清少納言
概要
『枕草子』の作者。こちらも本名は伝わらない。好き嫌いをはっきり書く随筆が千年読まれている。
所属
日本関わったできごと(1)
『枕草子』AD1002年頃 · 著者本文
本名は伝わらない。「清」は清原、「少納言」は宮仕えのときの呼び名で、縁者の官職から取ったとされるが、それも確かではない。生まれは966年頃とされる。

父の清原元輔は、天皇の命で『後撰和歌集』を選んだ五人の一人に数えられる歌人で、曽祖父の清原深養父も名の知れた歌人だった。家は位の低い中流の貴族で、才覚と学問で身を立てる家柄である。娘は父のそばで和歌を聞き、男の学問とされた漢詩文にも親しんだ。若くして橘則光と結婚し、男の子をもうけたが、のちに別れた。
993年頃、一条天皇の中宮定子のもとに出仕した。定子は関白藤原道隆の娘で、天皇より3歳年上。明るく、機知を好み、漢詩文にも通じた后だった。宮仕えに慣れず、初めは顔を見られるのが恥ずかしくて夜しか出られなかった、と清少納言は書いている。その彼女を、定子は引き立てた。

雪の積もった朝、定子が「香炉峰の雪はどうでしょう」と問いかけると、清少納言は黙って御簾を高く巻き上げた。白居易の詩の一句、香炉峰の雪は簾をかかげて見る、を踏まえた答えで、周りの女房たちは感心した。『枕草子』の中でも有名な場面である。宮廷では、知識をひけらかすことではなく、相手の問いの意図をくみ取って当意即妙に返すことが、教養とされた。藤原行成と交わした逢坂の関の歌は、百人一首にも採られている。
定子との親しさを伝える話は、ほかにもある。ある冬、定子は庭に雪の山を作らせ、いつまで消えずに残るかを女房たちに当てさせた。清少納言は、ほかの者よりずっと長く、正月の15日まで持つと言い張った。毎日のように雪山を見に人をやり、もう少しで当たるというところで、雪は何者かに取り捨てられていた。のちに定子が、わざと捨てさせたのだと打ち明けて笑ったという。勝ち負けにこだわる清少納言と、それを面白がる定子の姿が、そのまま書き留められている。
『枕草子』に描かれる宮廷は、機知に富み、明るい(『枕草子』)。「春はあけぼの」と季節を言い切り、「すさまじきもの」「にくきもの」と、好き嫌いをはっきり書く。物の名を並べる章段、日々の思いを書いた章段、宮仕えの日々を書いた章段が、入り混じっている。

だが、書かれた時期の定子の家は、政争に敗れて没落していく途上にあった。995年に父の道隆が死に、権力は叔父の藤原道長へ移った。翌年、兄の伊周と弟の隆家は、花山院に矢を射かけた事件で流される。定子は自ら髪を下ろし、住まいは焼けた。清少納言自身も、道長の側に通じているのではないかと同僚に疑われ、しばらく里に下がっていた。長保2年(1000年)の暮れ、定子は出産の後に、数えで24歳の若さで死んだ。道長の娘彰子が、すでに中宮として立っていた。
その暗さが、この随筆にはほとんど出てこない。定子が苦境にあった時期の場面でも、描かれるのは定子の美しさと、楽しい会話と、季節の風景である。意図して書かなかった、という読み方が有力になっている。仕えた主人の輝いていた時間を残すために書いた、と。
紫式部は日記の中で、清少納言について、得意顔でひどく偉そうにしていた人だと書き、利口ぶって漢字を書き散らしているが、よく見れば足りないところが多い、と批評している。紫式部は彰子に仕えた女房で、敵方の後宮の評判を意識していたのかもしれない。ただし、二人が同じ宮廷にいた時期は重なっていない。
定子の死後、清少納言は宮廷を去った。摂津守の藤原棟世と再婚し、娘をもうけたとされる。その娘は小馬命婦の名で、のちに彰子に仕えた。晩年の清少納言については、落ちぶれて貧しく暮らしていたという話が、鎌倉時代の説話集にいくつも残る。だがそれらは後の人が作った話とみられ、事実かどうかは分からない。1025年頃に死んだとされるが、年もはっきりしない。
『枕草子』は書き写されるうちにいくつもの系統の本に分かれ、章段の並びも本によって違う。それでも千年のあいだ読まれ続け、『源氏物語』(『源氏物語』)と並んで平安時代の文学の頂点に置かれる。自分の目で見て、好きなものを好きと書く文章は、いま読んでも古びていない。随筆という書き方の、日本での最初の手本になった。