
概要
唐の文化をまねる時代のあとに、かな文字と宮廷の女性たちが、日本の言葉で書く文学を生んだ。10世紀から11世紀の、平安の宮廷の文化。
この物語について
9世紀の終わり、遣唐使の派遣は止まった。唐はすでに乱れていて、907年に滅びる。それまで200年以上、日本の朝廷は唐の制度と文化を手本にしてきた。漢文で書き、漢詩を詠み、密教の仏画と仏像を拝んだ。その唐風の文化のあとに来たのが、国風文化と呼ばれる時代になる。
鍵になったのは、漢字を崩して作ったかな文字だった。905年ごろ、醍醐天皇の命で、紀貫之らが最初の勅撰和歌集『古今和歌集』を編み、序文の一つをかなで書いた。貫之はさらに、土佐から都へ帰る旅を、女性が書いたという体裁でかなの日記にした。漢文は男の、かなは女の文字とされていた時代のことである。
藤原氏が天皇の外戚として政治を握る摂関政治のもとで、后や姫君に仕える女房たちが、かなで物語と随筆を書いた。清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』、和泉式部の歌。地方の受領の家に生まれた少女が、源氏物語を読みたいと願いながら育つ『更級日記』も、この時代のものになる。貴族の住まいは寝殿造になり、日本の風景を描く大和絵が生まれた。
同じころ、死後に極楽浄土に生まれ変わることを願う浄土の信仰が広がった。空也は都の市で念仏を勧め、源信は『往生要集』で地獄と極楽を描いた。仏の教えが衰える末法の世が1052年に始まると信じられ、その翌年、藤原頼通は宇治に平等院鳳凰堂を建てて、この世に極楽を写した。
この物語のページには、ムンディ先生の講義から、この時代の前の弘仁・貞観文化と、後に来る院政期の文化の回も置いてある。唐風から国風へ、そして武士の時代の文化へと移っていく前後が見える。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(15)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 遣唐使の中止できごとAD894年唐風の時代の終わり菅原道真が建議した。唐が衰え、航海の危険に見合わない、と。以後、日本は大陸の制度を写す段階から、自分の形を作る段階に入る。京都
- 空也人物AD903年 – AD972年市の聖出自は分からない。醍醐天皇の子とも。市で念仏を唱え、道と橋と井戸を作り、死体を葬った。「市聖」。「阿弥陀聖」。鹿の角の杖、金鼓、鉦。六波羅蜜寺。口から六体の阿弥陀が出ている像は、彼の念仏の姿。念仏を、寺から市へ出した。
- 『古今和歌集』できごとAD905年(延喜5年)最初の勅撰和歌集醍醐天皇の命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が編んだ最初の勅撰和歌集。20巻、1100首。『万葉集』の後の150年から。仮名の序。「やまとうたは、人の心を種として」。それから500年、勅撰集は21回続き、歌の型はこの本が決めた。京都

- 紀貫之『土佐日記』とかな文字できごとAD935年(承平5年)ごろ男がかなで書いた日記平安時代のはじめ、公の文書や男の学問は漢文で書かれ、漢字を崩した「かな」は、和歌や手紙に使う私の文字で、とくに女性の文字とされた。934年、土佐の国司の任期を終えて都へ帰る紀貫之は、その55日の船旅を日記に書いた。冒頭で彼は、男も書くという日記というものを、女の私も書いてみようと思う、と記し、女性のふりをしてかなで書いた。漢文では書けない、旅の不安や、土佐で亡くした娘への悲しみが、日々の言葉でつづられた。かなで書く散文の道を開いたこの日記ののち、『蜻蛉日記』や『源氏物語』など、女性たちのかなの文学が花開いた。京都
- 清少納言人物AD966年頃 – AD1025年頃『枕草子』の作者。こちらも本名は伝わらない。好き嫌いをはっきり書く随筆が千年読まれている。
- 藤原道長人物AD966年 – AD1028年娘を次々と天皇に嫁がせ、摂関政治の頂点に立った。「この世をば」の歌で知られる。
- 紫式部人物AD973年頃 – AD1014年頃『源氏物語』の作者。本名は分かっていない。宮仕えの記録を日記にも残している。
- 和泉式部人物AD976年頃 – ?大江雅致の娘。和泉守の妻。冷泉天皇の子為尊親王と恋をし、親王が死ぬと弟敦道親王と。『和泉式部日記』。親王も死に、道長の娘彰子に仕えた。紫式部が「けしからぬ方こそあれ」「歌はいとをかし」と書いた。「あらざらむこの世のほかの思ひ出に」。娘小式部内侍も歌人。
- 源信『往生要集』できごとAD985年(寛和元年)地獄と極楽比叡山横川の僧が、経と論から極楽と地獄を集めた3巻。「厭離穢土、欣求浄土」。八大地獄。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間。念仏で極楽へ。宋に送られて「日本の小釈迦」と呼ばれた。地獄の絵は、この本から描かれた。比叡山横川
- 寝殿造できごとAD10〜11世紀貴族の住まい平安時代の京の貴族たちは、寝殿造と呼ばれる屋敷に住んだ。敷地の中央に南を向いた寝殿を置き、その東西や北に対屋を配して渡り廊下で結び、南には池と築山のある庭を設けた。建物の中には、ほとんど固定した壁が無く、広い板敷きの空間を、御簾や几帳、屏風で仕切って使った。畳は、人が座ったり寝たりするところにだけ敷く敷物だった。開け放たれた屋敷は、庭の四季を楽しむには向いていたが、冬は寒かった。のちの書院造では、部屋を襖で仕切り、畳を敷き詰め、床の間を設けるようになり、日本の和室のもとになった。京都
- 『枕草子』できごとAD1002年頃女房の随筆好き嫌いをはっきり書いた随筆。千年前の人が何を「をかし」と思ったかが、そのまま読める。京都

- 『源氏物語』できごとAD1008年頃女房の物語長編の物語として世界で最も古い部類に入る。作者の本名は分かっていない。京都

- 摂関政治の頂点できごとAD1016年この文化を支えた宮廷藤原氏が天皇の外戚として権を握った。この頃『源氏物語』が書かれる。京都
- 平等院鳳凰堂できごとAD1053年(天喜元年)この世に写した極楽末法の始まりの翌年、藤原頼通が宇治の別荘を寺にして、池の中島に阿弥陀堂を建てた。定朝の阿弥陀如来。寄木造。52体の雲中供養菩薩。天井の鏡。扉の来迎図。極楽をこの世に。10円玉に、鳳凰堂。1万円札に、鳳凰。平等院

- 『更級日記』できごとAD1059年頃源氏物語に憧れた少女菅原孝標の娘。13歳で上総から京へ。「物語を読みたい」と薬師仏に祈った。『源氏物語』を全巻もらって、昼も夜も読んだ。宮仕え、結婚、夫の死。50歳を過ぎて、少女の頃からの40年を書いた。物語に憧れた人生の、静かな終わり。京都

重なっているストーリー
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