顧愷之
概要
無錫の人。「才絶・画絶・痴絶」。人物を描くとき何年も目を入れず、「伝神は目にある」と言った。維摩の像を寺の壁に描いて百万銭を集めた。『画雲台山記』は最古の画論。桓温と桓玄に仕えて生き延び、62歳で死んだ。
関わったできごと(1)
顧愷之「女史箴図」AD380年頃 · 画家本文
顧愷之は、東晋の画家である。字は長康、幼名は虎頭。中国で名前と作品と画論がそろって伝わる、最も古い画家の一人とされる。ただし、本人の筆と確かめられる絵は一枚も残っておらず、私たちが見ているのはすべて後の時代の写しである。写しを通して知られる最初の大画家、と言ってもよい。

344年ごろ、江南の無錫(いまの江蘇省)に生まれた。顧氏は呉の地の名家で、父は朝廷に仕える官人だった。東晋の成立からおよそ30年、北を失った晋の朝廷が建康(いまの南京)に置かれ、北から逃れてきた貴族と江南の豪族が肩を並べていた時代である。こうした貴族たちの間では、詩文や書や会話の機知が人の値打ちを決めた。同じころの書家王羲之もその世界の人で、顧愷之もまた、絵だけでなく文章と奇行で名を知られた。
若いころ、東晋随一の実力者桓温の幕僚になった。桓温は彼を評して「愷之の体の中には、愚かさと賢さが半分ずつある。合わせればちょうど釣り合う」と言ったという。世の人は彼を才絶・画絶・痴絶の「三絶」と呼んだ。才と絵が並はずれ、そして愚かさも並はずれている、というのである。桓温が死ぬと、顧愷之はその墓に詣でて激しく泣き、どんなふうに泣いたのかと問われて「声は雷が山を裂くよう、涙は大河が海に注ぐよう」と答えたと伝えられる。のちに荊州の長官殷仲堪、さらに桓温の子の桓玄に仕えた。

絵については、目にこだわった話がいくつも残る。人物を描いても何年も瞳を入れないことがあり、理由を問われると「体の美しさ醜さは、絵の妙所とは関係がない。精神を伝えて姿を写すのは、まさにこれ(阿堵)の中にある」と答えた。「伝神」、つまり姿だけでなくその人の精神を伝えることを、彼は絵の目的とした。片目の悪い殷仲堪が肖像を描かれるのを嫌がると、瞳をはっきり描いたうえで薄く刷毛でかすれをかけ、雲が月を隠すように見せようと言ったという。名士の裴楷を描いたときには頬に毛を三本描き足し、そのほうがこの人の見識が出ると言った。隠者風の謝鯤は岩と谷の中に描き、この人は山水の中に置くのがふさわしいと言った。
いちばん有名な逸話は、建康の瓦官寺の壁画である。寺を建てるために寄付を募ったとき、名士たちは誰も10万銭を超えなかったが、貧しい顧愷之は百万銭と書いた。人々がほらだと笑うなか、彼は寺に壁を一面用意させ、一か月ほどこもって病める居士の維摩詰を描いた。最後に瞳を入れる段になって、寺の僧に「初日に見に来る者からは10万銭、二日目は5万銭、三日目からは心のままに取るがよい」と告げた。扉を開くと光が寺に満ちるようで、たちまち百万銭が集まったと伝えられる。364年ごろのことという。痩せて病の気配を見せ、机にもたれて言葉を忘れたような維摩の姿は、のちの中国の維摩像の手本になった。仏教が中国の貴族の世界に入り込んでいく時代の象徴的な場面である(仏教が中国へ)。

彼の名で伝わる絵巻には、宮中の女性の心得を描いた『女史箴図』、曹植の詩を絵にした『洛神賦図』、『列女仁智図』がある。『女史箴図』はロンドンの大英博物館にあり、唐の時代かそれより前の写しとされる。『洛神賦図』は宋の時代の写しが北京、遼寧、ワシントンのフリーア美術館などに残り、一つの画面に同じ人物を何度も描いて、物語の時の流れを一巻の中に表している。どこまで顧愷之の原画の姿を伝えているかについては、研究者の意見が分かれる。
画論も三つ伝わっている。そのうち『画雲台山記』は、道教の祖とされる張道陵が弟子を試した山の場面をどう描くかの構想を記したもので、山水を描く方法を論じた中国最古の文章とされる。別の画論では「絵は人物が最も難しく、山水がこれに次ぎ、犬や馬がその次である」と述べた。形によって神を写す「以形写神」、対象に思いを移して妙を得る「遷想妙得」という言葉は、中国の絵画理論の出発点とされ、のちの画論家たちが繰り返し引いた。

痴絶の話も多い。甘蔗を食べるとき、いつも先の味の薄いほうから食べるので、理由を聞かれると「だんだん佳い境地に入る」と答えた。「漸入佳境」という成句の起こりである。主君の桓玄はたびたび彼をからかった。あるとき柳の葉を一枚渡し、「これは蝉が身を隠す葉だ。これで身を覆えば人から見えない」と言った。喜んだ顧愷之が葉で身を隠すと、桓玄はその場で彼に小便をかけたが、彼は本当に自分が見えていないのだと信じて、その葉を大事にしたという。また、大切な絵を箱に入れて封をし、桓玄に預けたところ、桓玄は箱の後ろを開けて絵を抜き取り、封をそのままにして返した。空の箱を見た顧愷之は、すぐれた絵は神に通じ、変化して飛び去ったのだ、人が仙人になるのと同じだと言って、少しも怪しまなかった。
本当に愚かだったのか、愚かを装って危うい時代を生き延びたのかは分からない。桓玄は403年に帝位を奪い、翌年に滅ぼされたが、顧愷之はその騒ぎを無事にくぐり抜け、のちに散騎常侍の官に就いた。406年ごろ、在職のまま62歳で死んだとされる。生没年には異説もある。東晋の宰相謝安は彼の絵を高く評価し、人がこの世に生まれて以来なかったものだと言ったと伝えられる。原画は失われても、その評価は千数百年のあいだ揺らがなかった。