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Person / 人

屈原

Qu Yuan
BC340年頃 – BC278年頃(享年62・推定)
重要度 5

概要

名は平、字は原。楚の王族の一族で、懐王の左徒(副宰相格)。内政と外交を担い、秦に対抗して斉と結ぶことを主張した。同僚の讒言で退けられ、懐王は秦に騙されて客死した。頃襄王の代に再び追放され、湖南を10年さまよった。『離騒』373句。香草と美人を比喩に、理想と孤独を歌った。中国の詩は『詩経』(民の歌)と『楚辞』(個人の声)の二つの源を持つ。

関わったできごと(1)

屈原の入水BC278年頃 · 入水した

本文

BC340年頃、楚の丹陽(湖北の秭帰、と伝える)。屈氏は楚の王族の分家で、代々、莫敖(軍の職)を出した家。

『離騒』の冒頭で、彼は自分の出自を歌う。「帝高陽の苗裔、朕が皇考は伯庸と曰う。摂提貞に孟陬に于てす、惟れ庚寅、吾以て降る」。高陽(顓頊)の子孫であること、生まれた日が寅の年の寅の月の寅の日であったこと(吉日)、父がそれにちなんで「正則(平)」「霊均(原)」と名づけたこと。

懐王の左徒。『史記』屈原賈生列伝。「博聞強志、治乱に明るく、辞令に嫺(なら)う。入りては王と国事を図議して以て号令を出し、出でては賓客に接し、諸侯に応対す。王は甚だ之を任ず」。

失脚。上官大夫が、彼の起草した憲令を横取りしようとして拒まれ、王に讒言した。「屈平は、令が一つ出るたびに、自分の功を誇り、『私でなければできない』と言っています」。王は怒って、遠ざけた。

「屈平は、王の聴くことの聡からず、讒諂の明を蔽い、邪曲の公を害し、方正の容れられざるを疾む。故に憂愁幽思して『離騒』を作る」。

『離騒』。373句、2477字。前半は自伝。生まれ、修養、志、そして讒言と孤独。「余は既に滋蘭の九畹あり、又た樹蕙の百畝あり」(蘭と蕙=香草を育てる=徳を修める)。「衆女は余の蛾眉を嫉み、謡諑して余を善淫と謂う」。「亦た余が心の善しとする所なり、九たび死すとも猶お未だ悔いざらん」。

後半は幻想の旅。彼は天に昇る。太陽の御者に日を遅らせ、鳳凰の車で、崑崙へ、白水へ、天の門へ行く。門番は開けない。地上に降りて、神話の美女(宓妃、有娀の佚女、有虞の二姚)に求婚して、みな失敗する。占いをして、「この国を去れ」と言われる。西へ発つ。そして、天空から、故郷の楚が見える。御者が悲しみ、馬が振り返って進まない。

「乱に曰く。已んぬるかな。国に人なく、我を知る莫し。又た何ぞ故都を懐わん。既に与に美政を為すに足る莫し、吾将に彭咸の居る所に従わんとす」。(彭咸は、殷の賢臣で、諫めが容れられず水に身を投げた、と伝えられる人物。)

『九歌』11篇。楚の民間の神々への祭りの歌を、彼が整えたと考えられる。東皇太一、雲中君、湘君、湘夫人(舜の二人の妃)、大司命、少司命、東君、河伯、山鬼(山の女神。「若有人兮山之阿、被薜茘兮帯女蘿」——山の窪みに人がいるようだ、薜茘をまとい、女蘿を帯にして)、国殤(戦死者への挽歌。「首身離るると雖も、心懲りず」)、礼魂。

『天問』。172の問い。「遂古の初め、誰か伝道せし。上下未だ形あらず、何に由りて之を考えん」。天地の始まり、神話、歴史、そして「なぜ」。答えは書かれていない。

『九章』(『哀郢』『渉江』『懐沙』など。追放の日々)。『懐沙』が、最後の作とされる。

BC278年、秦の白起が郢を落とした。彼は汨羅江に入った。

司馬遷は、湖南を旅して、彼の淵を見た。「余、屈原の沈む所の淵に臨むや、未だ嘗て垂涕して、其の為人を想見せずんばあらず」。

賈誼(BC2世紀、洛陽の若い官僚。同じく讒言で長沙へ左遷された)が、汨羅を渡るとき、『弔屈原賦』を作った。

『楚辞』。前漢の劉向が編み、後漢の王逸が注をつけた。『詩経』と並ぶ、中国の詩の源。李白と杜甫は屈原を仰ぎ、日本の懐風藻から、朝鮮とベトナムの漢詩まで、この形式が渡った。