人物

ウィリアム・シェイクスピア

William Shakespeare
AD1564年 – AD1616年4月23日(享年52・推定)
イングランド重要度 5

概要

37の戯曲を書き、英語に千数百の語句を残した。生涯の記録が少なく、別人説がいまも湧く。

関わったできごと(3)

シェイクスピア『ヴェニスの商人』AD1597年ごろ · 作者『ハムレット』AD1601年頃 · 作者シェイクスピア『マクベス』AD1606年ごろ · 作者

本文

1564年4月26日、イングランド中部の町ストラトフォード・アポン・エイヴォンの教会で洗礼を受けた記録がある。誕生日はそれより数日前で、伝統的に4月23日とされるが、確かではない。父ジョンは手袋職人で、羊毛の商いもし、町長にあたる役も務めた有力者だった。ただ、息子が十代の頃に商売が傾き、町の役職から退いている。

ウィリアム・シェイクスピアの肖像
ウィリアム・シェイクスピアの肖像Wikimedia Commons Attributed to John Taylor · Public domain

町の文法学校でラテン語の古典を学んだとみられるが、学籍の記録は残っていない。大学には進まなかった。

生涯の記録が少ない。洗礼と、結婚と、訴訟と、遺言。それくらいしか残っていない。18歳のとき、8歳年上のアン・ハサウェイと結婚した。結婚の半年後に長女スザンナが生まれ、2年後に男女の双子が生まれた。そのあと7年ほど、彼が何をしていたのか分からない。研究者はこの時期を「失われた年月」と呼ぶ。田舎の教師をしていた、鹿を密猟して町を逃げた、といった話が後世に作られたが、裏づけは無い。

シェイクスピアの生家から車で10分ほどの距離にある、妻アンの実家
シェイクスピアの生家から車で10分ほどの距離にある、妻アンの実家Wikimedia Commons pcs34560 · Public domain

1592年、ロンドンの劇作家ロバート・グリーンが、他人の羽で着飾った成り上がりの烏、と書いた文章がある。大学出の劇作家たちの縄張りに入り込んできた役者あがりの新顔を、皮肉ったものとされる。この頃にはすでに、ロンドンの劇場で名を上げていたことになる。

同じ年から2年ほど、ペストの流行でロンドンの劇場が閉鎖された。その間に、若い貴族サウサンプトン伯に献じた物語詩を出版している。劇場が再開されると、宮内大臣一座という劇団の結成に加わり、役者であり、劇作家であり、劇団の株を持つ共同経営者になった。

シェイクスピア家の紋章
シェイクスピア家の紋章Wikimedia Commons Tomasz Steifer , Gdansk · CC BY 2.5

役者であり、劇団の共同経営者でもあった。儲けている。1599年、テムズ川の南岸に劇団の劇場、グローブ座を建てた。前の劇場の建物を解体して、材木を運んで建て直したものだった。1603年にエリザベス1世が死に、ジェームズ1世が即位すると、劇団は王の庇護を受けて国王一座となる。

37の戯曲を書いた。数え方によって38や39とされることもあり、ほかの劇作家との共作も含まれる。若い頃はイングランドの王たちの歴史劇と喜劇が多く、『ロミオとジュリエット』や『シェイクスピア『ヴェニスの商人』』もこの時期に書かれた。1600年前後から、『『ハムレット』』『オセロ』『リア王』『シェイクスピア『マクベス』』の四大悲劇が続く。晩年には、和解と許しを描くロマンス劇に移った。

『ハムレット』に関わる図版:Edwin Booth Hamlet 1870
『ハムレット』Wikimedia Commons J. Gurney & Son, N.Y. · Public domain

作品の筋の多くは、自分で考えたものではない。イタリアの物語集、年代記、古代ローマの伝記から筋を借りている。新しかったのは、人物の内面の描き方だった。迷い、自分に問い、言葉で自分を追い詰めていく人間を、舞台の上に立たせた。生きるべきか死ぬべきか、というハムレットの独白は、その代表である。

英語に千数百の語句を残したとされる。すべてが造語ではないが、書き言葉として定着させた役割は大きい。辞書の最初の用例として彼の作品が引かれている語が多いのは、彼の作品がよく読まれ、よく調べられてきたからでもある。いま日常で使う言い回しにも、この一群の戯曲から来たものが多い。

最初の全集ファースト・フォリオ(1623年)に掲載された肖像画
最初の全集ファースト・フォリオ(1623年)に掲載された肖像画Wikimedia Commons William Shakespeare · Public domain

11歳の一人息子ハムネットは、1596年に死んだ。死因は分かっていない。数年後に書かれた『ハムレット』の題との関係を言う人もいるが、当時はよくある名だった。同じ頃、父のために紋章を手に入れ、翌年には故郷で2番目に大きいといわれる家を買った。ロンドンで働きながら、稼いだ金で故郷に土地と家を買い、紳士の身分を整えていった。

1609年には、154篇のソネット(十四行詩)が出版された。美しい青年と、黒い髪の女性に向けたとされる詩が並び、モデルが誰かをめぐって、いまも議論が絶えない。

ウィリアム・シェイクスピアの肖像(ジョン・テイラー画)
ウィリアム・シェイクスピアの肖像(ジョン・テイラー画)Wikimedia Commons Attributed to John Taylor · Public domain

1613年頃、ストラトフォードへ戻った。同じ年、グローブ座は芝居の最中に撃った大砲の火が屋根に燃え移って焼け落ちた。1616年4月23日、52歳で死に、故郷の教会に葬られた。墓石には、この骨を動かす者は呪われよ、という意味の言葉が刻まれている。

遺言で、妻に「二番目に良いベッド」を残した。その解釈をめぐって、400年議論が続いている。妻を軽んじた証拠だという見方もあれば、いちばん良いベッドは客用で、夫婦のベッドこそ二番目だったという見方もある。財産の大半は長女スザンナに遺された。

シェイクスピアの生家とされるストラトフォード・アポン・エイヴォンの家
シェイクスピアの生家とされるストラトフォード・アポン・エイヴォンの家Wikimedia Commons John · CC BY 2.0

死後7年の1623年、劇団の仲間2人が36の戯曲を集めた全集を出版した。「ファースト・フォリオ」と呼ばれる。このうち半分近くはそれまで印刷されたことがなく、この全集が無ければ『マクベス』も失われていた。友人の劇作家ベン・ジョンソンは巻頭の詩で、彼は一時代のものではなく、あらゆる時代のものだ、とたたえた。

大学を出ていない。そのため、別人説がいまも湧く。哲学者フランシス・ベーコン説、劇作家マーロウ説、オックスフォード伯などの貴族説。19世紀半ばから唱えられるようになった。どれも、決定的な証拠が無い。マーロウは彼の主な作品が書かれる前の1593年に死に、オックスフォード伯もいくつかの作品が書かれる前の1604年に死んでいる。研究者の大半は、ストラトフォードの手袋職人の息子が書いたと考えている。

同じ時代、エリザベス1世の下でイングランドはアルマダの海戦を退け、国としての自信を深めていた。彼の死の5年前には欽定訳聖書も出ている。英語が、一つの島の言葉から、のちに世界中で話される言葉になっていく入口に、この人の戯曲は立っている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1564年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →