武野紹鴎
概要
堺の皮革商(武具の材料)の家。若い頃、京で三条西実隆に和歌を学び、藤原定家の『詠歌大概』の序に茶の心を見出した、と伝える。珠光の弟子から茶を継ぎ、堺の町衆に広げた。竹の花入、素焼の水指、土壁の茶室。弟子に千利休、今井宗久(紹鴎の娘婿)、津田宗及。侘びを、歌の言葉で説明した最初の人。
関わったできごと(1)
武野紹鴎の茶AD1540年頃 · 広めた本文
武野紹鴎は1502年に生まれた。生地は堺とも、大和とも言われる。武野家は甲斐の武田氏の一族を称したが、確かなことは分からない。父の代には、堺で武具の材料となる皮革を扱う商いをしていたとされる。鎧を綴じる革紐、馬具、弓の材料を扱う商売で、戦国の世には大きな需要があった。
当時の堺は、日本で最も豊かな町の一つだった。明や琉球との貿易で富を蓄えた商人たちが会合衆と呼ばれる集まりで町を治め、周りに堀をめぐらせて、戦国大名の干渉をはねのけていた。応仁の乱で荒れた京からは公家や文化人が逃れてきて、町人が金と引き換えに公家の教養を学ぶことができた。1543年の鉄砲伝来の後は、堺の鍛冶が鉄砲を大量に作るようになる。

紹鴎は若い頃、京に出て、当代一流の教養人だった公家の三条西実隆に和歌と古典を学んだ。実隆は和歌、書、古典の解釈で並ぶ者のない人物で、町人の若者が直接教えを受けたのは、堺の財力あってのことだった。紹鴎は、実隆から藤原定家の歌論書『詠歌大概』の講義を聞いて、茶の湯の心を悟った、と伝えられる。連歌も学び、はじめは連歌師を志していたとも言われる。
茶は、村田珠光の流れをくむ茶人たちから学んだ。珠光は、唐物の名品を飾り立てる書院の茶に対して、簡素な道具と小さな座敷で心を通わせる茶を説いた人である(村田珠光と侘び茶)。紹鴎は30代のはじめに剃髪して紹鴎と名乗り、堺の南宗寺の禅僧大林宗套に参禅して一閑居士の号を受けた。以後、堺で商いを続けながら茶を深め、多くの門人を育てた。

紹鴎が茶に持ち込んだのは、歌の言葉だった。のちに利休の言葉を伝えるとされる書『南方録』には、紹鴎が侘び茶の心を、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の歌で説明した、と書かれている。花も紅葉もない、粗末な小屋と秋の夕暮れだけの景色に、美しさを見る心である。ただし『南方録』は江戸時代に作られた書と考えられていて、この話もどこまで紹鴎自身のものかは分からない。
確かなのは、紹鴎の茶が、道具と座敷を変えたことである。床の間の框を黒い漆塗りから白木に改め、壁を張り付けの紙や板から土壁に変えた四畳半の座敷を用い、竹の花入や、備前や信楽の素朴な焼き物の水指を茶の席に取り入れた。どれも唐物の名品に比べれば粗末な、身近な物である。紹鴎はそこに、唐物とは違う種類の美しさを見いだした(武野紹鴎の茶)。
ただし紹鴎は、唐物を捨てたわけではない。彼自身、茄子の形の茶入や大きな茶壺など、60種を超える名物の道具を持つ、堺きっての数寄者でもあった。名品を知り尽くした目で、名もない和物の粗さを美として選び取ったところに、紹鴎の新しさがあった。
門人には、のちに茶の湯を大成する千利休、紹鴎の娘婿となった今井宗久、天王寺屋の津田宗及らがいた。利休は堺の魚問屋の子で、紹鴎より20歳年下である。この三人はのちに織田信長と豊臣秀吉に茶頭として仕え、茶の湯を天下人の政治と結びつけていく。今井宗久は紹鴎の道具と財産の管理を引き継ぎ、信長の御用商人として鉄砲や火薬を扱った。

紹鴎は1555年、54歳で死んだ。息子はまだ幼く、遺された名物の道具をめぐっては、のちに今井宗久との間でもめごとが起きている。利休はこのとき33歳だった。利休が草庵の茶をさらに突き詰め、2畳の茶室を作り、黒い楽茶碗を好んだのは、紹鴎の死から何十年も後のことである(侘び茶の大成)。
紹鴎は、珠光と利休をつなぐ人として位置づけられることが多い。だが彼自身は、商人として富み、公家に歌を学び、名物を集め、そのうえで、何もない部屋に美を見た人だった。侘びという美意識を、和歌の言葉で語ろうとした最初の一人と言える。