概要
堺の皮革商(武具の材料)の家。若い頃、京で三条西実隆に和歌を学び、藤原定家の『詠歌大概』の序に茶の心を見出した、と伝える。珠光の弟子から茶を継ぎ、堺の町衆に広げた。竹の花入、素焼の水指、土壁の茶室。弟子に千利休、今井宗久(紹鴎の娘婿)、津田宗及。侘びを、歌の言葉で説明した最初の人。
関わったできごと(1)
武野紹鴎の茶AD1540年頃 · 広めた本文
1502年、堺(あるいは大和の吉野。父の代に堺へ移った)。武野氏は、若狭武田氏の一族と称した(信憑性は不明)。父・武野信久は、堺で皮革の商いをした。武具の材料(鎧の縅、馬具、弓の材料)。戦国の需要がある商売。
若い頃、京へ出た。24歳頃、三条西実隆(1455〜1537年。当時の公家社会で最高の教養人。和歌、古典、書。日記『実隆公記』は室町後期の第一級史料)に、和歌と『詠歌大概』を学んだ。連歌も学んだ。
同じ頃、茶を学んだ。師は、珠光の系統(十四屋宗陳と宗悟、あるいは藤田宗理)。
1532年、31歳で剃髪。「紹鴎」。以後、堺で商いを続けながら、茶を教えた。
彼が茶に持ち込んだもの。歌の言葉。
『詠歌大概』の序に、定家が書いている。「情は新しきを以て先と為し、詞は古きを以て用ゆ」。紹鴎は、そこに茶の心を見た、と伝えられる。
そして、藤原定家の歌。
「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」(『新古今和歌集』秋)
『南方録』(利休の弟子・南坊宗啓が記したとされる書。実際は江戸時代の成立で、内容の一部は後世の解釈を含む)に、こうある。紹鴎は、この歌が侘びの心を表していると言った。花も紅葉も——華やかなものが——ない。あるのは、粗末な小屋と、秋の夕暮れ。
(利休は、後に、藤原家隆の「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」を挙げた、とも同書は記す。「まだ何もない」ところに、来るものを見る。)
具体的に変えたこと。
・床の間の框を、真塗から白木へ。 ・壁を、板張りから、藁を混ぜた土壁へ。 ・花入を、唐銅と青磁から、竹へ。 ・水指を、唐物から、備前・信楽の粗物へ。 ・棚と道具を減らした。 ・茶室を四畳半に(珠光を受けて)。
同時に、彼は名物を60種以上持っていた(「紹鴎茄子」「松島の茶壺」「紹鴎白天目」)。唐物を捨てたのではない。唐物の中に和物を混ぜ、そして、和物の粗さを、美として見る目を作った。
堺の町。会合衆による自治。鉄砲の生産(1543年の種子島の後、堺の鍛冶が量産した)。南蛮貿易。京から避難してきた公家と文化人。町人が、公家の教養を金で買い、自分のものにできた場所。
弟子。千宗易(利休。魚問屋「魚屋」の子。1522年生まれ。紹鴎の20歳下)、今井宗久(紹鴎の娘婿。道具と財産を継ぎ、信長の御用商人になった)、津田宗及(天王寺屋。会合衆)。
1555年、死んだ。54歳。利休は33歳。その36年後、利休は秀吉に切腹を命じられる。
紹鴎は、商人として富み、公家に歌を学び、そして、何もない部屋を作った。