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Story / ストーリー

老いと死の歴史

出てくるできごと BC32000 – AD2014
できごと 25
この物語に出てくる図版:El pesado del corazón en el Papiro de Hunefer
この物語に出てくる『死者の書』とミイラから。El pesado del corazón en el Papiro de Hunefer Wikimedia Commons Hunefer · Public domain

概要

どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。

この物語について

死は誰にでも訪れるのに、その扱い方は社会ごとにまるで違う。焼くか、埋めるか、鳥に食べさせるか。家で看取るか、病院で看取るか。誰が遺体に触れてよいか。それらは全部、決まりで決まっている。

近代に起きたのは、死の場所と担い手が、家から外へ移ったことになる。体を洗うのは家族ではなく業者になり、死を告げるのは家長ではなく医者になった。死者を数え、平均の寿命を計算し、それを前提に保険と年金が組まれる。一人ひとりの死が、統計の一行として扱われるようになった。

老いのほうは、もっと新しい問題になる。長く生きられるようになって初めて、「長く生きたあとの時間をどう支えるか」という問いが生まれた。

この物語は、弔い方、遺体の扱い、寿命の数え方、老いの支え方を並べたものになる。自分が当たり前だと思っている死の作法が、いつ、なぜできたのかが見えてくる。

動画(1)

老いと死の歴史 〜地球に生きる人類の逃れられぬ宿命〜【COTEN RADIO #289 】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO老いと死を8回かけて扱うシリーズの第1回

この物語が起きた場所

ロシアカナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国中国ブラジルオーストラリアグリーンランドカザフスタンアルゼンチンインドアルジェリアスーダンザイールモンゴルサウジアラビアメキシコロンドン(7件) 死亡表と統計のはじまり 生命保険の始まり 『人口論』 解剖法 近代の火葬 無名戦士の墓 全人的な痛み7東京(3件) 火葬禁止令 玉音放送 介護保険3パリ(2件) 死の舞踏 ペール・ラシェーズ墓地2スンギール(1件) スンギールの埋葬テーベ(1件) 『死者の書』とミイラタニス(1件) タニスの王墓箸墓古墳(1件) 箸墓古墳ヴァーラーナシー(1件) ヴァーラーナシーの火葬ボローニャ(1件) 人前で、体を開くメキシコシティ(1件) 死者の日ワシントンD.C.(1件) 遺体を、家に返すジュネーヴ(1件) 捕虜の消息を集めるボルティモア(1件) ヒーラ細胞ケープタウン(1件) 最初の心臓移植ゲケドゥ(1件) 西アフリカのエボラ流行

できごと24件が起きた15か所。 同じ場所で何度も起きていれば、その数だけ大きくなります。国境はAD2014の版図(この枠に大きく入る17勢力)。 物語は何百年にもまたがるので、最後のできごとの年で描いています。人物・国と、場所の分かっていないできごと1件は出ていません。押すと、この物語だけに絞った地図が開きます。

筋(25)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. スンギールの埋葬できごとBC3万2000年頃手間をかけた埋葬は、三万年前からあるモスクワの東200キロ、氷期の狩人の遺跡。成人男性の墓と、頭を接して並べられた少年と少女の墓が出た。三人が身につけていた象牙のビーズは、合わせて1万3000個を超える。マンモスの牙を削って一つずつ穴を開ける作業は、一個に45分から1時間かかると実験で見積もられた。全部で数年分の労働である。子どもの墓には、まっすぐに伸ばしたマンモスの牙の槍が添えられていた。狩猟採集の社会が、死者のためにこれだけを費やした。スンギール
  2. 『死者の書』とミイラできごとBC1500年頃死後をどう過ごすかの手引き正しくは「日のもとに現れ出る呪文」。死者が冥界を通り抜けるための呪文集で、パピルスに書いて棺に納めた。中心にあるのが心臓の計量である。死者の心臓が天秤の一方に、真理の女神の羽根が他方に置かれる。釣り合えば来世へ、傾けば怪物に食われて消える。生前の行いが死後を決めるという考え方が、ここに明確な形で現れている。体を残さねば魂が戻れないので、内臓を取り出し、ナトロンで乾かし、樹脂と布で包んだ。テーベ
  3. タニスの王墓できごとBC1000年頃王の死が、国の事業になる第21王朝の王プスセンネス1世が、デルタの東の都に、盗掘されない墓を作った。1940年に手つかずで見つかり、銀の棺と金の面が出た。ツタンカーメン以来の完全な王墓だが、戦争の年で、誰も見向きしなかった。タニス
  4. 箸墓古墳できごとAD250年頃墓の大きさが、権力の大きさを見せる奈良盆地の南東、纒向。全長280メートル、最初の巨大前方後円墳。『日本書紀』は倭迹迹日百襲姫の墓と言い、「昼は人が作り、夜は神が作った」。2009年の年代測定で3世紀中頃。卑弥呼の死んだ頃。卑弥呼の墓と言う人と、違うと言う人。宮内庁が管理し、掘れない。箸墓古墳
  5. ヴァーラーナシーの火葬できごとAD500年頃焼いて川に流す。いまも続く作法ガンジス河畔のこの町で死ねば輪廻から解脱できる、という信仰がある。マニカルニカー・ガートでは、薪の火が数百年、絶えたことがないとされる。遺体は布に包まれて川で清められ、薪の上で焼かれ、灰は川へ流される。墓は作らない。体は器であって、残すものではないという考え方である。焼く薪の量は一体に300キロ前後で、貧しい者には払えない。焼き切れなかった体が川へ流されることが、いまも問題になっている。ヴァーラーナシー
  6. 人前で、体を開くできごとAD1315年死者の体を開いて学ぶことが、制度になるボローニャ大学の医師モンディーノ・デ・リウッツィが、人の体を学生の前で開いた。医学は千年のあいだ、ガレノスの書物を読むことで教えられてきた。解剖そのものが禁じられていたというより、遺体をどう手に入れ、誰の目に触れさせるかが重かった。用いられたのは処刑された者の体である。教授が高い椅子から書を読み上げ、床屋外科が刀を入れ、助手が該当の部位を指す。翌年に書かれた手引きは、二百五十年にわたって教室で読まれ続けた。見ることが、読むことの下に置かれた時代が、ここから終わっていく。ボローニャ
  7. 黒死病できごと1347年死者が多すぎて、弔いの作法が崩れたヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
  8. 死の舞踏できごと1424年誰にでも死が来る、という図像が広がる墓地の壁に、骸骨が教皇も王も農民も同じ列に引き込む絵が描かれた。黒死病と戦乱の世紀に、死が身分を平らにするという主題が繰り返し現れる。パリ
  9. 死者の日できごとAD1550年頃死者が帰ってくる日を、年に一度作る11月1日と2日、死者が帰ってくる。家に祭壇を作り、故人の写真と、好きだった食べ物と、匂いの強い花(センパスチル)を置く。墓地で夜を明かし、そこで食べ、歌う。先スペイン期のメソアメリカの死者の祭祀と、カトリックの諸聖人の日・死者の日が重なってできた。死を隠さず、笑いと結びつける。19世紀末、ポサダが描いた骸骨の風刺画(カラベラ)が、その図像を決定づけた。2008年、ユネスコの無形文化遺産。メキシコシティ
  10. 死亡表と統計のはじまりできごとAD1662年何歳で何人死ぬかを、初めて数えたロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。ロンドン
  11. 生命保険の始まりできごとAD1706年自分の死を、契約の対象にするロンドンの「アミカブル・ソサエティ」。会員が毎年、同じ額を払い、その年に死んだ会員の遺族が、集めた金を人数で分ける。年齢による差はまだない。1762年、エクイタブル生命が、ハレーとド・モアブルの生命表を使って、年齢ごとに保険料を変えた。数学で死を計算する商売。海上保険(ロイズのコーヒーハウス、1688年)と火災保険(大火の後、1680年)に続いて、命が金額になった。ロンドン
  12. 『人口論』できごとAD1798年人が増えることと死ぬことを、計算で論じた人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから飢えと貧困は避けられない。匿名で出たこの薄い本が、以後200年の悲観論の型になる。ロンドン
  13. ペール・ラシェーズ墓地できごとAD1804年墓地が、町の外の公共の場所になるナポレオンが、市内の埋葬を禁じ、郊外に新しい墓地を作らせた。宗教と身分を問わず、誰でも入れる。個人ごとの区画を持ち、名前を刻んだ石を立て、遺族が訪ねて花を置く。それまでの共同の墓穴とは、まったく違う考え方である。当初、遠すぎるとして人気がなかった。市は、ラ・フォンテーヌとモリエールの遺骨を移し、次いでアベラールとエロイーズの墓を作った。人が集まり始めた。死者を、個人として記憶する場所が生まれた。パリ
  14. 解剖法できごとAD1832年8月1日引き取り手のない遺体が、解剖に回されたイギリスでは、解剖に回してよい遺体は、処刑された殺人犯だけと定められていた。医学校は増え、処刑は減る。足りない分は、墓を掘り返す者たちが売った。1828年、エディンバラのバークとヘアは、掘るかわりに十六人を殺して解剖学者に売っていたことが露見する。議会が出した答えは、掘る動機を無くすことだった。救貧院や病院で死に、引き取り手のない者の体を、解剖に回せるようにする。墓を暴かれる恐れは消えたが、解剖台に載るのは、変わらず貧しい者だった。ロンドン
  15. 遺体を、家に返すできごとAD1865年4月21日遺体を家に返すために、薬で留める南北戦争では、兵が故郷から遠い戦場で死んだ。夏の鉄道で何日もかけて運べば、家に着くころには見られる状態ではない。医師トマス・ホームズらが、動脈から薬液を入れて腐敗を遅らせる方法を売り込み、戦場のそばに天幕を張って商売にした。金を払える家の息子だけが、家に帰れた。決定的だったのは大統領の遺体である。暗殺されたリンカーンは防腐処理を受け、二週間かけて各地を巡り、沿線の人々がその顔を見た。死者を土に返すまでのあいだ、専門の業者が預かるという形が、ここでできた。ワシントンD.C.
  16. 火葬禁止令できごとAD1873年(明治6年)7月18日禁じてから二年で撤回された火葬明治政府は、火葬を仏教の葬法と見て、これを禁じた。神道を国の形に据え直す流れのなかの一つである。だが都市では、土に埋める場所がすぐに足りなくなった。寺と火葬場からは撤回を求める書が相次ぎ、衛生の面からも火葬のほうがよいという意見が出る。二年足らずの1875年5月、禁令は取り消された。同じころ、ロンドンでは火葬協会が、墓地の満杯と地下水の汚れを理由に火葬を広めようとしていた。片方は禁じて戻し、片方は禁を破ろうとしていた。同じ都市の問題に、逆の方向から行き着いている。東京
  17. 近代の火葬できごとAD1874年都市の墓地が満杯になり、焼く方法が見直されたヨーロッパのキリスト教は、復活の教義から火葬を避けてきた。19世紀後半、都市の墓地が満杯になり、地下水の汚染が問題になった。外科医ヘンリー・トンプソンが、1874年に火葬協会を設立した。彼が挙げた理由は、衛生と、土地と、そして貧しい者の埋葬費である。1884年、ウェールズの医師が自分の子の遺体を焼いて起訴され、裁判所が「火葬は、公然と迷惑を及ぼさない限り、違法ではない」と判断した。1902年、火葬法。日本では、仏教とともに古くから行われていた。ロンドン
  18. 捕虜の消息を集めるできごとAD1914年8月21日死んだのか生きているのかを、家族に伝える第一次世界大戦が始まって三週間、ジュネーヴの赤十字国際委員会は、美術館の建物を借りて捕虜の消息を扱う窓口を開いた。家族からは「息子は生きているか」という手紙が届き、交戦国からは捕らえた兵の名簿が届く。その二つを突き合わせるために、名前ごとに一枚のカードを作り、国籍と身分で分けて並べた。ボランティアは千人を超え、戦争が終わるころ、カードは六百万枚を超えていた。消息が分かれば家族に知らせ、手紙と小包の通り道にもなった。一人ひとりの名前を、国の数ではなく紙の一枚として扱う仕組みだった。ジュネーヴ
  19. 無名戦士の墓できごとAD1920年11月11日名前のない一人を、国が弔う第一次世界大戦のイギリスの戦死者のうち、何十万人かは、遺体が見つからないか、誰か分からなかった。従軍牧師デイヴィッド・レイルトンは、前線で「名も知れぬイギリス兵」と書かれた十字架を見て、その一人を国の真ん中に葬ることを思いつく。1920年11月、いくつかの戦場から掘り出された遺体が並べられ、准将が目隠しのまま一つを選んだ。誰であるかを、誰も知らない。11月11日、その棺はウェストミンスター寺院に納められた。同じ日、フランスも凱旋門の下に一人を葬っている。遺族は、そこに自分の息子がいるかもしれないと思うことができた。ロンドン
  20. 玉音放送できごとAD1945年8月15日大量の死の終わりが、声で告げられたポツダム宣言の受諾が決まった8月14日の深夜、宮内省で天皇の朗読が二度録音された。それを奪って放送を止めようとする将校たちが宮城に押し入ったが、円盤は隠されて運び出された。15日正午、全国のラジオが鳴った。多くの国民が天皇の声を聞くのは、これが初めてである。文語で、雑音が多く、「降伏」の語は出てこない。共同宣言を受諾すると述べただけなので、放送のあとにアナウンサーが意味を説明しなければならなかった。戦争の終わりが、声で伝えられた。東京
  21. ヒーラ細胞できごとAD1951年本人が死んだあとも、細胞が生き続けるジョンズ・ホプキンス病院で、31歳の黒人女性ヘンリエッタ・ラックスが子宮頸がんの治療を受けた。担当医が、本人に知らせず腫瘍の一片を研究室に送った。その細胞は、それまでのどの細胞株とも違い、培養皿の中で無限に増え続けた。彼女はその年に死に、細胞は生き続けた。ポリオワクチンの試験、遺伝学、宇宙実験、無数の論文。家族が事実を知ったのは20年以上後で、その間、医療費に苦しんでいた。同意とは何かを問う事件になった。ボルティモア
  22. 最初の心臓移植できごとAD1967年12月3日どこからが死かを、決め直す必要が出たケープタウンのフルート・スキュール病院。交通事故で脳死になった25歳の女性デニス・ダーヴァルの心臓が、55歳のルイス・ワシカンスキーに移された。執刀はクリスチャン・バーナード。手術は成功し、患者は18日後に肺炎で死んだ。免疫抑制のために抵抗力を落としていた。世界が沸き、そして「死とは何か」が問われた。心臓が止まった時ではなく脳の機能が失われた時を死とする定義が、この後、各国で整えられていく。ケープタウン
  23. 全人的な痛みできごとAD1967年7月治すことをやめたあとの医療シシリー・ソンダースは看護師、医療ソーシャルワーカーを経て、四十歳近くで医師になった。死にゆく人の痛みを見て、それが身体だけのものではないと考えた。体の痛み、気持ちの痛み、社会から切り離される痛み、そして意味を失う痛み。彼女はこれを「全人的な痛み」と呼んだ。痛みが来てから薬を出すのではなく、来る前に定時で与える。眠らせるためではなく、起きていられるために。ロンドン郊外に開いたセント・クリストファー・ホスピスから、この考え方が世界へ広がった。ロンドン
  24. 介護保険できごとAD2000年4月1日長く生きたあとの時間を、誰が支えるかそれまで、高齢者の介護は家族が、実際にはその家の女性が担うものとされていた。措置制度の下で、行政が対象者と内容を決めた。2000年、40歳以上が保険料を払い、要介護の認定を受けて、事業者と契約してサービスを選ぶ仕組みに変わった。介護の社会化と呼ばれた。家の中で見えなかった労働の一部が、値段の付いた仕事になった。同時に、その賃金は他の産業より低く、人手不足が続いている。数えられるようになっても、安いままである。東京
  25. 西アフリカのエボラ流行できごとAD2014年弔いの習慣が、感染を広げるという難しさギニアの村の2歳の子から始まり、三か国で2万8000人が感染し、1万1000人が死んだ。医療従事者が500人死んだ。国境なき医師団が「制御不能」と宣言してから、世界が動いた。ゲケドゥ

重なっているストーリー

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