銅雀台
概要
曹操が鄴に建てた高楼。息子たちに詩を作らせ、曹植が一気に書いた。建安の文学。曹操、曹丕、曹植、建安七子。戦争の合間に、詩が政治になった。曹操の死後、歌姫たちが毎月ここで歌うよう遺言された。
場所
36.30°N 114.45°E · 中国・河北省臨漳
関わった人(2)
曹操155年–220年3月15日 · 建てた曹植AD192年–AD232年 · 賦を作った本文
官渡の戦いで袁紹を破った曹操は、204年、袁氏の本拠地だった鄴を落とし、ここを自分の本拠とした。鄴はいまの河北省の南部、黄河の北にある。後漢の都は許にあり、献帝はそこにいたが、政治と軍事の実権を握る曹操は鄴に住み、ここを事実上の都として整えていった。208年には南へ攻めて赤壁の戦いに敗れたものの、北の中国は曹操のもとでひとまずの落ち着きを取り戻していた。
210年の冬、曹操は鄴の城の西北の隅に、高い台を築いた。城壁を土台にして土を突き固めて積み上げ、その上に楼閣を建てたもので、高さは10丈(およそ20数メートル)あったと伝えられる。屋根の上に銅で作った大きな雀(鳳凰とも言われる)を飾ったことから、銅雀台と呼ばれた。曹操はその後、銅雀台の南と北に、金虎台と氷井台を続けて築いた。三つの台は橋で結ばれ、鄴の城を見下ろす壮大な眺めだったという。台は、敵を見張る望楼であり、武器や食糧を蓄える倉であり、そして宴を開いて天下の人士を集める場でもあった。

台ができあがると、曹操は息子たちを連れて上に登り、それぞれに台を詠む賦を作らせた。賦は、韻をふみながら物事を華やかに描き出す文の形式である。このとき、まだ十代の終わりだった曹植は、筆を執るとたちまち書き上げ、その出来ばえは見事だった。正史の陳寿『三国志』は、曹操がこれを見て大いに驚いた、と書いている。曹植はそれ以前から、書いたものがあまりにうまいので、誰かに代作させたのではないかと曹操に疑われるほどの才を見せていた。曹操は一時、兄の曹丕をさしおいて曹植を跡継ぎにしようかと考えたとも伝えられる。
銅雀台が象徴するのは、曹操のもとに花開いた文学の時代である。後漢の最後の年号をとって、この時代の文学を「建安文学」と呼ぶ。中心にいたのは、曹操と、二人の息子の曹丕と曹植で、まとめて「三曹」と呼ばれる。そのまわりに、孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨という七人の文人がいて、「建安七子」と呼ばれた。彼らの多くは戦乱で故郷を追われ、各地を流浪した末に曹操のもとに集まった人々だった。

それまでの漢代の詩は、名も知られない民間の歌や、儀式のための形式ばった作品が多かった。建安の詩人たちは、戦乱の悲惨さ、人の命のはかなさ、志を遂げたいという思いを、自分の言葉で力強く詠んだ。曹操は、戦場で死んだ兵士の白骨が野にさらされ、千里の間に鶏の鳴く声も聞こえない、と詠んだ。王粲は、戦乱を逃れて旅する途中で、飢えた母親が我が子を草むらに捨てていく姿を詠んだ。作者がはっきりし、作者自身の感情を表す詩が、ここから本格的に始まったとされる。
曹操にとって、文学はただの楽しみではなかった。天下の才ある者を集め、宴を開き、詩を作らせることは、自分のもとに人材と名声が集まっていることを示す政治の行いでもあった。曹丕はのちに、文章は国を治める大事業であり、永遠に朽ちることのない営みである、と書いた。戦争と戦争の合間に、詩が政治の一部になっていた。

220年、曹操は洛陽で亡くなった(曹操の死)。死に際して曹操が残した遺言には、銅雀台のことが記されていた。自分に仕えた女たちと歌姫たちは銅雀台に住まわせよ。台の上に寝台を置き、とばりを張って、朝夕に食べ物を供えよ。毎月の1日と15日には、とばりに向かって歌と舞を奏でよ。そして、ときどき台に登って、西の丘にある自分の墓を眺めよ。天下の覇者の遺言としては、驚くほど細やかな言葉である。
曹操の死の年、曹丕は献帝から位を譲られて魏の皇帝となった(曹丕の即位(漢の滅亡))。曹植は兄に疎まれ、各地の領地を転々とさせられて、不遇のうちに数え41歳で亡くなる。銅雀台はその後も鄴の名所として残り、のちの時代にも修築されたが、やがて川の流れが変わって大部分が削られた。いまは金虎台の土台の一部などが遺跡として残るだけである。

銅雀台は後世の文学でもくり返し詠まれた。唐の詩人杜牧は、赤壁で東風が吹かなければ、呉の美女の二喬は銅雀台に閉じ込められていただろう、と詠んだ。明代の小説『三国志演義』は、この詩から想を得て、諸葛亮が曹植の賦の文句を書き換え、曹操は二喬を銅雀台に置くために攻めて来るのだと周瑜に吹き込んで怒らせる、という場面を作った。これはもちろん物語の創作である。