老いと死の歴史

概要
どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。
この物語について
どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、なぜいちばん制度に支えられているのか。
死は誰にでも訪れるのに、その扱い方は社会ごとにまるで違う。焼くか、埋めるか、鳥に食べさせるか。家で看取るか、病院で看取るか。誰が遺体に触れてよいか。それらは全部、決まりで決まっている。
手間をかけて死者を葬る営みは、とても古い。ロシアのスンギールの埋葬は、およそ3万年前の墓で、葬られた人々の衣には数千個の小さなビーズが縫い付けられていた。ビーズの一つひとつを作るには長い時間がかかる。死者のために、生きている者がそれだけの手間を惜しまなかったのである。
古代のエジプトでは、死後の世界での暮らしが、生きている間の最大の関心事の一つになった。遺体はミイラにされ、墓には死後の旅の手引きである『死者の書』が納められた。王の死は国の事業になり、巨大な墓が築かれた。日本でも3世紀の後半には、奈良盆地に箸墓古墳のような巨大な墓が現れる。墓の大きさが、権力の大きさを見せた。インドでは、ガンジスのほとりの聖地で遺体を焼き、灰を川に流す作法が、いまも続いている。

大量の死は、弔いの作法を崩す。14世紀の黒死病では、死者が多すぎて一人ずつ葬ることができなくなり、町の外に大きな穴が掘られて遺体がまとめて埋められた。そのあと、ヨーロッパの教会の壁や本の挿絵には、骸骨が王も農民も聖職者も等しく手を取って踊りに誘う絵が広がった。死の舞踏は、身分に関係なく誰にでも死が来る、という感覚を描いている。メキシコの死者の日のように、死者が年に一度帰ってくる日を祝う習わしも、各地に残っている。
近代に起きたのは、死を数えることだった。1662年、ロンドンの商人グラントは、教区ごとに出されていた死亡の記録を集計して本にした。その本は、どの年齢で何人が死ぬか、どんな病で死ぬかを、初めて数で示した。死亡表と統計のはじまりである。一人ひとりの死は予測できないが、大勢の死はある程度見通せる。この発見の上に、生命保険が成り立ち、やがて年金が組まれることになる。

死者の体も、新しい扱いを受けるようになった。医学の進歩には解剖が欠かせなかったが、解剖に使える遺体は足りなかった。19世紀の初めのイギリスでは、墓を暴いて遺体を医学校に売る者が現れ、遺体を売るために人を殺す事件まで起きた。1832年の解剖法は、引き取り手のない遺体を解剖に回すことを認めた。救貧院で死んだ貧しい人々が、解剖台に載ることになった。
都市の墓地も変わった。教会の墓地が満杯になり、衛生が問題になると、パリでは19世紀の初めに町の外れに大きな公共の墓地が作られた。墓地が、町の外の公園のような場所になる。日本では、明治の後半から、家の名を刻んだ墓に代々の骨を納める形が広まった。家制度と結びついたこの墓の形は、跡を継ぐ子がいることを前提にしている。いま、子のいない人や遠くに住む子が増えると、墓を片付ける人や、木の下に骨を埋める葬り方を選ぶ人が増えてきた。墓の形もまた、家族の形に合わせて変わっていく。遺体を焼く方法も見直され、19世紀の後半には各地で近代的な火葬場が造られた。明治の日本では、1873年に政府が火葬を禁じたが、土葬の場所が足りなくなる問題などが起き、わずか2年で撤回した。火葬禁止令のあと、日本は火葬が広がり、いまではほぼすべての死者が火葬される国になっている。

戦争は、死を国家のものにした。第一次世界大戦では、身元の分からない膨大な数の戦死者が出た。1920年、イギリスはその中から一人の名もない兵士の遺体を選び、ロンドンのウェストミンスター寺院に葬った。名前のない一人を、国が弔う。無名戦士の墓は、各国に広がった。
20世紀の医学は、どこからが死か、という線を引き直させた。1967年、南アフリカで最初の心臓移植が行われると、まだ心臓の動いている人から臓器を取り出してよいのか、という問いが生まれた。翌年、アメリカの大学の委員会は、脳の働きが戻らないほど失われた状態を死とみなす基準を示した。日本では、脳死をめぐる議論が長く続き、臓器の移植に関する法律ができたのは1997年のことである。

治すことをやめたあとの医療も生まれた。1967年、ロンドンにシシリー・ソンダースが開いたホスピスは、死に向かう人の痛みを、体の痛みだけでなく、心の痛み、社会的な痛み、魂の痛みを合わせたものとして捉えた。全人的な痛みは、現代の緩和ケアの出発点になった。
弔いの習慣が、命を危うくすることもある。2014年から西アフリカで広がった西アフリカのエボラ流行では、遺族が遺体を洗い、触れて別れを告げる習わしが、感染を広げる一因になった。死者を大切にする作法と、生きている者を守る対策が、ぶつかったのである。

近代に起きたもう一つのことは、死の場所と担い手が、家から外へ移ったことになる。体を洗うのは家族ではなく業者になり、死を告げるのは家長ではなく医者になった。日本では、病院で死ぬ人が家で死ぬ人を上回ったのは1970年代の後半である。一人ひとりの死が、統計の一行として扱われるようになった。
老いのほうは、もっと新しい問題になる。長く生きられるようになって初めて、長く生きたあとの時間をどう支えるか、という問いが生まれた。江戸時代の日本には、家の主が家督を子に譲って退く隠居という仕組みがあり、老いた者の居場所は家の中に用意されていた。1889年にドイツで始まった老齢年金は、70歳から支給された。当時、そこまで生きる人は多くなかった。年金は、長く生きた少数の人への備えとして始まったのである。年老いた親を山に捨てる姥捨ての話は日本の各地に伝わるが、実際にそうした習わしがあったことを示す確かな証拠は乏しく、昔話として語り継がれてきたものである。老いた者をどう扱うかへの不安が、物語の形をとったのかもしれない。日本人の平均寿命は、戦争が終わったころには50歳台だったが、いまは80歳を大きく超える。戦後すぐに生まれた大勢の世代が、いま老いの時期にある。日本では2007年に、65歳以上の人の割合が人口の21パーセントを超えた。少なく生まれ、長く生きる社会では、支える側と支えられる側の釣り合いが変わる。かつて若い家族でにぎわった郊外の団地では、住民が一斉に年をとった。2000年の介護保険は、老いた親の世話を家族だけに負わせず、社会で支える試みだった。
自分が当たり前だと思っている死の作法は、どれも、いつか、どこかで、誰かの都合で作られたものである。焼くことも、病院で死ぬことも、脳死という線も、平均寿命という数字も。老いと死の扱い方は、これからも書き換えられていく。
この物語は、弔い方、遺体の扱い、寿命の数え方、老いの支え方を並べたものになる。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(31)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- スンギールの埋葬できごとBC3万2000年頃手間をかけた埋葬は、三万年前からあるモスクワの東200キロ、氷期の狩人の遺跡。成人男性の墓と、頭を接して並べられた二人の子どもの墓が出た。三人が身につけていた象牙のビーズは、合わせて1万3000個を超える。マンモスの牙を削って一つずつ穴を開ける作業は、一個に45分から1時間かかると実験で見積もられた。全部で数年分の労働である。子どもの墓には、まっすぐに伸ばしたマンモスの牙の槍が添えられていた。狩猟採集の社会が、死者のためにこれだけを費やした。スンギール
- 『死者の書』とミイラできごとBC1500年頃死後をどう過ごすかの手引き正しくは「日のもとに現れ出る呪文」。死者が冥界を通り抜けるための呪文集で、パピルスに書いて棺に納めた。中心にあるのが心臓の計量である。死者の心臓が天秤の一方に、真理の女神の羽根が他方に置かれる。釣り合えば来世へ、傾けば怪物に食われて消える。生前の行いが死後を決めるという考え方が、ここに明確な形で現れている。体を残さねば魂が戻れないので、内臓を取り出し、ナトロンで乾かし、樹脂と布で包んだ。テーベ

- タニスの王墓できごとBC1000年頃王の死が、国の事業になる第21王朝の王プスセンネス1世が、デルタの東の都に、盗掘されない墓を作った。1940年に手つかずで見つかり、銀の棺と金の面が出た。ツタンカーメン以来の完全な王墓だが、戦争の年で、誰も見向きしなかった。タニス
- 箸墓古墳できごとAD250年頃墓の大きさが、権力の大きさを見せる奈良盆地の南東、纒向。全長280メートル、最初の巨大前方後円墳。『日本書紀』は倭迹迹日百襲姫の墓と言い、「昼は人が作り、夜は神が作った」。2009年の年代測定で3世紀中頃。卑弥呼の死んだ頃。卑弥呼の墓と言う人と、違うと言う人。宮内庁が管理し、掘れない。箸墓古墳

- ヴァーラーナシーの火葬できごとAD500年頃焼いて川に流す。いまも続く作法ガンジス河畔のこの町で死ねば輪廻から解脱できる、という信仰がある。マニカルニカー・ガートでは、薪の火が数百年、絶えたことがないとされる。遺体は布に包まれて川で清められ、薪の上で焼かれ、灰は川へ流される。墓は作らない。体は器であって、残すものではないという考え方である。焼く薪の量は一体に300キロ前後で、貧しい者には払えない。焼き切れなかった体が川へ流されることが、いまも問題になっている。ヴァーラーナシー
- 人前で、体を開くできごとAD1315年死者の体を開いて学ぶことが、制度になるボローニャ大学の医師モンディーノ・デ・リウッツィが、人の体を学生の前で開いた。医学は千年のあいだ、ガレノスの書物を読むことで教えられてきた。解剖そのものが禁じられていたというより、遺体をどう手に入れ、誰の目に触れさせるかが重かった。用いられたのは処刑された者の体である。教授が高い椅子から書を読み上げ、床屋外科が刀を入れ、助手が該当の部位を指す。翌年に書かれた手引きは、二百五十年にわたって教室で読まれ続けた。見ることが、読むことの下に置かれた時代が、ここから終わっていく。ボローニャ
- 黒死病できごと1347年死者が多すぎて、弔いの作法が崩れたヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
- 死の舞踏できごと1424年誰にでも死が来る、という図像が広がる墓地の壁に、骸骨が教皇も王も農民も同じ列に引き込む絵が描かれた。黒死病と戦乱の世紀に、死が身分を平らにするという主題が繰り返し現れる。パリ

- 死者の日できごとAD1550年頃死者が帰ってくる日を、年に一度作る11月1日と2日、死者が帰ってくる。家に祭壇を作り、故人の写真と、好きだった食べ物と、匂いの強い花(センパスチル)を置く。墓地で夜を明かし、そこで食べ、歌う。先スペイン期のメソアメリカの死者の祭祀と、カトリックの諸聖人の日・死者の日が重なってできた。死を隠さず、笑いと結びつける。19世紀末、ポサダが描いた骸骨の風刺画(カラベラ)が、その図像を決定づけた。2008年、ユネスコの無形文化遺産。メキシコシティ
- 死亡表と統計のはじまりできごとAD1662年何歳で何人死ぬかを、初めて数えたロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。ロンドン
- 生命保険の始まりできごとAD1706年自分の死を、契約の対象にするロンドンの「アミカブル・ソサエティ」。会員が毎年、同じ額を払い、その年に死んだ会員の遺族が、集めた金を人数で分ける。年齢による差はまだない。1762年、エクイタブル生命が、ドドソンがロンドンの死亡表から計算した表を使って、年齢ごとに保険料を変えた。数学で死を計算する商売。海上保険(ロイズのコーヒーハウス、1688年)と火災保険(大火の後、1680年)に続いて、命が金額になった。ロンドン
- 『人口論』できごとAD1798年人が増えることと死ぬことを、計算で論じた人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから飢えと貧困は避けられない。匿名で出たこの薄い本が、以後200年の悲観論の型になる。ロンドン

- ペール・ラシェーズ墓地できごとAD1804年墓地が、町の外の公共の場所になるナポレオンが、市内の埋葬を禁じ、郊外に新しい墓地を作らせた。宗教と身分を問わず、誰でも入れる。個人ごとの区画を持ち、名前を刻んだ石を立て、遺族が訪ねて花を置く。それまでの共同の墓穴とは、まったく違う考え方である。当初、遠すぎるとして人気がなかった。市は、ラ・フォンテーヌとモリエールの遺骨を移し、次いでアベラールとエロイーズの墓を作った。人が集まり始めた。死者を、個人として記憶する場所が生まれた。パリ

- ワーテルローの歯できごとAD1815年砂糖が安くなると、歯を失う人が増えた。当時の入れ歯に使う材料でいちばん良いのは、人の歯である。墓を暴いて集める者もいたが、埋葬から時間が経った歯は使えない。1815年のワーテルローの戦いのあと、戦場には若い男の遺体が数万あった。歯を抜いて回る者が現れ、それは樽に詰められてロンドンへ運ばれた。「ワーテルローの歯」と呼ばれ、由来が明かされたうえで売られた。若く健康な歯だという意味になったからである。入れ歯の歴史は、砂糖と戦争に結びついている。ワーテルロー
- 解剖法できごとAD1832年8月1日引き取り手のない遺体が、解剖に回されたイギリスでは、解剖に回してよい遺体は、処刑された殺人犯だけと定められていた。医学校は増え、処刑は減る。足りない分は、墓を掘り返す者たちが売った。1828年、エディンバラのバークとヘアは、掘るかわりに十六人を殺して解剖学者に売っていたことが露見する。議会が出した答えは、掘る動機を無くすことだった。救貧院や病院で死に、引き取り手のない者の体を、解剖に回せるようにする。墓を暴かれる恐れは消えたが、解剖台に載るのは、変わらず貧しい者だった。ロンドン
- 遺体を、家に返すできごとAD1865年4月21日遺体を家に返すために、薬で留める南北戦争では、兵が故郷から遠い戦場で死んだ。夏の鉄道で何日もかけて運べば、家に着くころには見られる状態ではない。医師トマス・ホームズらが、動脈から薬液を入れて腐敗を遅らせる方法を売り込み、戦場のそばに天幕を張って商売にした。金を払える家の息子だけが、家に帰れた。決定的だったのは大統領の遺体である。暗殺されたリンカーンは防腐処理を受け、二週間かけて各地を巡り、沿線の人々がその顔を見た。死者を土に返すまでのあいだ、専門の業者が預かるという形が、ここでできた。ワシントンD.C.
- 火葬禁止令できごとAD1873年(明治6年)7月18日禁じてから二年で撤回された火葬明治政府は、火葬を仏教の葬法と見て、これを禁じた。神道を国の形に据え直す流れのなかの一つである。だが都市では、土に埋める場所がすぐに足りなくなった。寺と火葬場からは撤回を求める書が相次ぎ、衛生の面からも火葬のほうがよいという意見が出る。二年足らずの1875年5月、禁令は取り消された。同じころ、ロンドンでは火葬協会が、墓地の満杯と地下水の汚れを理由に火葬を広めようとしていた。片方は禁じて戻し、片方は禁を破ろうとしていた。同じ都市の問題に、逆の方向から行き着いている。東京
- 近代の火葬できごとAD1874年都市の墓地が満杯になり、焼く方法が見直されたヨーロッパのキリスト教は、復活の教義から火葬を避けてきた。19世紀後半、都市の墓地が満杯になり、地下水の汚染が問題になった。外科医ヘンリー・トンプソンが、1874年に火葬協会を設立した。彼が挙げた理由は、衛生と、土地と、そして貧しい者の埋葬費である。1884年、ウェールズの医師が自分の子の遺体を焼いて起訴され、裁判所が「火葬は、公然と迷惑を及ぼさない限り、違法ではない」と判断した。1902年、火葬法。日本では、仏教とともに古くから行われていた。ロンドン
- 捕虜の消息を集めるできごとAD1914年8月21日死んだのか生きているのかを、家族に伝える第一次世界大戦が始まって三週間、ジュネーヴの赤十字国際委員会は、美術館の建物を借りて捕虜の消息を扱う窓口を開いた。家族からは「息子は生きているか」という手紙が届き、交戦国からは捕らえた兵の名簿が届く。その二つを突き合わせるために、名前ごとに一枚のカードを作り、国籍と身分で分けて並べた。ボランティアは千人を超え、戦争が終わるころ、カードは六百万枚を超えていた。消息が分かれば家族に知らせ、手紙と小包の通り道にもなった。一人ひとりの名前を、国の数ではなく紙の一枚として扱う仕組みだった。ジュネーヴ
- 無名戦士の墓できごとAD1920年11月11日名前のない一人を、国が弔う第一次世界大戦のイギリスの戦死者のうち、何十万人かは、遺体が見つからないか、誰か分からなかった。従軍牧師デイヴィッド・レイルトンは、前線で「名も知れぬイギリス兵」と書かれた十字架を見て、その一人を国の真ん中に葬ることを思いつく。1920年11月、いくつかの戦場から掘り出された遺体が並べられ、准将が、どこの遺体か知らされないまま一つを選んだ。誰であるかを、誰も知らない。11月11日、その棺はウェストミンスター寺院に納められた。同じ日、フランスも一人を凱旋門へ運んだ(その下に葬ったのは翌年1月)。遺族は、そこに自分の息子がいるかもしれないと思うことができた。ロンドン
- 玉音放送できごとAD1945年8月15日大量の死の終わりが、声で告げられたポツダム宣言の受諾が決まった8月14日の深夜、宮内省で天皇の朗読が二度録音された。それを奪って放送を止めようとする将校たちが宮城に押し入ったが、円盤は隠されて運び出された。15日正午、全国のラジオが鳴った。多くの国民が天皇の声を聞くのは、これが初めてである。文語で、雑音が多く、「降伏」の語は出てこない。共同宣言を受諾すると述べただけなので、放送のあとにアナウンサーが意味を説明しなければならなかった。戦争の終わりが、声で伝えられた。東京
- 第一次ベビーブームできごと1947年団塊の世代戦争が終わり、戦地や外地から何百万人もの男たちが帰ってくると、日本では結婚と出産が一気に増えた。1947年から1949年の3年間、毎年260万人を超える子どもが生まれ、1949年には270万人近くに達した。いまの年間の出生数の3倍以上である。この世代は、のちに作家の堺屋太一の小説の題から「団塊の世代」と呼ばれた。彼らが育つにつれて、学校は教室が足りずに一クラス50人を超え、受験の競争は激しくなり、就職、住宅、消費の市場が次々に膨らんだ。アメリカやヨーロッパでも、同じころからベビーブームが起きている。東京
- 死にゆく人の家できごとAD1950年10月7日救うことと、看取ることアルバニア系の修道女テレサは、カルカッタの女学校で教えていたが、路上で死んでいく人びとの間で働くよう召命を受けたと語った。1950年10月7日、新しい修道会が認められる。二年後、路上から運び込んだ人が、看取られて死ねる家を開いた。修道会は世界に広がり、1979年に彼女はノーベル平和賞を受ける。一方で、施設の医療の乏しさや、中絶と避妊への強い反対は批判も受けた。2016年、カトリック教会は彼女を聖人とした。コルカタ
- ヒーラ細胞できごとAD1951年本人が死んだあとも、細胞が生き続けるジョンズ・ホプキンス病院で、31歳の黒人女性ヘンリエッタ・ラックスが子宮頸がんの治療を受けた。担当医が、本人に知らせず腫瘍の一片を研究室に送った。その細胞は、それまでのどの細胞株とも違い、培養皿の中で無限に増え続けた。彼女はその年に死に、細胞は生き続けた。ポリオワクチンの試験、遺伝学、宇宙実験、無数の論文。家族が事実を知ったのは20年以上後で、その間、医療費に苦しんでいた。同意とは何かを問う事件になった。ボルティモア

- 千里ニュータウンできごと1962年9月一斉に年をとる町高度経済成長の時代、仕事を求めて大都市に人が押し寄せ、住まいが足りなくなった。大阪府は、大阪の北の千里の丘陵を切り開き、日本で初めての大規模なニュータウンを造った。1962年9月、最初の住民が入居した。小学校を中心にした近隣住区ごとに、団地と一戸建て、商店、公園を配置し、鉄道で大阪の都心と結んだ。1970年には隣で大阪万博が開かれた。人口は13万人に達し、多摩ニュータウンなど全国のニュータウンの手本になった。同じ世代の家族が一斉に入居したため、のちには住民の高齢化と建物の老朽化が一斉に進んだ。千里ニュータウン(位置は特定されていない)
- 最初の心臓移植できごとAD1967年12月3日どこからが死かを、決め直す必要が出たケープタウンのフルート・スキュール病院。交通事故で脳死になった25歳の女性デニス・ダーヴァルの心臓が、50代半ばのルイス・ワシカンスキーに移された。執刀はクリスチャン・バーナード。手術は成功し、患者は18日後に肺炎で死んだ。免疫抑制のために抵抗力を落としていた。世界が沸き、そして「死とは何か」が問われた。心臓が止まった時ではなく脳の機能が失われた時を死とする定義が、この後、各国で整えられていく。ケープタウン
- 全人的な痛みできごとAD1967年7月治すことをやめたあとの医療シシリー・ソンダースは看護師、医療ソーシャルワーカーを経て、四十歳近くで医師になった。死にゆく人の痛みを見て、それが身体だけのものではないと考えた。体の痛み、気持ちの痛み、社会から切り離される痛み、そして意味を失う痛み。彼女はこれを「全人的な痛み」と呼んだ。痛みが来てから薬を出すのではなく、来る前に定時で与える。眠らせるためではなく、起きていられるために。ロンドン郊外に開いたセント・クリストファー・ホスピスから、この考え方が世界へ広がった。ロンドン
- 脳死の基準できごとAD1968年8月5日死の線をどこに引くか人工呼吸器が広まると、脳の働きがすべて失われても、機械で心臓が動き続ける人が病院に現れた。死んでいるのか、生きているのか。1968年8月、ハーバード大学医学部の委員会は、呼びかけにも痛みにもまったく反応せず、自分で呼吸をせず、反射も無い状態を「不可逆的な昏睡」とし、それを死の新しい基準として示した。前の年には南アフリカで最初の心臓移植が行われていた。基準は、臓器の移植を可能にする一方で、人の死を誰がどう決めるのかという問いを残した。日本では、脳死を法律で人の死と扱うかをめぐって、長く議論が続いた。ボストン
- 1.57ショックできごと1990年6月少子化が問題になる1990年6月、前年1989年の日本の合計特殊出生率、すなわち一人の女性が一生のうちに産む子どもの数の見込みが、1.57だったと発表された。迷信のために子どもを産み控える人が多かった1966年の丙午の年の1.58を下回る、戦後で最も低い数字だった。この発表は「1.57ショック」と呼ばれ、少子化が社会の問題として広く意識されるきっかけになった。政府は1994年のエンゼルプランを皮切りに、保育所の整備や育児休業の制度などに取り組んだが、出生率はその後も下がり続け、2005年には1.26まで落ちた。東京
- 介護保険できごとAD2000年4月1日長く生きたあとの時間を、誰が支えるかそれまで、高齢者の介護は家族が、実際にはその家の女性が担うものとされていた。措置制度の下で、行政が対象者と内容を決めた。2000年、40歳以上が保険料を払い、要介護の認定を受けて、事業者と契約してサービスを選ぶ仕組みに変わった。介護の社会化と呼ばれた。家の中で見えなかった労働の一部が、値段の付いた仕事になった。同時に、その賃金は他の産業より低く、人手不足が続いている。数えられるようになっても、安いままである。東京
- 西アフリカのエボラ流行できごとAD2014年弔いの習慣が、感染を広げるという難しさギニアの村の2歳の子から始まり、三か国で2万8000人が感染し、1万1000人が死んだ。医療従事者が500人死んだ。国境なき医師団が「制御不能」と宣言してから、世界が動いた。ゲケドゥ

重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
考えることの歴史9件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。都市の歴史8件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。支え合いの歴史8件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。感染症と人類6件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。交易路とお金5件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。キリスト教のひろがり4件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。表現の歴史4件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。確かめるという方法4件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。二つの大戦3件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。技術と産業3件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。非株式会社いつかやるで聞く歴史3件を共有 / YouTubeチャンネル「非株式会社いつかやる」が解説した戦い・人物・病の歴史。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。古代オリエント2件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。女性の権利2件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。文明のはじまり2件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『中世の秋』で読む中世の終わり2件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。差別の歴史2件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。子どもの歴史2件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史2件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。インドと仏教1件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。日本の古代1件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『モンタイユー』で読む中世の村1件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『歴史序説』で読む王朝の寿命1件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。働くことの歴史1件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。障害の歴史1件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。メディアの歴史1件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。