アルバート・ナマジラ
概要
アレンテの画家。中央オーストラリアの風景を水彩で描き、先住民として初めて市民権を与えられた。その市民権が悲劇を招く。
関わったできごと(1)
ナマジラの市民権AD1957年 · 受けた側本文
アルバート・ナマジラは1902年7月28日、オーストラリア中央部の砂漠の中にある、ドイツ系ルター派教会のヘルマンスブルク伝道所で生まれた。中央オーストラリアに暮らすアレンテの人々のうち、西アレンテと呼ばれる集団の出で、生まれたときの名はエレアといった。3歳のとき両親とともに洗礼を受け、アルバートと名づけられた。

伝道所の学校で読み書きと聖書を学ぶ一方、13歳のころ、伝道所を離れて砂漠で一族の成人の儀式を受けた。そこで、土地の成り立ちを語る祖先の物語と、それぞれの場所に宿る聖なる意味を教わった。キリスト教の伝道所とアレンテの掟という二つの世界のあいだで、ナマジラは育った。18歳のころ、一族の婚姻の決まりに外れる相手ルビナと結婚し、しばらく伝道所を離れた。のちに戻って、二人は多くの子をもうけた。
若いころは、ラクダの隊を率いて荷を運び、牧場で家畜を追い、大工や鍛冶の仕事もした。伝道所の人々のために、焼き絵で飾った木の工芸品を作ってもいた。1934年、メルボルンから二人の白人の画家が伝道所を訪れ、中央オーストラリアの風景を描いた作品を展示した。ナマジラは強い関心を示した。1936年、そのうちの一人レックス・バタビーが再び来たとき、ナマジラは2か月にわたって彼の案内役を務め、その間に水彩の手ほどきを受けた。

覚えは驚くほど早かった。2年後の1938年、メルボルンで開いた初めての個展は、出品作がすべて売れた。ナマジラは中央オーストラリアの風景を描き続けた。白い幹をよじらせて立つゴーストガムの木、朝日や夕日に赤く燃える岩山、遠く青紫にかすむマクドネル山脈。それまで白人の目には不毛の荒野としか映らなかった土地が、鮮やかな色の風景として、オーストラリアじゅうの家庭の壁に掛けられるようになった。複製画が大量に出回り、ナマジラはこの国で最も有名な画家の一人になった。1954年には、来訪したエリザベス2世女王に面会している。
西洋の水彩の技法で描いているように見える。実際、当時の美術界は、白人の師に学んだ同化の成功例として彼を語り、伝統的な先住民の美術ではないと見下す者もいた(オーストラリア先住民の岩絵)。だが近年は、描いた場所のほとんどが、彼の一族が受け継いできた土地の聖なる地点だったと指摘されている。祖先の物語が宿る山や岩や水場を、自分の土地として描いたのであり、風景画の形をとった、土地との関係の記録だというのである。ナマジラに続いて、ヘルマンスブルクの人々のあいだからは多くの水彩画家が生まれ、その流れはいまも続いている。
名声は、生活を楽にはしなかった。アレンテの決まりでは、稼いだものは親族と分かち合わなければならない。ナマジラの収入は大勢の親族を支え、本人はいつも金に困っていた。土地を借りて牧場を開こうとしたが、先住民であることを理由に許されなかった。町に家を建てようとしても許可が下りなかった。
1957年、ナマジラは妻とともに、先住民として初めて、白人と同じ市民の権利を認められた(ナマジラの市民権)。それまで北部準州の先住民の多くは、政府の保護の対象として、住む場所も、働く先も、結婚さえも役所の許しを要し、投票もできず、酒を買うことも禁じられていた。有名になった画家に権利を与えるのは、政府にとって同化政策の宣伝でもあった。だが権利は本人と妻だけのもので、子どもも親族も対象外だった。酒を買う権利が、そこに含まれていた。
アレンテの掟では、親族に求められれば分けなければならない。1958年、居住地で親族の男が女性を殺す事件が起き、その捜査のなかで、ナマジラがその男に酒を渡していたとされた。ナマジラは、市民権の無い先住民に酒を渡した罪で起訴され、6か月の重労働の刑を言い渡された。世論は割れ、控訴の結果、刑は3か月に減らされた。1959年、ナマジラは砂漠の中の先住民の居住地で2か月の拘束を受け、釈放された。
その年の8月8日、ナマジラはアリススプリングスの病院で心臓の病のため死んだ。57歳だった。心の痛手が死を早めたと考える人は多い。先住民がオーストラリアの国勢調査に数えられ、国の法の対象として扱われることを決めたのは、10年近くのちの1967年の国民投票(オーストラリア)である。ナマジラの作品の著作権は、死後、遺族の手を離れて出版社に渡っていたが、2017年に支援者の働きで一族のもとへ戻された。