できごと

仏国寺と石窟庵

Bulguksa and Seokguram
AD751年
重要度 4
北極圏の海獣狩猟民古シベリアの狩猟採集民唐ツングース系の人びとウイグル可汗国吐蕃吐蕃渤海ウイグルカルルクカナウジ南詔と大理高句麗パーラ朝タイ系の諸王国日本Nan-Zhaoアイヌ新羅ヒンドゥーの諸国真臘チャンパドヴァーラヴァティーAD751年仏国寺
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概要

統一新羅の宰相金大城が、現世の父母のために仏国寺を、前世の父母のために石窟庵を建てた、と『三国遺事』。多宝塔と釈迦塔。石窟庵の花崗岩の仏は東の海を向く。仏国寺は1593年に日本軍が焼き、木造部分は1970年代の復元。1995年、世界遺産。

場所

仏国寺
35.79°N 129.33°E · 韓国・慶州

本文

7世紀の後半、新羅は唐と組んで百済と高句麗を滅ぼし、続いて唐の軍も半島から追い出して、大同江より南をまとめた(新羅の朝鮮半島統一)。それから70年あまり、8世紀の半ばの景徳王の時代は、統一新羅がもっとも豊かで落ち着いていた時期にあたる。都の慶州(金城)には貴族の屋敷と寺が建ち並び、唐との往来を通じて仏教の美術が花開いた。慶州の東の吐含山の中腹に建つ仏国寺と、その山頂近くの石窟庵は、その頂点を示す建物である。

高麗の時代に一然がまとめた『三国遺事』は、二つの寺の始まりを、親孝行の説話として伝えている。昔、牟梁里の貧しい女の子に、額が城のように大きいので大城と呼ばれた子がいた。大城は、わずかな田を寺に施せば万倍の報いがあると僧に聞き、母と相談して田を寄進した。ほどなく大城は死に、その夜、宰相の金文亮の家に、牟梁里の大城がこの家に生まれる、という天の声が響いた。生まれた子は手に「大城」と書いた金の札を握っていた。成長した金大城は前世の母を家に引き取って養い、751年、今の世の父母のために仏国寺を、前の世の父母のために石仏寺(石窟庵)を建てはじめた。大城が774年に死んだときにはまだ完成しておらず、国が引き継いで仕上げたという。

1914年の仏国寺(澤俊一撮影)。仏国寺の現況は、1970年代の大規模修復を経たもの
1914年の仏国寺(澤俊一撮影)。仏国寺の現況は、1970年代の大規模修復を経たものWikimedia Commons Photo taken by Sawa Shun'ichi and commented by Fujita Ryosaku. · Public domain

『三国史記』には、景徳王の時代、745年から750年まで、金大正という人が中侍(王の下の最高の行政職)を務めたと記されている。この人を金大城と同じ人とみる説が有力で、二つの寺は実在の高官が始めた事業に、仏教の説話が重ねられたものと考えられる。王族や貴族が深く関わる、国家の事業に近いものだったとみられている。

仏国寺は、その名のとおり、この世に仏の国を形にしようとした寺である。正面には、石を積んだ高い基壇が東西に延び、そこへ上る二組の石の階段が橋のように架けられている。東の青雲橋と白雲橋は合わせて33段あり、仏教の世界観の三十三天を表すとされる。上った先の大雄殿の前庭には、二つの石塔が向かい合って立つ。東の多宝塔は高さ10メートルほどで、法華経に説かれる、釈迦の説法を讃えて地から現れた多宝如来の塔を表し、木の建物のような複雑な形を石で組み上げている。西の釈迦塔は、飾りを削ぎ落とした三層の端正な塔である。百済から招かれた石工の阿斯達を待つ妻が、池に塔の影が映るのを待ち続けたが影は映らなかった、という伝説から「無影塔」とも呼ばれる。

1966年、釈迦塔は盗掘の被害にあい、修理のために解体されたところ、中から経典の巻物が見つかった。『無垢浄光大陀羅尼経』である。塔が完成した751年より前に納められたと考えられ、木の版で刷られた印刷物としては、のちのグーテンベルクの活版印刷より700年近く早く、、年代の分かるものの中で世界最古の一つとされる。日本の法隆寺などに伝わる百万塔陀羅尼(770年ごろ)よりも古い。ただし、唐で刷られて新羅に持ち込まれたものだとする中国側の研究者の説もあり、どこで刷られたかは争われている。

グーテンベルクの活版印刷に関わる図版:Gutenberg press
グーテンベルクの活版印刷Wikimedia Commons International Printing Museum · CC0

石窟庵は、山の斜面に花崗岩を組んで造った人工の石窟である。インドや中国の石窟寺院は岩山を掘り抜いて造るが、朝鮮半島の硬い花崗岩ではそれができず、切り出した石を組み合わせ、上から土をかぶせて洞窟に見せた。四角い前室から短い通路を経て円形の主室に入ると、ドーム型の天井の下に、高さ3メートルを超える釈迦如来の坐像が座っている。周りの壁には、十一面観音や仏の十大弟子、菩薩や天部の像が浮き彫りで並ぶ。本尊は東、海の方角を向き、朝日が差し込むように置かれている。その先の海に、死んだら龍になって国を守ると言い残した文武王の海中の陵があるとする話も語られる。

石窟庵は、朝鮮の時代には荒れていたが、日本の植民地の時代の1909年ごろに日本人に「発見」されたと伝えられ、1913年から朝鮮総督府が解体と修理を行った。このとき外側をセメントで固めたため、石窟の中に湿気がこもり、水がしみ出して苔が生えるようになった。1960年代に韓国の手で改めて修理が行われ、機械で湿度を整えるようになり、いまは本尊をガラスの壁越しに拝む形になっている。かつては自然に空気と湿気を逃がす仕組みが備わっていたとみられ、その工夫が失われたことが惜しまれている。

仏国寺多宝塔。1920年頃
仏国寺多宝塔。1920年頃Wikimedia Commons 朝鮮総督府 · Public domain

仏国寺の木造の建物は、1593年、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のさなかに焼かれた。その後、少しずつ再建されたが荒れ、いまの伽藍の多くは、1969年から73年にかけて朴正煕の政権のもとで復元されたものである。石の基壇と階段と二つの塔は、8世紀のまま残っている。1995年、仏国寺と石窟庵は、韓国で最初の世界遺産の一つに登録された。

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