が生まれ、女性の職場になった新聞編集者クリストファー・ショールズらが、実用になる印字機を作った。活字棒が扇形に並び、打つと上へ跳ね上がって紙を叩く。速く打つと隣り合う棒が絡む。そこで、よく続けて使われる文字を離す配置に変えていった。QWERTY である。1873年、銃器製造のレミントン社が製造を引き受けた。紙が見えない、大文字しか打てない、という欠点を抱えたまま普及した。事務の現場に女性が入る大きな入口になり、配列だけが、いまも指の下にある。ミルウォーキー
- 鋲を打ったズボンできごとAD1873年5月20日労働着が、世界でいちばん普通の服になったネヴァダの仕立て屋ジェイコブ・デイヴィスは、作業ズボンのポケットの角が破れやすいので、銅の鋲で留めることを思いついた。特許の費用が無く、布を仕入れていたサンフランシスコの商人リーヴァイ・ストラウスに持ちかける。1873年5月20日、二人の名で特許が認められた。鉱夫と牧場の労働着は、二十世紀半ばに映画の若者の反抗の服になり、冷戦期の東側では西側の自由の印として闇で取引された。労働着が、世界でいちばん普通の服になった。サンフランシスコ
- 宮内省の鵜匠できごとAD1890年(明治23年)鳥を使う漁が、宮内省の職になる長良川では、千年以上前から鵜を使って鮎を捕ってきた。夜、舟の先で篝火を焚くと、光に寄った鮎を、首に紐を巻いた鵜が水に潜って飲み込む。紐があるので大きな鮎は喉を通らず、鵜匠が鵜を舟に引き上げて吐き出させる。鵜の喉を通った鮎は、傷がなく、一瞬で締まるので味が良いとされた。戦国の世には織田信長が鵜飼を保護し、江戸時代には鮎が将軍家に献上された。明治になって後ろ盾を失いかけた鵜匠たちを、1890年、宮内省が御料鵜飼として抱えた。長良川の鵜匠は、いまも宮内庁の職員である。長良川(岐阜)
- 交換手を外すできごとAD1891年初期の電話は、交換手に相手の名を告げてつないでもらう仕組みだった。葬儀屋のアルモン・ストロージャーは、町の依頼が競合の店にばかり回ると疑った。交換手が、競合の妻だったという話が伝わっている。彼は人手を介さずにつながる仕掛けを考え、電磁石で腕を段ごとに動かして接点を選ぶ装置を作った。番号を回すと、その回数だけ腕が動く。ダイヤル式の電話は、この装置に合わせて生まれた。人が人をつなぐ仕事が、機械に置き換わった早い例になる。カンザスシティ
- プルマン・ストライキできごとAD1894年会社の町と、なだめる祝日寝台車の会社を営むジョージ・プルマンは、シカゴの郊外に社員の住む町を造り、家賃も店の値段も会社が決めていた。1894年の不況で、会社は賃金を大きく下げたが、家賃は下げなかった。労働者がストライキに入ると、鉄道の労働者の組合がプルマンの車両を扱わないと応じ、全国の鉄道が止まる。連邦政府は郵便を守るとして軍を送り、衝突で死者が出た。組合の指導者は投獄された。この年、議会は九月の労働者の日を祝日と定めた。シカゴ
- 炭鉱のカナリアできごとAD1896年危険を先に知る役を、別の生き物が負っていた一酸化炭素は無色無臭で、気づいたときには動けなくなっている。生理学者ジョン・スコット・ホールデンは、小さな動物のほうが代謝が速く、人より先に症状が出ることを示し、坑内に鳥を連れて入ることを勧めた。カナリアは歌が止まり、止まり木から落ちる。その時点で人は逃げられる。鳥を蘇生させる酸素の容器まで作られた。イギリスの炭鉱でカナリアが正式に退役したのは1986年で、電子式の検知器に置き換わった。危険を先に知らせる役を、長く別の生き物が負っていた。ロンドン
- 瓶を機械で作るできごとAD1903年児童労働の廃止は、法より機械が先に決めた面がある瓶は、職人が吹いて作るものだった。熔けた硝子を竿の先に巻き取り、息を吹き込む。熱い工場で、竿を運ぶ少年が働いていた。1903年、マイケル・オーウェンズが自動製瓶機を完成させる。硝子を吸い上げ、型に入れ、空気で膨らませる工程を機械が続ける。一台で職人数十人ぶんを作った。瓶の値段は数分の一になり、牛乳も薬も飲み物も瓶で売られるようになる。同時に、硝子工場から少年たちが消えた。児童労働の廃止は、法よりも機械が先に決めた面がある。トレド(オハイオ)
- ハインの写真と児童労働できごとAD1908年写真が子どもを工場から救う20世紀のはじめのアメリカでは、何十万人もの子どもが、綿の紡績工場や炭鉱、缶詰工場、街頭の新聞売りで働いていた。1908年、元教師の写真家ルイス・ハインは、全国児童労働委員会に雇われ、工場の監督の目をかいくぐって、働く子どもたちを撮り始めた。保険の外交員や聖書の売り子を装って工場に入り込み、子どもの背丈を服のボタンの位置で測り、名前と年を書き留めた。機械の前に立つ小さな女の子、石炭の粉で黒くなった少年たち。十年あまりで撮った数千枚の写真は世論を動かし、1938年、連邦の法が子どもを雇うことを厳しく制限した。ニューヨーク
- 待ち行列の理論できごとAD1909年待たせることを計算する仕事が生まれるコペンハーゲン電話会社の技師アグナー・アーランは、交換機の回線を何本用意すべきかを問われた。多すぎれば無駄、少なければ客が繋がらない。彼は通話の発生を確率の過程として扱い、待たされる確率と、諦める確率を式にした。1909年の論文が、この分野の出発点である。以後、道路、病院、工場、そして計算機の設計に使われた。行列は、平均で足りているときでも生じる。到着がばらつくからである。それが、この理論の中心にある。コペンハーゲン
- トライアングル・シャツウエスト工場の火災できごとAD1911年3月25日逃げられない工場で、百四十六人が死んだビルの八階から十階の縫製工場で火が出た。働いていたのは大半が十代から二十代の移民の女性である。九階の出口の扉は、盗みを防ぐという理由で施錠されていた。非常階段は途中で崩れ落ちた。消防のはしごは六階までしか届かない。窓から飛び降りた者が多数いた。146人が死んだ。経営者二人は無罪になった。この火災が、労働安全の法規と、防火の規制と、そして労働組合を、決定的に押し進めた。ニューヨーク
- 科学的管理法できごとAD1911年動作を測り、最短の手順を決めるフレデリック・テイラーは、製鋼所で、労働者が意図的に手を抜いていると考えた。作業を要素に分解し、ストップウォッチで測り、最も速い手順を決め、それを守らせる。銑鉄を運ぶ量が一人あたり数倍になったと彼は書いた。数字には脚色があると、後の検証が指摘している。核心は、作業の知識を職人の手から取り上げて、管理する側に移すことである。労働者は考えなくてよい、と彼は明言した。効率は上がり、そして仕事は分解された。フィラデルフィア
- フォードの流れ作業できごとAD1913年人が動くのをやめ、物が動くようになったハイランドパーク工場。シカゴの食肉工場の「解体の流れ」を逆にした。組み立てる物が動き、人は動かない。T型フォード1台の組み立てが12時間半から93分に。値段は850ドルから260ドルへ。1914年、日給5ドル(当時の倍)と8時間労働。「私の工場の労働者が、自分の作る車を買えるように」。単純な動作の繰り返し。チャップリンが『モダン・タイムス』で笑った。ハイランドパーク(デトロイト)
- セルフサービスできごとAD1916年9月6日店員の仕事を、客に肩代わりさせるそれまでの食料品店では、客が欲しいものを店員に告げ、店員が棚から取ってくる。時間がかかり、人手が要る。クラレンス・サンダースは、メンフィスの店で、客を回転式の木戸から入れ、通路を一本道にして、すべての棚を通らせ、出口で精算させた。店員が減り、値が下がる。すべての商品に値札を付ける必要が生まれ、包装と銘柄が意味を持つようになった。買う物を、客が自分で選ぶ。ピグリー・ウィグリーという名の由来を、彼は最後まで説明しなかった。メンフィス
- 受験と学歴できごとAD1918年どんな仕事に就けるかが、学校で決まるようになる1872年の学制で学校ができ、1886年の学校令で帝国大学を頂点とする階梯が固まった。中学、高等学校、帝国大学。定員が限られ、入るには試験がある。1918年の高等学校令で高校が増設されたが、競争は緩まなかった。新聞が合格者名を載せ、「受験地獄」の語が大正期に定着した。家柄でなく試験で人を選ぶという建前は、機会を開くと同時に、失敗を本人の責任にした。予備校、模擬試験、偏差値(1960年代)。科挙と同じ構造が、別の形で現れた。東京
- ILOの設立できごとAD1919年10月29日平和は社会正義の上に第一次世界大戦の講和を話し合うパリの会議は、ヴェルサイユ条約の中に、労働者の暮らしを国際的に良くするための機関を作ることを書き込んだ。世界の永続する平和は、社会の正義を土台にしてこそ打ち立てられる、というのがその理由だった。ロシア革命の波及を恐れる気持ちもあった。1919年10月29日、ワシントンで最初の総会が開かれ、1日8時間・週48時間の労働時間を定める条約が採択された。ILOは、政府だけでなく、雇う側と働く側の代表も票を持つ、珍しい仕組みの機関である。国際連盟が消えたあとも生き残り、国際連合の機関になった。ワシントンD.C.
- 『女工哀史』できごとAD1925年繁栄を底で支えた労働紡績の工場で長く働いた細井和喜蔵は、そこで見た女性の労働者の暮らしを、細かな聞き取りと自分の経験で書き記し、1925年に出版した。農村から集められた少女たちが、寄宿舎に閉じ込められ、昼夜交代で十二時間以上働き、結核で倒れていく。細井は本が出た直後に、二十八歳で病死した。この本は、日本の近代の繁栄を底で支えた労働の実態を伝える記録として、いまも読まれている。東京
- フラッパーとモダンガールできごとAD1920年代働く女性の新しい装い第一次世界大戦のあと、欧米の都市には、膝の見える短いスカートをはき、髪を短く切り、化粧をして、ジャズで踊り、たばこを吸う若い女性たちが現れた。アメリカでは「フラッパー」と呼ばれた。戦争で働きに出て、選挙権を得た女性たちの、新しい生き方の表れだった。日本でも、関東大震災のあとの東京で、断髪に洋装の若い女性が銀座を歩くようになり、「モダンガール」、略して「モガ」と呼ばれた。タイピストや百貨店の店員、電話の交換手として働く女性たちだった。世間はモガを軽薄だと冷やかしたが、女性の服と暮らしは確かに変わっていった。東京
- 週五日、四十時間できごとAD1926年休む時間も、作って売る仕組みの一部1926年、ヘンリー・フォードは工場の労働を週五日、一日八時間にすると発表した。賃金は下げない。慈善ではないと彼は言った。休みのある労働者は、車に乗り、出かけ、物を買う。余暇が無ければ、大量に作った品は売れない。週末は、宗教の休息日と、消費のための時間とが重なって生まれた。アメリカで週四十時間が法律になるのは1938年である。休む時間は、働く時間の外側にあるのではなく、作って売る仕組みの一部として組み込まれた。デトロイト
- 休みをずらすできごとAD1929年休みを分散させると、社会の予定が組めなくなるソ連は1929年、工場を止めないために週を作り替えた。一週を五日とし、労働者を五つの組に分けて、順番に休ませる。機械は動き続け、生産は上がるはずだった。実際には、家族が別々の日に休むことになる。夫婦が一緒に過ごせず、友人とも会えない。設備は休みなく動いて傷み、誰が何を管理するのか曖昧になった。不満は大きく、1931年に六日週へ変わり、1940年には七日の週に戻された。休日を分散させると、社会の側の予定が組めなくなる。休みが同じ日であることには、それ自体の働きがある。モスクワ
- 収容所の網できごとAD1930年1930年、ソ連は矯正労働収容所の管理を一つの役所にまとめた。その頭文字からグラーグと呼ばれる。反革命の罪、農民の抵抗、冗談の密告など、さまざまな理由で送られた人びとが、シベリアや北極圏の収容所で、運河や鉄道や鉱山の工事に使われた。極東のコルイマの金鉱は、特に恐れられた。数十年のあいだに千数百万人が収容所を通り、百万人を超える人が死んだとされる。国の工業化の一部を、強制された労働が担っていた。コルイマ(位置は特定されていない)
- 防風林を植えるできごとAD1935年草原を耕して麦畑にした平原は、干ばつが来ると表土ごと風に飛んだ。空が黒くなり、家の中まで土が積もる。1935年、アメリカ政府は北から南へ、風を弱めるための木の帯を作る計画を始めた。カナダ国境からテキサスまで、畑と畑のあいだに苗を植える。七年で二億本を超えた。失業対策の事業でもある。効果には議論があるが、土壌の保全という考え方は根づいた。耕し方を変えることと、木を植えることが、初めて国の政策として結びついた。グレートプレーンズ
- 有給休暇の夏できごとAD1936年休む権利は、闘って得られた1936年、フランスで人民戦線の内閣ができると、各地の工場でストライキが広がった。政府と経営者と労働組合の合意で、賃上げとともに、年に二週間の有給休暇が認められる。その夏、多くの労働者が、割引の鉄道切符で生まれて初めて海を見た。自転車で田舎へ出かける人も増える。休暇は、裕福な人だけのものではなくなった。夏になると都市が空になるフランスの習慣は、ここから始まる。休む権利は、働く権利と同じく、闘って得られた。パリ
- ナイロンの歯ブラシできごとAD1938年歯ブラシの毛は、長く豚や猪の毛だった。柔らかく水を含み、乾きにくく、雑菌が繁殖する。値段も安くない。1938年、デュポンが発明したばかりのナイロンで毛を作った歯ブラシが売り出された。乾きが早く、腰があり、安い。それでも、毎日歯を磨く習慣が広まったのは第二次世界大戦のあとになる。兵に歯磨きを義務づけた軍隊から、復員した者がその習慣を家に持ち帰ったと言われる。道具が安くなっただけでは習慣は変わらず、強いられた経験がそれを定着させた。ウィルミントン
- ボールペンできごとAD1938年ハンガリーの新聞記者ラースロー・ビーロは、輪転機のインクが速く乾くのを見て、同じものをペンに使えないかと考えた。粘るインクは細い溝を流れない。そこで先端に小さな球を仕込み、転がる球が容器のインクを紙に運ぶようにした。ナチスを逃れてアルゼンチンに移り、特許を整える。乾きが速く、気圧が変わっても漏れないので、まず空軍が高空の記録用に採用した。戦後、安い使い捨ての型が広まり、字を書く道具の主役になる。万年筆は、実用品から贈り物へ位置を移した。ブダペスト
- 源泉徴収できごとAD1943年戦費のために、所得税を払う人を一気に増やす必要があった。しかし、年に一度まとめて払えと言われても、多くの人は手元に金を残していない。アメリカは1943年、給料から先に天引きして納める方式に切り替えた。設計に加わったのは、経済学者のミルトン・フリードマンである。彼はのちに、この仕組みが政府を大きくしたとして悔いを述べている。日本も1940年に同じ方式を入れた。痛みを感じにくい形で集めると、集める側は集めやすくなる。税の取り方は、税の大きさを変える。ワシントンD.C.
- ENIACできごとAD1946年計算する人の仕事を、機械が引き取り始めるペンシルベニア大学。弾道計算表を作るために陸軍が資金を出した。真空管17468本、重さ27トン、部屋一杯。それまで一発の弾道の計算に人が20時間かけていたものが、30秒になった。配線を差し替えて「プログラム」したのは、6人の女性数学者だった(当時「計算手(コンピューター)」と呼ばれていた職の出身)。彼女たちの名は長く公表されなかった。翌年からノイマン型の記憶プログラム方式へ移る。フィラデルフィア
- ペロンとエビータできごとAD1946年軍人フアン・ペロンは、労働を担当する役職で労働者の賃金と権利を引き上げ、熱烈な支持を集めた。1946年、大統領に選ばれる。妻のエバ、愛称エビータは、貧しい家の出の女優で、財団を作って貧しい人びとに施し、女性の参政権の実現にも力を尽くした。人びとは彼女を聖女のように慕った。1952年、三十三歳でエビータが癌で死ぬと、国じゅうが喪に服す。ペロンの政治は、労働者の味方と独裁の両方の顔を持ち、いまもアルゼンチンの政治を二分している。ブエノスアイレス
- 競輪できごとAD1948年11月20日公が営む賭けが、復興と産業振興の財源になった敗戦後の日本は、地方自治体に金が無く、自転車産業も焼け跡から立ち上がろうとしていた。1948年、自転車競技法が作られ、その年の十一月、小倉で最初の競輪が開かれる。売り上げの一部が自治体の収入になり、一部は自転車工業の振興に回る仕組みである。競馬、競輪、競艇、オートレース。公が営む賭けが並び、戦後の復興と公共事業の財源になった。賭けを禁じておいて、公が営むものだけを例外にする。理由は、金の行き先が公だからになる。小倉(北九州)
- 日本のサマータイムできごとAD1948年夕方が余暇にならず、残業になった占領下の1948年、連合国軍総司令部の意向で、日本は夏のあいだ時計を一時間進めた。電力の節約と、明るい夕方を余暇に使うことがうたわれた。だが実際には、明るいうちは働かされて帰りが遅くなり、寝不足になると不評だった。「サンマータイム」と呼ばれたりもする。独立を前にした1952年、法律ごと廃止された。以後、何度も導入が議論されては見送られている。同じ仕組みでも、働き方が違えば結果が変わる。東京
- 国民の祝日できごとAD1948年7月20日祝日を何の日とするかは、国の語り方戦前の日本の休日は、紀元節や天長節のように、皇室の祭祀や天皇の事績に結びついた祝祭日だった。1948年7月20日、国民の祝日に関する法律ができる。元日、成人の日、春分の日、憲法記念日、こどもの日などが並び、休日の意味が国民の暮らしの側へ置き直された。紀元節は廃止されたが、のちに建国記念の日として戻る。祝日を何の日とするかは、国が自分をどう語るかと切り離せない。東京
- ゴールデンウィークできごとAD1951年休みの呼び名は、客を呼びたい側が付けた四月末から五月はじめは、祝日が続き、休みが重なる。1951年、この時期に公開した映画がよく当たったことから、映画会社が宣伝のために黄金週間という言葉を作ったとされる。ラジオの最もよく聴かれる時間帯を呼ぶ言い方にならったという。放送局の中には、特定の会社の宣伝用語だとして、大型連休と言い換えるところもある。休みの呼び名は、休みに客を呼びたい側が付けた。東京
- かんばん方式できごとAD1953年在庫を持たずに、必要な分だけ作る工場では、部品が工程と工程のあいだに山と積まれて、次の工程を待っていた。トヨタ自動車の大野耐一は、この待っている部品こそが無駄を隠していると考えた。後の工程が使った分だけを、前の工程に取りに行く。取りに行くときに、何をいくつ持っていったかを書いた札を置いてくる。前の工程は、札の枚数だけを作る。アメリカのスーパーマーケットの、減った分だけ棚を補う仕組みから思いついたと大野は書いている。1953年に本社工場の機械工場で始め、十年ほどかけて全社へ広げた。物を待たせないことで、どこで流れが詰まるかが見えるようになった。挙母(豊田)(位置は特定されていない)
- 運転手と車掌できごとAD1953年座り続ける仕事と、心臓の病ロンドンの二階建てバスには、座り続ける運転手と、階段を一日に何百段も上り下りする車掌が乗っている。疫学者ジェリー・モリスは、両者の心臓病を比べた。1953年、運転手のほうが心臓病が多く、重いことを示す。郵便の配達員と局の事務員でも同じ差が出た。制服の寸法を調べると、運転手は採用の時から太めだったという反論にも向き合っている。体を動かすことが病を防ぐという、いまでは当たり前の考えは、この比較から始まった。ロンドン
- 押し屋できごとAD1955年(昭和30年)10月24日通勤という毎日の移動が、それ自体仕事になった戦後の東京では郊外に人が移り住み、朝の電車に乗客が溢れた。扉が閉まらず、発車が遅れ、その遅れが次の電車に積み重なっていく。国鉄は新宿駅に、ホームで乗客を車内へ押し込む係を置いた。正式の名は「旅客整理係学生班」で、多くは大学生のアルバイトだった。列に並んで待つ者を、一本でも早く運ぶために、車両の中の隙間を詰める。高度成長期には定員の二倍を超える混雑が当たり前になり、白い手袋で背中を押す姿は外国の雑誌にも載った。線路と車両を増やすまでのあいだ、足りない輸送力を人の手で埋めた仕事である。新宿
- 修正液できごとAD1956年ダラスの銀行で秘書をしていたベティ・ネスミス・グレアムは、電動タイプライターの打ち間違いに困っていた。新しいリボンは、消しゴムで消すと汚れる。看板描きの内職で、失敗は上から塗って直すことを知っていた彼女は、白い絵の具を小瓶に入れて職場へ持っていく。1956年頃のことである。同僚に分けるうちに注文が増え、台所で作って売り始めた。会社は1979年に大企業へ売られる。事務の現場の小さな不便を知っていたのは、事務をしている本人だった。ダラス
- 主婦の店ダイエーできごとAD1957年9月23日値段を自分で付ける1957年9月23日、大阪の千林の商店街に、中内功が薬と日用品の安売りの店「主婦の店ダイエー」を開いた。フィリピンの戦場で飢えを経験した中内は、物を安く大量に売ることにこだわった。メーカーが決めた値段で売るという当時の決まりに逆らい、自ら値段を付けて売る。メーカーとの争いも辞さなかった。店は食品にも手を広げ、客が自分で商品を籠に入れて会計に運ぶセルフサービスのスーパーマーケットとして、全国に店を増やす。1972年、ダイエーは売上で三越を抜き、日本一の小売りの会社になった。町の八百屋や魚屋で買う暮らしが、変わっていった。大坂
- 所得倍増計画できごとAD1960年12月27日安保闘争で岸内閣が退いたあと、首相になった池田勇人は、対立の政治から経済へと人びとの目を向けさせた。1960年12月27日、十年で国民の所得を二倍にするという計画を閣議で決める。公共投資で道路や港を整え、産業を育て、減税をする。実際には、計画より早く、七年ほどで目標に届いた。テレビ、洗濯機、冷蔵庫が家庭に入り、多くの人が中流と感じるようになる。一方で、公害と過密と過疎が、同じ成長の中から生まれた。東京
- 三池争議できごとAD1960年エネルギーの転換の重さを背負った人たち石油が安く大量に入ってくると、日本の炭鉱は次々に行き詰まった。福岡の三井三池炭鉱で、会社は千二百人あまりの指名解雇を通告し、労働組合は無期限のストライキで応じた。1960年、全国から支援の労働者が集まり、総資本と総労働の対決と呼ばれる。組合の中にも分裂が起き、第二組合員の入坑を阻むピケ隊が暴力団員に襲われ、組合員が刺殺された。安保闘争と同じ年、闘いは組合の敗北で終わる。三年後、同じ炭鉱の爆発で四百人を超える人が死んだ。大牟田
- 週休二日できごとAD1965年休みの日数は、周りが休むかどうかで決まる戦後の日本は、土曜も半日働くのが当たり前だった。1965年、松下電器が大企業として早くに完全週休二日制を導入する。生産性を上げ、余暇に物を買ってもらうという狙いも語られた。広まるのは遅い。学校の土曜授業が無くなるのは2002年である。国が公務員の週休二日を完全に実施したのは1992年で、そこから民間にも広がった。休みの日数は、技術や豊かさよりも、まわりが休むかどうかで決まる。一人だけ休んでも、取引先が動いていれば休めないからになる。大坂
- 現金を機械からできごとAD1967年銀行は平日の昼間しか開かない。土曜の午後に現金が無ければ、月曜まで待つしかない。技術者ジョン・シェパード=バロンは、板チョコの自動販売機を思い浮かべ、現金を出す機械を考えた。1967年、ロンドン郊外の支店の壁に据えられる。使ったのは、放射性の印を付けた小切手用紙と、四桁の暗証番号だった。桁数は、妻が六桁を覚えられないと言ったからだと本人が語っている。以後、現金の引き出しから銀行員が外れ、窓口の役割が変わった。機械が二十四時間動く前提で、人の働き方も組み直された。ロンドン
- 東京ごみ戦争できごとAD1971年9月28日高度成長で、東京のごみは十年で倍以上に増えた。行き先は江東区の埋立地である。生ごみをそのまま埋めるので蠅と鼠が大量に湧き、近くの小学校では給食に蠅が飛び込んだ。江東区は、各区が自前の清掃工場を持つことを求めたが、杉並区では建設予定地の住民が強く反対して進まない。1971年9月、美濃部知事は都議会で「ごみ戦争」を宣言した。江東区は杉並区のごみを積んだ車の搬入を実力で止め、対立は裁判にもなる。自分の出したごみをどこへ持っていくのか、という問いが、都市の中で表に出た。東京
- アイスランドの女性の休日できごとAD1975年10月24日国連が定めた国際婦人年の1975年10月24日、アイスランドの女性の九割が、勤めにも家事にも出なかった。賃金の差と、女性の働きが軽く見られていることへの抗議である。レイキャヴィークの広場には、人口22万の国で二万五千人が集まった。学校や工場や銀行が止まり、父親たちは子どもを連れて職場へ行き、その日は手早く作れるソーセージが店から消えたという。翌年、男女の平等を定める法律ができ、1980年には、ヴィグディス・フィンボガドゥティルが、国民の選挙で選ばれた世界で最初の女性の大統領になった。レイキャヴィーク
- ファストファッションできごと1975年5月1975年、スペイン北西部のア・コルーニャで、アマンシオ・オルテガがZARAの1号店を開いた。オルテガは、流行をすばやく取り入れた服を、自社の工場で少量ずつ作り、数週間で店に並べ、売れ行きを見て作り直す仕組みを作った。流行の服を安く、次々に売る「ファストファッション」である。スウェーデンのH&M、日本のユニクロなども世界に店を広げ、人々は服を手軽に買い、手軽に捨てるようになった。一方で、途上国の工場の過酷な労働と、大量の服の廃棄による環境への負担が、厳しく問われるようになった。ア・コルーニャ
- イギリス炭鉱ストライキできごとAD1984年石炭の終わりと、労働運動の一つの時代イギリスのサッチャー政権は、赤字の国営の炭鉱を次々に閉じる計画を進めた。1984年3月、炭鉱労働者の組合は全国でストライキに入る。ヨークシャーのオーグリーヴでは、数千人のピケ隊と騎馬警官が激しく衝突した。ストライキは一年続いたが、組合は全国の投票を経ずに始めたことで分裂し、石炭は蓄えられていて、敗北に終わる。炭鉱町は仕事を失って寂れた。労働組合の力は大きく削がれ、イギリスの政治と経済の形が変わった。シェフィールド
- 男女雇用機会均等法できごとAD1985年女性は結婚や出産で辞めるもの、とされ、定年まで男女で違う会社も珍しくなかった。女性差別撤廃条約を批准するため、1985年、雇用の場で男女を平等に扱うことを定める法律が作られ、翌年から施行される。だが募集や昇進での平等は、はじめは努力するよう求めるだけだった。企業は総合職と一般職という区分を作り、多くの女性は一般職に置かれた。1997年の改正で、差別は禁止に変わる。法律が変わっても、職場の慣行はゆっくりとしか変わらなかった。東京
- 国鉄の分割民営化できごとAD1987年4月1日国鉄からJRへ日本国有鉄道は、1964年に赤字に転じてから、車と飛行機に客と貨物を奪われ、地方の赤字路線と、政治の求めで造られる新線を抱えて、借金を膨らませ続けた。労働組合とのストライキも繰り返された。中曽根内閣は、国鉄を地域ごとに分け、民間の会社にすることを決めた。1987年4月1日、国鉄は、北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州の6つの旅客の会社と、一つの貨物の会社などに分かれ、JRとして出発した。37兆円を超える借金の多くは国が引き受けた。分割の過程では、多くの国鉄の職員が新会社に採用されず、長い争いが残った。東京
- 過労死できごとAD1988年休まないことが、死因として名指しされた働き盛りの人が、脳や心臓の病で突然亡くなる。長い残業と休みの無さが原因ではないかと、医師が過労死という言葉で呼び始めた。1988年、弁護士たちが過労死の電話相談を開くと、各地から相談が殺到する。遺族が会社の責任を問い、労働災害として認めさせる裁判が続いた。言葉は日本語のまま英語の辞書にも載った。2014年に過労死を防ぐための法律ができ、働き方の改革が議論されている。休まないことが、死因として名指しされた。東京
- 地下七百メートルの救出できごとAD2010年8月5日チリ北部の銅と金の鉱山で落盤が起き、三十三人が地下七百メートルに閉じ込められた。十七日後、試掘の穴に結ばれた紙が上がってくる。全員無事、と書かれていた。救出には、直径七十センチの縦穴を掘り、専用の筒で一人ずつ引き上げる方法が採られる。準備に二か月、引き上げに二十二時間半。生中継を世界で十億人が見たとされる。歓声の陰で、そもそもなぜ落盤したのかという問いが残った。安全の指摘は以前から出ており、避難所の設備も不十分だった。コピアポ
- 縫製工場の崩落できごとAD2013年4月24日安い服の値段の中に、この建物が入っていたダッカ近郊の八階建ての商業ビル、ラナ・プラザには、欧米の有名な衣料品の服を縫う工場が入っていた。前日に壁のひびが見つかり、下の階の銀行や商店は閉めたが、工場の労働者は出勤を命じられる。2013年4月24日の朝、建物は崩れ落ち、千百人を超える人が死んだ。違法に上の階を建て増し、重いミシンと発電機を載せていた。事故のあと、発注する側の企業が工場の安全を点検する協定が結ばれる。安い服の値段の中に、この建物が入っていた。ダッカ
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
技術と産業25件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。交易路とお金18件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。都市の歴史13件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。女性の権利10件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。考えることの歴史8件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。主権はだれのものか6件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。支え合いの歴史6件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。二つの大戦4件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。冷戦4件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。感染症と人類4件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。確かめるという方法4件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。冷戦のあと3件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。キリスト教のひろがり3件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史3件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。差別の歴史3件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。お金の歴史3件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。子どもの歴史3件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史3件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。明治2件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。武士の700年2件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。民族移動の時代2件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『大転換』で読む歴史2件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。『暴力と不平等の人類史』で読む格差2件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。交通と旅の歴史2件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。表現の歴史1件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『大分岐』で読む歴史1件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『モンタイユー』で読む中世の村1件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。『歴史序説』で読む王朝の寿命1件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。メディアの歴史1件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。近代と宗教1件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。非株式会社いつかやるで聞く歴史1件を共有 / YouTubeチャンネル「非株式会社いつかやる」が解説した戦い・人物・病の歴史。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。言葉と文字の歴史1件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。