ガンダーラの仏像

概要
仏を人の姿で刻むことが、ここで始まった。衣の襞と巻き毛はギリシア彫刻の系統になる。アレクサンドロスの遠征から300年後に、その様式が仏の顔になった。
場所
34.17°N 72.04°E · パキスタン・ハイバル・パフトゥンハー州
本文
釈迦が亡くなってから数百年のあいだ、仏教徒は仏を人の姿で表さなかった。紀元前2世紀から紀元前1世紀ごろに造られたインド中部のサーンチーやバールフットの仏塔には、釈迦の生涯の場面が細やかに浮き彫りにされている。ところが、主人公の釈迦はどこにも見当たらない。悟りを開いた場面には菩提樹と空の座が、初めて教えを説いた場面には法輪が、そこにいるはずの仏の代わりに刻まれている。足跡や傘も同じ役を果たした。悟りを開いて輪廻を離れた者を、人の形に閉じ込めることへのためらいがあったのではないかと考えられているが、はっきりした理由は分かっていない。
その約束事が破られたのが、紀元1世紀ごろのガンダーラである。ガンダーラは、いまのパキスタン北西部、ペシャワールの盆地を中心とする地域で、インドと中央アジア、イランを結ぶ交通の要だった。紀元前4世紀にアレクサンドロス3世の遠征軍がこの地を通り、その後もバクトリアのギリシア人の王国や、インド・グリーク朝の王たちがこの一帯を治めた(グレコ・バクトリア王国の滅亡)。仏教を問う王として知られるメナンドロス1世も、その一人である。ギリシア語の銘を刻んだ貨幣や、ギリシア風の神々の像を作る伝統が、この土地には根づいていた。

1世紀、中央アジアから来た遊牧民の一派がこの地域を支配下に置き、クシャーナ朝を築いた(クシャーナ朝の隆盛)。クシャーナ朝は、ローマ、パルティア、中国の漢とならぶ大国となり、東西の交易の利で栄えた。仏教を手厚く保護したことで知られるカニシカ王の時代には、各地に寺院や仏塔が建てられ、そこを飾る仏像や浮き彫りが大量に作られた。カニシカ王の貨幣の一つには、立った仏の姿と、ギリシア文字で書かれた仏の名が刻まれている。年代の分かる仏の像としては、最も古いものの一つである。
ガンダーラの仏像は、一目でそれと分かる特徴を持っている。灰色の片岩に刻まれた仏は、ギリシアやローマの彫像のように彫りの深い顔立ちで、鼻筋が額からまっすぐに通り、ときには口ひげをたくわえている。髪は波打ち、頭の上で束ねられている。衣は両肩を覆い、深く刻まれた襞が体の線に沿って流れ落ちる。地中海世界の哲学者や弁論家の彫像に見られる、トーガの表し方とよく似ている。釈迦の生涯を描いた浮き彫りには、ギリシア神話の英雄ヘラクレスの姿を借りた守護神まで登場する。ギリシア人の王国が残した技術に、ローマとの交易で入ってきた新しい様式が重なった、と考えられている。
ほぼ同じころ、インド北部のマトゥラーでも仏像が作られ始めていた。こちらは赤い砂岩に彫られ、肩幅が広く、薄い衣が体に張りつくように表されて、インド古来の豊穣の神々の像の流れを引いている。仏像を最初に生んだのはガンダーラかマトゥラーか。20世紀の初め、ギリシアの影響を重んじるヨーロッパの学者と、インド独自の発展を主張するインドの学者のあいだで、激しい論争が起きた。いまも決着はついておらず、二つの土地でほぼ同時に、それぞれの伝統から仏像が生まれたとみる立場が有力である。
仏を人の姿で表すことは、仏教そのものの変化とも結びついていた。同じころ、多くの人びとを救う菩薩を信仰する大乗仏教が力を伸ばし、祈りを向ける対象としての像が求められるようになった。ガンダーラでは、宝石の飾りや豪華な衣をまとった王族のような姿の菩薩像も数多く作られている。

ガンダーラで形を整えた仏の姿は、交易の道に乗って中央アジアへ、そして中国へ伝わった。アフガニスタンのバーミヤンの大仏(バーミヤンの大仏)、敦煌の石窟(敦煌の石窟の造営)、北魏の雲岡石窟の造営と、その様式は土地ごとに姿を変えながら東へ進む。朝鮮半島を経て6世紀に日本へ届いた仏像も、その長い流れの先にある。飛鳥時代の仏像の衣の襞を、たどっていけば地中海の彫刻に行き着く、と語られることがあるのはそのためである。もっとも、途中の土地ごとの変化は大きく、一本の線でつなぐのは単純すぎるという指摘もある。
ガンダーラの仏教美術は、3世紀以降のクシャーナ朝の衰えとともに勢いを失い、5世紀ごろの遊牧民の侵入で寺院の多くが荒廃した。土に埋もれた仏像は、19世紀にイギリスの支配のもとで再び掘り出され、世界の博物館に散らばった。東と西の造形が出会って生まれた最初の仏の顔は、いま、私たちが「仏像」と聞いて思い浮かべる姿の、遠い祖先になっている。