朝鮮半島

概要
大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。
この物語について
大国に挟まれた場所で、どうやって別の国であり続けるか。半島の歴史は、この問いの連続になる。
半島の人びとが自分たちの始まりとして語るのは、天の神の子と熊から人になった女のあいだに生まれた檀君が、紀元前2333年に国を開いたという神話である。これが書物に記されたのは13世紀の末で、モンゴルの支配に苦しんでいた時代だった。史実として確かめられるのは、もっと後のことになる。紀元前2世紀のはじめ、中国から来た衛満が半島の北西部に王朝を開き、紀元前108年、漢の武帝がこれを滅ぼし、楽浪郡の設置に踏み切った。楽浪郡は4世紀のはじめまで400年あまり続き、中国の文字や制度、文物が半島へ流れ込む窓口になった。
楽浪郡が倒れたころ、半島には三つの国が並び立っていた。北の満洲から半島北部に広がる高句麗、南西の百済、南東の新羅である。それぞれの建国には、卵から生まれた王などの伝説が伝わる。三国の中でまず強くなったのは高句麗だった。414年に建てられた好太王碑は、広開土王が百済や新羅を従え、海を渡ってきた倭の軍を破ったと刻む。倭についての記述の読み方をめぐっては、日本と韓国、中国の研究者の間で長く論争があった。4世紀の後半には高句麗と百済に仏教が伝わり、百済はそれを6世紀に日本へ伝えている。
6世紀の末、中国を統一した隋は、高句麗を何度も攻めた。612年、高句麗の将軍乙支文徳は、薩水で隋の大軍を引き込んで打ち破ったと伝えられる。隋は高句麗遠征の失敗で国力を失い、まもなく滅んだ。続く唐も高句麗を攻めたが、なかなか落とせなかった。大国の攻撃を正面から跳ね返す力を、高句麗は持っていた。
勝負を決めたのは、三国の中でいちばん小さかった新羅の外交だった。新羅は唐と手を結び、660年に唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼした。百済の遺臣たちは日本に助けを求め、663年、倭の水軍は白村江の戦いで唐の水軍に大敗する。日本はこの後、唐の侵攻を恐れて九州に水城や山城を築いた。668年には高句麗も唐と新羅に挟まれて滅びた。

ところが唐は、滅ぼした二国の土地を自分の支配下に置こうとした。新羅はここで唐と戦い、676年までに唐の軍を半島から追い出した。新羅の朝鮮半島統一は、大国の力を借りて敵を倒し、最後はその大国も退けるという、綱渡りの末の統一だった。ただ、新羅が治めたのは大同江より南で、高句麗の旧領の北部には、698年に大祚栄が渤海を建てた。
統一した新羅は、唐とすぐに関係を修復し、多くの留学生や僧を唐へ送った。都の慶州には仏国寺が建てられ、石窟庵には花崗岩の仏が刻まれた。一方で、生まれた家の格で就ける官職が決まる骨品制という厳しい身分の仕組みが最後まで残り、唐で学んで帰った有能な者たちも、出自のために上へは行けなかった。新羅の末期の混乱は、この行き詰まりから生まれたともいわれる。

10世紀、新羅が衰えると、王建が高麗を開き、936年に半島を再びまとめた。高麗は仏教を厚く保護し、北方の契丹の侵攻を何度も退けた。12世紀の後半には武臣が文臣を倒して実権を握る時代が百年ほど続く。そして1231年、モンゴルが攻め込んできた。高麗の朝廷は都を江華島に移し、30年近く抵抗を続けた。
そのさなかの1236年から、高麗は仏の力で外敵を退けようと、経典をすべて版木に彫る事業に取りかかった。前に彫った版木はモンゴルの兵に焼かれていた。16年をかけて彫り上げられた高麗版大蔵経は、8万枚を超える版木からなり、今も海印寺に収められている。誤りの少なさでも知られ、近代になって日本で編まれた大蔵経の底本にもなった。結局、高麗はモンゴルに降り、王家はモンゴルの皇女を妃に迎える。元が日本へ攻め込んだとき、高麗は船と兵を出させられた。

14世紀の末、元が北へ退き、明が興ると、高麗の朝廷はどちらに付くかで割れた。明を攻めるよう命じられた将軍李成桂は、途中で軍を引き返して実権を握り、1392年に新しい王朝を開いた。朝鮮王朝の成立である。朝鮮は明に朝貢して冊封を受け、国の教えを仏教から朱子学に改めた。大国に礼を尽くして内政の自由を保つ。これが朝鮮の選んだ生き残り方だった。
4代国王の世宗のもとで、朝鮮は文化の頂点を迎えた。学者を集めて天文や農業、医学の書を編ませ、雨量計や日時計を作らせた。そして1443年、自国の言葉を書き表す28の文字を作らせ、1446年に「訓民正音」として公布した。序文で王は、この国の言葉は中国と異なり、漢字では通じないため、言いたいことがあっても書き表せない民が多い、それを哀れんで新しい文字を作った、と述べている。文字は発音する器官の形をかたどって設計され、音を組み合わせて一つの字にまとめる。いまハングルと呼ばれるこの文字は、漢字を重んじる両班からは長く軽んじられたが、女性や庶民の間で使われ続けた。
1592年、天下を統一した豊臣秀吉が、明を攻める道を貸せと求めて半島に大軍を送った。文禄・慶長の役の始まりである。日本軍はひと月足らずで漢城を落とし、平壌まで進んだ。陸では総崩れだった朝鮮を救ったのは、各地で立ち上がった義兵と、明の援軍、そして海の戦いだった。水軍を率いた李舜臣は、亀甲船と呼ばれる屋根付きの軍船などを使い、閑山島の沖で日本の水軍を大きく破って補給の道を断った。戦争は7年に及び、秀吉の死で日本軍が引き揚げる最後の海戦で、李舜臣は流れ弾に当たって死んだ。半島の国土は荒れ果て、多くの人が日本へ連れ去られた。陶工たちもその中にいて、日本の焼き物を変えた。

それから30年あまり後、今度は北から満洲族の後金、のちの清が攻めてきた。1636年、朝鮮の王は雪の中で清の皇帝に三度跪き、九度頭を地に打ちつけて降伏した。明を父と仰いできた朝鮮にとって、これは深い屈辱だった。朝鮮はその後、清に朝貢しながら、内心では滅んだ明の文化を受け継ぐのは自分たちだと考え続けた。
一方、日本との国交は、戦争の後、徳川家康のもとで回復した。1607年から1811年まで、朝鮮は12回にわたって通信使と呼ばれる使節を江戸へ送った。数百人の一行は、沿道の各地で日本の学者や文人と漢詩を詠み交わし、筆談で学問を論じた。侵略を受けた側が、礼を尽くした外交で隣国との関係を保とうとしたのである。この二百年の平和は、半島と列島の関係のなかでは珍しく長い。
19世紀、欧米と日本の船が開国を迫った。1876年、日本は軍艦を背に朝鮮と不平等な条約を結ぶ。朝鮮の宮廷では、清に頼る者、日本に学ぼうとする者、ロシアを引き込もうとする者が争った。1894年、東学を信じる農民が立ち上がると、清と日本がともに出兵して日清戦争になり、翌年には王妃の閔妃が日本の公使らの関与のもとで殺された。日露戦争に勝った日本は、1905年に朝鮮の外交権を奪って保護国とし、1910年、韓国併合によって国そのものを消した。
日本の支配は35年続いた。1919年3月1日、京城の公園で独立宣言が読み上げられ、三・一独立運動は数か月のうちに半島全土に広がったが、厳しく鎮圧された。支配の末期には、日本式の姓名を名乗らせる創氏改名が行われ、多くの人が日本の工場や炭鉱、戦場へ動員された。

1945年8月、日本が降伏すると、半島は北緯38度線で米ソに分けて占領された。境界は一時のつもりで引かれたが、1948年、南と北に別々の国ができる。1950年に始まった朝鮮戦争は3年にわたって半島を焼き、休戦の線はほぼもとの位置に落ち着いた。今も平和条約は結ばれていない。
半島の人びとは、千数百年にわたって、大国のどちらに付くか、どう距離を取るかを問われ続けてきた。それでも、統一新羅から高麗、朝鮮まで、一つの言葉を話す一つの国という形を守り、自分たちのための文字を作った。分断が続く今も、その問いは終わっていない。日本との関係をめぐる議論の多くも、この長い歴史のどこを見るかによって、見え方が変わる。
この物語が起きた場所
筋(109)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 檀君神話(伝承)できごとBC2333年(伝承)熊が女になった天帝の子桓雄が太白山に降り、熊が21日洞窟で蓬と蒜を食べて女になり、その子が檀君。平壌に都して1500年治めた。13世紀の『三国遺事』が最初に書いた。モンゴルに攻められていた高麗が、中国より古い自分の始まりを求めた。10月3日は開天節。平壌
- 衛満朝鮮できごとBC194年燕からの亡命者が王に燕から千人余りを連れて亡命した衛満が、箕子朝鮮の準王を追い出して王になった。髷を結い、朝鮮の服を着た。漢の外臣として周りの部族を従え、孫の右渠のとき漢と対立して、BC108年に武帝に滅ぼされて楽浪郡になった。平壌
- 楽浪郡の設置できごとBC108年漢の郡が置かれた時代衛氏朝鮮を滅ぼして郡を置いた。漢の制度と文物が朝鮮半島から日本へ伝わる経路になる。楽浪郡(位置は特定されていない)

- 新羅国BC57年(伝承) – AD935年半島の南東から始まり、唐と組んで百済と高句麗を倒し、その唐も追い出して半島を統一した。
- 新羅の建国(伝承)できごとBC57年(伝承)紫の卵6つの村の長が王を求めていると、白い馬が跪いていて紫の卵があり、中から光る子が出た。朴赫居世。瓢箪(朴)に似た卵から。13歳で王に。朴・昔・金の三つの姓が王を交代する国が、三国で最も遅く興り、最後まで残った。慶州
- 高句麗国BC37年(伝承) – AD668年半島の北半分と満洲南部を持ち、隋と唐の遠征を何度も退けた。最後は唐と新羅に挟まれて滅びる。
- 高句麗の建国(伝承)できごとBC37年(伝承)魚と亀の橋扶余の王子朱蒙は卵から生まれ、弓が巧く、兄たちに憎まれて南へ逃げた。川で魚と亀が橋を作った。卒本に都した。広開土王碑は「天帝の子、母は河伯の娘」と刻む。700年続く国の始まりの物語。桓仁(卒本)
- 朱蒙人物? – BC19年(伝承)三国が分け合った始祖「弓の巧い者」。河伯の娘柳花が日光に感じて産んだ卵から。扶余王の子らに殺されかけて南へ、魚と亀の橋を渡り、卒本で高句麗を建てた。東明聖王。扶余にも同じ東明の話があり、百済も温祚の父と呼ぶ。三国が同じ始祖を分け合った。
- 百済国BC18年(伝承) – AD660年半島の南西。倭と結び、仏教と文字と技術を日本へ渡した。660年に唐と新羅に滅ぼされる。
- 百済の建国(伝承)できごとBC18年(伝承)十済から百済朱蒙の息子温祚が、扶余から来た兄が太子になると聞いて南へ下り、漢江の南に都した。兄沸流は海辺の弥鄒忽を選んで失敗した。百済の王家は「扶余氏」を名乗り、聖王は国号を南扶余とした。高句麗と同じ祖の国。漢城(ソウル)
- 朴赫居世人物? – AD4年(伝承)世を明るくする紫の卵から出た光る子。「赫居世」は世を明るくする。妃の閼英は井戸の鶏龍の脇から生まれ、唇が鶏の嘴だった。二人で国を巡って農業を勧めた。61年の治世。死んで7日後に体が五つに分かれて落ちたと『三国遺事』。五陵。
- 温祚人物? – AD28年(伝承)漢江の南朱蒙の第二子。扶余から来た兄琉璃が太子になると、兄沸流と南へ。沸流は海辺を選んで死に、温祚は漢江の南、慰礼城に十臣と都した。「十済」から「百済」。国号は百姓が楽しんで済ったから、と『三国史記』。
- 金官伽耶の建国(伝承)できごとAD42年(伝承)金の卵と鉄亀旨峰に天から金の箱が降り、6つの卵から6人の王が生まれ、最初の首露が金官国の王になった。インドの阿踰陀から来た許黄玉を妃にした。伽耶は鉄で栄え、倭と交易し、562年に新羅に併合された。金海の金氏は首露の子孫を名乗る。金海
- 首露王人物? – AD199年(伝承)亀よ首を出せ亀旨峰に降りた6つの金の卵の最初。「亀よ亀よ、首を出せ」の歌で迎えられた。阿踰陀国の王女許黄玉が海を渡って来て妃になった。158年生きたと伝える。金海の金氏の始祖で、金庾信もその子孫。1000万人の金氏の一部が彼を祖に持つ。
- 公孫氏の帯方郡できごとAD204年帯方より倭に至るには遼東の公孫氏が楽浪の南に帯方郡を置いた。魏が238年に公孫氏を滅ぼして帯方を取り、翌年、卑弥呼の使者が帯方に来た。倭人伝の「帯方より倭に至るには」。倭と中国の間の郡。313年、高句麗が楽浪と帯方を滅ぼした。帯方郡(位置は特定されていない)
- 近肖古王の平壌攻めできごとAD371年百済の最盛期百済の王が3万で高句麗の平壌を攻め、故国原王を矢で殺した。百済の最盛期。倭に七支刀を贈り、東晋に使いを送り、博士高興に史書を書かせた。その30年後、高句麗の広開土王が仕返しに来る。平壌
- 高句麗への仏教伝来できごとAD372年前秦から僧が来た前秦の苻堅が僧の順道と仏像と経典を送った。半島に仏教が公式に入った最初で、12年後に百済にも東晋から入る。日本に渡るのはそこから150年後になる。国内城
- 近肖古王人物? – AD375年七支刀百済の第13代。馬韓の残りを取り、高句麗の王を平壌で殺し、東晋に朝貢して鎮東将軍の号を受けた。倭の王に七支刀を贈った。刀は石上神宮にあり、「泰和四年」の銘がある。博士高興が『書記』を編んだが、残っていない。
- 好太王碑できごとAD414年高さ6mを超える石碑。倭との戦いにも触れており、読み方をめぐる論争がいまも続いている。国内城
- 高句麗の平壌遷都できごとAD427年南を向いた、ということ満洲の山城から、平野の都へ移った。南へ向かう構えになる。半世紀後に百済の都を落とし、朝鮮半島の三国の力関係が変わる。平壌
- 家にかまどが入るできごとAD5世紀縄文から弥生の竪穴住居では、家の真ん中の炉で火を焚き、土器を直に火にかけて煮た。五世紀ごろ、朝鮮半島から、壁際に粘土で作り付けるかまどが伝わる。煙は壁の外へ抜け、火は囲まれて熱が逃げにくい。蒸し器を載せて米を蒸すこともできた。家の中心にあった火が壁際へ移り、家の間取りが変わる。かまどはその後、家そのものの言い換えにもなり、分家して新しく所帯を持つことを、かまどを分けると言った。平城京
- 百済の漢城陥落できごとAD475年この敗北のあと倭との関係が濃くなる高句麗が漢江流域を奪い、百済は都を南へ移した。この敗北のあと、百済は倭との関係を深める。半島と日本列島の往来が濃くなる時期になる。漢城(ソウル)
- 新羅の骨品制できごとAD520年能力では越えられない壁血筋で就ける官位の上限が決まる身分制を、法として定めた。能力では越えられない。この壁が、のちに人材を唐へ流出させる。慶州
- 真興王人物AD526年 – AD576年剃髪して法雲7歳で王に。母が摂政。百済と組んで高句麗から漢江の上流を取り、次に百済の下流を奪った。聖王が怒って攻めてきて管山城で死んだ。562年、大伽耶を滅ぼした。花郎、皇龍寺、巡狩碑。晩年は剃髪して法雲と名乗った。
- 仏教の日本伝来できごとAD538年(552年説もある)聖明王から百済から仏像と経典が伝わった。受け入れるかどうかで豪族が割れ、国の形をめぐる争いになる。飛鳥
- 真興王の巡狩碑できごとAD561年統一の形を作った新羅の王が新しく取った土地を巡って石を建てた。昌寧、北漢山、黄草嶺、磨雲嶺。漢江の流域を百済から奪い、伽耶を滅ぼし、東海岸を北へ。花郎を作り、皇龍寺を建てた。三国統一の百年前に、その形を作った王。漢城(ソウル)
- 金庾信人物AD595年 – AD673年半島統一の軍の顔滅んだ伽耶の王族の子で、新羅の花郎になった。妹を金春秋(武烈王)に嫁がせ、義兄弟として国を動かした。百済を滅ぼし、高句麗を滅ぼし、唐の軍を追い出す途中で死んだ。半島の統一の、軍の側の顔になる。
- 薩水の戦いできごとAD612年隋が傾いた隋の煬帝が113万と称する軍で高句麗を攻め、30万の別動隊が平壌の手前まで来た。乙支文徳が退きながら疲れさせ、帰る軍を清川江で襲った。遼東に戻れたのは2700人と伝わる。隋はこれで傾いた。薩水(清川江)(位置は特定されていない)
- 元暁人物AD617年 – AD686年無碍押梁の人。髑髏の水。還俗。瑤石宮の王女と息子薛聡。「無碍」の歌を瓢箪で。80余りの著作。『金剛三昧経論』は中国で『論』の名を許された。日本の華厳と浄土に影響した。「和諍」、争いを和する。韓国で最も大きな僧。
- 唐国AD618年 – AD907年長安は人口100万を超える国際都市になり、東アジアの制度と文化の手本になった。安史の乱で西域を失い、以後は縮んでいく。
- 義湘人物AD625年 – AD702年華厳一乗法界図元暁と唐へ向かい、元暁は帰り、義湘は行った。智儼のもとで華厳。「華厳一乗法界図」、210字を図に。唐が新羅を攻めると知って帰り、王に告げた。浮石寺。海東華厳の祖。中国の娘善妙が竜になって船を守った伝説。
- 善徳女王の即位できごとAD632年朝鮮最初の女王新羅の骨品制で聖骨の男がいなくなり、真平王の娘が王になった。朝鮮で最初の女王。瞻星台と皇龍寺の九層塔を建て、金春秋と金庾信を用い、唐の太宗に「女が王だから隣国が侮る」と言われた。647年、貴族の反乱の最中に死んだ。慶州
- 安市城の戦いできごとAD645年土山が崩れた太宗が自ら高句麗を攻めた。遼東城を落とし、安市城で止まった。楊万春が守った、と伝える。土山を築いて崩れ、冬が来て、帰った。「魏徴が生きていれば、この遠征を止めた」。高句麗はあと23年持ち、唐は新羅と組んだ。安市城
- 善徳女王人物? – AD647年三つのことを知っていた徳曼。唐から来た牡丹の絵に蝶がいないのを見て「香りがない」と言い、玉門池で蛙が鳴くのを聞いて百済の伏兵を知った。「三つのことを知っていた」。瞻星台。芬皇寺。反乱した毗曇が「女主は国を治められない」と言った。その最中に死んだ。
- 百済の滅亡できごとAD660年遺臣が日本に救援を求めた唐の13万が海から、新羅の5万が陸から来た。階伯の5000が黄山で四度勝って五度目に全滅し、都の泗沘が落ちた。王は唐へ連れ去られ、遺臣が日本に救援を求めた。それが白村江になる。泗沘(扶余)
- 黄山伐の戦いできごとAD660年7月5000対5万唐の13万が海から、新羅の5万が陸から。百済の階伯は5000で黄山の野に出る前に妻子を殺した。四度勝って五度目に負けた。16歳の花郎官昌が一人で突っ込んで殺され、その首を見て新羅の兵が動いた。10日後、泗沘が落ちた。論山(黄山伐)
- 階伯人物? – AD660年妻子を自分で達率。5000で黄山へ。「妻子が奴隷になるより」と自分で殺した。「越王句践は5000で呉の70万を破った」。四度勝ち、官昌の首を返し、五度目に死んだ。『三国史記』に忠臣として列伝が立てられ、論山に廟がある。
- 元暁の悟りできごとAD661年瓢箪を叩いて唐へ向かう途中、暗い所で甘い水を飲んだ。朝、髑髏の水だった。「心が生じれば法が生じる」。唐へ行くのをやめた。還俗して王女と結婚し、瓢箪を叩いて市で歌った。『大乗起信論疏』。仏教を民衆の言葉にした。息子は薛聡。慶州
- 白村江の戦いできごとAD663年倭が百済を助けて唐・新羅に大敗した。以後、日本は防衛を固めつつ唐の制度を学ぶ側に回る。白村江(位置は特定されていない)
- 淵蓋蘇文人物? – AD666年死ぬと二年で国が滅んだ642年、王と大臣百余人を殺して権力を取り、唐の太宗の親征を安市城ではね返した。五本の刀を帯びて歩き、人を踏み台にして馬に乗ったと唐の記録は言う。死ぬと三人の息子が争い、二年で国が滅んだ。
- 高句麗の滅亡できごとAD668年700年の国が内から崩れた隋と唐の遠征を70年はね返した国が、淵蓋蘇文の死後の兄弟争いで内から崩れた。唐と新羅が平壌を囲み、一か月で落ちた。700年の国が終わり、遺民は唐へ、新羅へ、そして渤海を建てる。平壌
- 新羅の朝鮮半島統一できごとAD676年唐の力を借り、最後はその唐も退けた唐と結んで百済・高句麗を倒し、その唐も退けた。半島に統一国家という形が生まれる。慶州
- 文武王人物? – AD681年大王岩金法敏。武烈王の子。母は金庾信の妹。661年に即位し、高句麗を滅ぼし、唐と8年戦った。「私は東海の竜になる」。海の岩の下に葬られた。大王岩。感恩寺。息子神文王が、父の竜が海から吹く笛を作ったという万波息笛の伝説。
- 渤海国AD698年 – AD926年(契丹による滅亡)高句麗の遺民と靺鞨が建てた「海東の盛国」高句麗の遺民と靺鞨が満洲に建てた。唐の制度を写し、「海東の盛国」と呼ばれた。日本と34回使節を交わしている。契丹に一年で滅ぼされた。
- 渤海の建国できごとAD698年高句麗が滅びて30年後高句麗が滅びて30年、その遺民と靺鞨が満洲東部に国を建てた。唐の制度と文字を写し、日本へ34回使節を送る。「海東の盛国」と呼ばれた。上京竜泉府
- 大祚栄人物? – AD719年建国者高句麗の遺民を率いて唐の追撃を振り切り、満洲東部に国を建てた。唐から渤海郡王に封じられ、その名が国号になる。
- 仏国寺と石窟庵できごとAD751年東の海を向く仏統一新羅の宰相金大城が、現世の父母のために仏国寺を、前世の父母のために石窟庵を建てた、と『三国遺事』。多宝塔と釈迦塔。石窟庵の花崗岩の仏は東の海を向く。仏国寺は1593年に日本軍が焼き、木造部分は1970年代の復元。1995年、世界遺産。仏国寺
- 張保皐の清海鎮できごとAD828年唐で軍人になった新羅人が帰国し、海賊を討つ拠点を莞島に置いた。唐・新羅・日本を結ぶ海の交易を握り、円仁の旅も助けている。莞島(清海鎮)
- 張保皐人物? – AD846年海の交易を握り、王位争いで殺された唐で軍人になり、同胞が奴隷として売られるのを見て帰国した。清海鎮を置いて海賊を討ち、海の交易を握る。王位継承に関わって暗殺された。
- 崔致遠人物AD857年 – ?討黄巣檄12歳で唐へ。18歳で科挙に合格。黄巣の乱で高駢の書記になり、「討黄巣檄」を書いた。「天下の人、皆汝を殺さんと思う」。29歳で帰り、真聖女王に「時務十条」を献じ、嘉納されたが行われず、伽耶山に消えた。『桂苑筆耕集』。朝鮮の漢文学の祖。
- 甄萱人物AD867年 – AD936年息子に幽閉された尚州の農民の子。赤子のとき虎が乳を飲ませたと伝える。新羅の西南の海の守備兵から後百済の王に。927年に慶州に入って景哀王を自殺させた。四男を継がせようとして長男に金山寺に幽閉され、逃げて王建に降った。自分の国を滅ぼす軍にいた。
- 王建人物AD877年 – AD943年29人の妻開城の海商の子。弓裔の水軍の将で羅州を取った。918年、部下に押されて弓裔を追った。新羅の敬順王を「政承公」にして娘を娶り、後百済を破り、渤海の太子を迎えた。29人の妻。「北進」と「仏教」の遺訓。太祖。
- 後三国の分立できごとAD892年自分を弥勒と呼んだ新羅の将軍甄萱が武珍州(光州)で自立して900年に全州で後百済を、僧弓裔が901年に後高句麗を名乗った。新羅は慶州の周りだけに。弓裔は自分を弥勒と呼んで妻子を殺し、部下の王建に追われた。甄萱は息子に幽閉されて王建に降り、自分の国を攻める側に立った。光州
- 高麗国AD918年 – AD1392年新羅のあと半島を統一し、474年続いた。モンゴルに30年抗って服属し、大蔵経を彫った。国名 Korea の語源になる。
- 弓裔人物? – AD918年片目の弥勒新羅の王子で、生まれた日が悪いと捨てられ、乳母が受け止めて片目を潰した。僧になり、盗賊に入り、後高句麗を建て、国号を摩震、泰封と変え、自分を弥勒と呼んだ。他人の心を読めると言って妻と二人の子を殺した。王建に追われて麦を食べて殺された。
- 高麗の建国できごとAD918年Koreaの名弓裔を追った将軍が開城で高麗を建て、935年に新羅の降伏を受け、936年に後百済を破った。高句麗の後継を名乗り、29人の妻で豪族をつなぎ、渤海の遺民を受け入れ、『訓要十条』を残した。「Korea」の名はこの国から。開城
- 渤海の滅亡できごとAD926年遺民は高麗へ契丹が攻め、都は一か月で落ちた。228年の国が消える。遺民は高麗へ逃げ、王子が高麗の王族として迎えられた。上京竜泉府
- 姜邯賛人物AD948年 – AD1031年71歳の文官の将軍文科に首席で及第した文官。第二次契丹侵入で「開城を捨てて羅州へ」と王に勧め、第三次で71歳で上元帥。興化鎮で川を牛皮で堰いて切り、亀州で追った。星が落ちて生まれたと伝え、ソウルの落星垈がその場所。
- 高麗の科挙できごとAD958年家柄でなく試験で光宗が後周から来た双冀の勧めで科挙を始めた。それまでの豪族の家柄でなく、試験で。同時に奴婢按検法で豪族の私奴を減らした。豪族を殺し、王の力を作った。朝鮮の科挙は1894年まで続いた。開城
- 亀州の戦いできごとAD1019年風向きが変わった契丹の第三次侵入。10万が開城の手前まで来て帰る途中、姜邯賛が亀州で待っていた。風向きが変わり、契丹は数千人しか帰れなかった。71歳の文官の将軍。高麗は契丹と和し、千里長城を築き、100年の平和を得た。亀州(亀城)
- 畢昇の活字できごとAD1045年頃朝鮮の金属活字へ膠泥(粘土)を薄く切って字を彫り、火で焼いて硬くした。鉄の板に松脂と蝋と紙の灰を敷き、その上に活字を並べ、温めて押し付けて平らにする。刷り終えたら温めて外す。沈括が『夢渓筆談』に書いた。漢字は数万種あって、一つの本に同じ字が何度も出るので、木版のほうが安かった。それでも、活字の原理は、朝鮮(金属活字、13世紀)へ渡った。グーテンベルクの400年前。開封
- 崔忠献人物AD1149年 – AD1219年封事十条武臣政変の時は若い武官。1196年、弟と共に李義旼を殺した。明宗を廃し、神宗、熙宗、康宗、高宗を立てた。「封事十条」で改革を言い、しなかった。教定都監。私兵。息子崔瑀、孫、曾孫。62年。1258年、曾孫が殺されて終わった。
- 高麗青磁できごとAD1150年頃翡色中国の越州窯を学んで始まり、12世紀に独自の色に達した。「翡色」。宋の徐兢が『高麗図経』に「高麗人は青磁の色を翡色と言う。近年、作りが巧みで、色も美しくなった」と書いた。象嵌の技法——素地に文様を彫り、白土と赤土を埋めて焼く——は高麗の発明で、雲と鶴が器の上を飛ぶ。モンゴルの侵攻と、その後の窯の衰退で、技法は一度、失われた。開城
- 高麗の武臣政変できごとAD1170年半島の武家政権文官に蔑まれてきた武官が、王の行幸の途中で蜂起し、文官を殺し、王を廃した。以後100年、武臣が政権を握り、崔氏が4代60年続く。日本の武家政権と同じ頃に、同じ形が半島で起きた。開城
- 崔氏政権の始まりできごとAD1196年4代62年武臣政変から26年、武人の間の殺し合いの末に、崔忠献が李義旼を殺して権力を握った。王を二人退け、四人を王位に就けた。都房、政房、三別抄。4代62年。モンゴルが来ると江華島に逃げて28年抵抗した。武臣政権は100年続いた。開城
- 高麗版大蔵経できごと1236年侵攻のさなかに16年かけて彫ったモンゴルの侵攻のさなか、8万枚を超える版木を16年かけて彫った。いまも完存している。開城

- 李成桂人物AD1335年10月27日 – AD1408年6月18日太祖咸鏡道の武人。紅巾と倭寇を破って名を上げた。威化島で軍を返し、崔瑩を殺し、恭譲王を退け、王になった。太祖。鄭道伝と国を作り、漢陽に都した。末子を世子にして息子たちが殺し合い、五男の李芳遠に押されて退位した。
- 明国AD1368年 – AD1644年元を北へ追い、漢人の王朝が戻った。鄭和の艦隊を七度出したあと海を閉じ、長城を築き直して内に向かう。
- 『直指』の印刷できごとAD1377年グーテンベルクの78年前清州の興徳寺で、白雲和尚の編んだ禅の語録を、金属活字で刷った。現存する世界最古の金属活字本。グーテンベルクの78年前。下巻1冊がフランス国立図書館にある(フランスの駐朝公使コラン・ド・プランシーが集めて持ち帰り、1950年に寄贈された)。朝鮮では1234年に金属活字で刷った記録があり(現物は残らない)、1403年からは国家が鋳字所を置いた。清州
- 威化島回軍できごとAD1388年5月小が大に逆らうな明が鉄嶺以北を求め、高麗は遼東を攻めることにした。将軍李成桂は鴨緑江の中州で雨に降られて「小が大に逆らうな」と四つの理由を挙げ、軍を返して開城を取った。4年後に高麗を終わらせた。朝鮮王朝はこの日から始まる。威化島
- 朝鮮王朝の成立できごとAD1392年仏教から儒教へ国の柱を移した。この王朝が500年続く。漢陽
- 朝鮮王朝国AD1392年 – AD1910年(韓国併合)518年続いた。訓民正音(ハングル)を作り、文禄・慶長の役と二度の胡乱を凌ぎ、最後は日本に併合される。
- 世宗人物AD1397年5月15日 – AD1450年4月8日民が読み書きできるようにと訓民正音(ハングル)を作らせた。支配層の反対を押し切った。
- 訓民正音の頒布できごとAD1446年10月9日愚民、言わんと欲する所あれども世宗が28字の文字を作って公布した。序文。「国の語音、中国と異なり、文字と互いに通ぜず。ゆえに愚民、言わんと欲する所あれども、ついにその情を伸べ得ざる者多し。予、これを憐れみて、新たに二十八字を制る。人々をして易く習い、日々の用に便ならしめんと欲するのみ」。子音は発音するときの口と舌の形をかたどり、母音は天と地と人。両班は「漢字を捨てるのか」と反対した。漢城(ソウル)
- 李舜臣人物AD1545年4月28日 – AD1598年12月16日亀甲船を用いて日本の水軍を破り、補給線を断った。最後の海戦で流れ弾に倒れる。
- 文禄・慶長の役できごと1592年朝鮮へ二度出兵し、明も加わる国際戦争になった。秀吉の死で撤退し、三国とも疲弊する。ソウル

- 亀甲船と閑山島できごとAD1592年8月14日(宣祖25年7月8日)鶴翼の陣李舜臣が、屋根を板で覆って鉄の錐を植えた亀甲船を先頭に、閑山島の沖で日本の水軍を鶴翼の陣で囲んだ。73隻のうち59隻を沈めた。日本軍は、西の海から漢城と平壌へ物資を送る道を失い、陸の進軍が止まった。彼は讒言で官を奪われ、白衣従軍させられ、後任が全滅した後に呼び戻されて、残った12隻で鳴梁を戦った。閑山島
- オンドルが床全体に広がるできごとAD17世紀温かい床に、直に座り、直に寝る朝鮮半島では、かまどの煙を床下に通して床石を温める暖房が古くから使われていた。はじめは部屋の一部だけを温めるものだったが、朝鮮時代の十七世紀、寒さが厳しかった時期に、床全体を温める造りが身分を問わず広がったとされる。人は温かい床に直に座り、直に寝る。椅子とベッドの暮らしにならなかった理由の一つである。一方で、燃料の薪を求めて山の木が切られ、禿山が増えた。いまの韓国の集合住宅にも、温水の床暖房として受け継がれている。漢陽
- 丙子胡乱できごとAD1636年夷狄と呼んだ相手に屈した屈辱明を宗主と仰いできた朝鮮は、北で力を伸ばした満洲人の清に臣従を求められ、拒んだ。1636年の冬、清の皇帝ホンタイジ自ら大軍を率いて攻め込む。朝鮮の王・仁祖は南漢山城に逃れて四十日余り籠城したが、寒さと飢えに耐えられず、翌年の正月、城を出て清の皇帝の前で三度ひざまずき九度頭を地につける礼をして降った。王子たちは人質として清へ連れて行かれる。夷狄とさげすんできた相手に屈したことは、朝鮮の支配層に深い屈辱として残った。漢陽
- 清国AD1644年(北京入城) – AD1912年(宣統帝の退位)満洲から入って中国を治め、モンゴル・新疆・チベットを加えた。いまの中国の版図の形はここで決まる。
- 閔妃(明成皇后)人物AD1851年11月17日 – AD1895年10月8日明成皇后驪興閔氏。16歳で高宗の妃に。大院君と争い、閔氏を要職に置き、壬午軍乱で逃げ、清と組み、日清戦争のあとロシアと組んだ。王宮で日本人に殺されて焼かれた。1897年、大韓帝国が明成皇后と追号した。
- 全琫準人物AD1855年 – AD1895年4月24日緑豆将軍小柄で「緑豆将軍」。東学の接主。古阜で立ち、白山で檄を出し、全州を取った。政府と和して執綱所を置き、日本軍が王宮に入ると再び立ち、公州の牛金峙で負けた。捕えられて漢城で絞首。「私は農民のためにした」。
- 征韓論政変できごとAD1873年明治の政府の中心の人びとが岩倉使節団として欧米を回っているあいだ、留守を預かった西郷隆盛らは、国交を拒む朝鮮に使節を送り、場合によっては武力に訴えることを決めた。1873年、帰国した大久保利通や岩倉具視は、国内を固めるのが先だとしてこれを覆す。敗れた西郷、板垣退助、江藤新平らは、そろって政府を去った。彼らの一部は武力の反乱へ、一部は議会を求める言論の運動へ向かう。明治の政府が二つに割れた転機である。東京
- 江華島条約できごとAD1876年2月27日ペリーの手口を22年後に前年、日本の軍艦雲揚号が江華島の砲台を挑発して砲撃を受け、これを口実に開国を迫った。ペリーの手口を、22年後に、日本が使った。朝鮮を「自主の国」と規定し(清の宗主権を否定するため)、釜山・元山・仁川を開き、日本に領事裁判権と、関税自主権の放棄を認めさせた。不平等条約を結ばされた国が、次に、不平等条約を結ばせた。江華島
- 東学農民戦争できごとAD1894年人が即ち天崔済愚が創めた東学(「西学=キリスト教」に対する)は、「人が即ち天」と説いて農民に広がった。1894年、全羅道の郡守の収奪に、全琫準が立った。全州を占領し、政府と和約して、村ごとに執綱所を置いて自治を行った。政府が清に援兵を求め、日本も出兵して、日清戦争になった。再蜂起した農民軍は、日本軍の連発銃の前に、公州の牛禁峙で数万が死んだ。全州

- 甲午改革できごとAD1894年近代の改革が、外国の干渉と一体だった東学農民戦争と日清戦争のさなか、朝鮮では日本の強い圧力のもとで、大規模な改革が進められた。1894年から翌年にかけ、両班と平民の身分の区別と奴婢の身分を廃止し、科挙をやめ、幼い子の結婚を禁じ、寡婦の再婚を認める。役所の仕組みも改めた。だが髷を切らせる命令は激しい反発を呼び、1895年には王妃が日本の公使らの手で殺される。近代への改革が、外国の干渉と一体だったことが、その評価を難しくしている。漢陽
- 乙未事変できごとAD1895年10月8日王妃を殺して焼いた日清戦争のあとロシアに近づいた王妃を、日本公使三浦梧楼が浪人と守備隊で王宮に押し入って殺し、遺体を焼いた。三浦らは広島で裁かれて無罪。高宗はロシア公使館に逃げた。朝鮮で日本への憎しみの起点になった事件。漢城(ソウル)

- 韓国併合できごとAD1910年8月29日大韓帝国が日本に併合され、35年続いた。言語や姓名の政策を含め、いまも両国の関係の根に残る。漢陽
- 朴正熙人物AD1917年11月14日 – AD1979年10月26日18年慶尚北道の貧農の子。教師、満州軍官学校、日本陸士。1961年の5・16で軍を握り、18年。経済開発、日韓条約、ベトナム派兵、セマウル運動、維新憲法。KCIA部長に宴席で撃たれた。娘の朴槿恵も大統領になり、弾劾された。
- 三・一独立運動できごとAD1919年3月1日各地で独立を求める非暴力の運動が起き、厳しく弾圧された。同じ年、インドでもガンディーが動きはじめる。漢陽

- 関東大震災と朝鮮人虐殺できごとAD1923年1923年9月の大地震で東京と横浜が火の海になるなか、朝鮮人が井戸に毒を入れた、放火している、という流言が広がった。警察や軍の一部もそれを伝えた。住民が作った自警団が、町の角で通る人を呼び止め、発音の違いで見分けて、朝鮮人を次々に殺した。殺されたのは数千人ともいわれ、中国人や、朝鮮人と間違えられた日本人もいた。混乱の中で、社会主義者や無政府主義者も軍や警察の手で殺されている。災害の中の恐怖が、差別を殺人に変えた。東京
- 金大中人物AD1924年1月6日 – AD2009年8月18日四度目で大統領全羅道の島の生まれ。1971年に朴正熙と争って45%。1973年に東京のホテルからKCIAに拉致された。1980年に死刑判決。1997年、四度目で大統領。通貨危機を乗り越え、2000年に平壌で金正日と会い、ノーベル平和賞。
- 全斗煥人物AD1931年1月18日 – AD2021年11月23日光州に謝らなかった陸士11期。朴正熙の暗殺のあと粛軍クーデターで軍を握り、光州を鎮圧し、大統領に。7年。ソウル五輪を招致した。退任後、寺に籠り、1996年に反乱と収賄で死刑判決、特赦。追徴金を払わずに90歳で死んだ。光州には謝らなかった。
- ベルリン・オリンピックできごとAD1936年8月1日ナチスのドイツは、1936年8月に開いたオリンピックを、国の力と秩序を世界に見せる舞台にした。ギリシャから聖火を走ってつなぐリレーは、この大会で始まる。記録映画も作られた。だが陸上ではアメリカの黒人の選手ジェシー・オーエンスが四つの金メダルを取る。マラソンでは、日本の選手として出場した朝鮮の孫基禎が優勝し、朝鮮の新聞が表彰の写真から胸の日の丸を消して載せ、発行を止められた。祭典の裏に、それぞれの国の抑圧が映っていた。ベルリン
- 朝鮮語学会事件できごと1942年10月言葉を守った人々ハングルの綴り方は長く定まっていなかった。言語学者の周時経の弟子たちは朝鮮語学会を作り、1933年、ハングルの正書法の統一案をまとめ、朝鮮語の大辞典の編纂を進めた。日本の統治のもとで、朝鮮語の教育は1938年に正規の科目から外され、1940年には名前を日本式に変えさせる創氏改名が行われた。1942年10月、警察は、朝鮮語学会を独立運動の団体だとして、会員を次々に治安維持法違反で捕らえた。取り調べは過酷で、2人が獄中で死んだ。押収された辞典の原稿は、1945年の解放の後、ソウル駅の倉庫で見つかり、のちに辞典として完成した。ソウル
- 朝鮮戦争できごと1950年休戦のまま、いまも終わっていない冷戦が実際の戦争になった最初の場。休戦のまま、いまも終わっていない。楽浪郡(位置は特定されていない)

- 朝鮮戦争の休戦できごとAD1953年7月27日朝鮮戦争は、開戦から一年ほどで、もとの境界のあたりで戦線が動かなくなった。休戦の話し合いは二年続き、捕虜を本人の意思に反して帰すかどうかで長くもつれる。そのあいだも、丘一つをめぐる戦いで多くの兵が死んだ。1953年7月27日、板門店で休戦の協定が署名される。韓国の大統領は署名しなかった。平和の条約は結ばれず、戦争は法の上では終わっていない。南北を分ける非武装地帯は、七十年以上たったいまも続いている。板門店
- 日韓基本条約できごとAD1965年6月22日完全かつ最終的に、と書かれた戦後二十年、日本と韓国は十年以上の交渉を重ねていた。1965年6月22日、国交を開く条約が結ばれる。日本は、無償の三億ドルと有償の二億ドルを、経済協力として韓国に出した。請求権の問題は、完全かつ最終的に解決された、と協定に書かれる。韓国では屈辱の外交だとして激しい反対運動が起き、日本でも反対があった。その資金は韓国の高度成長の元手の一つになったが、戦時の動員をめぐる個人の請求は、のちに大きな争いになった。東京
- 禿げ山を緑に戻すできごとAD1973年植える政策と、燃料を替える政策は組でなければ効かない植民地期の伐採と、戦争と、燃料にするための伐り出しで、韓国の山は裸になっていた。雨のたびに崩れ、薪も無い。1973年、政府は十年計画で山を緑に戻すことを国の事業とした。村ごとに植える面積を割り当て、学生も動員し、同時に家庭の燃料を薪から練炭へ切り替えた。切り替えなければ、植えたそばから伐られるからである。計画は前倒しで終わり、数十億本が植えられた。強い上からの動員で成し遂げられた事業であり、いまは森の質をどう上げるかが課題になっている。漢城(ソウル)
- 光州民主化運動できごとAD1980年5月18日10日間街を持った朴正熙の暗殺後に軍を握った全斗煥が戒厳令を広げ、光州の学生デモに空挺部隊を送った。市民が武器を取り、10日間街を持った。5月27日、戦車。公式の死者は165人、行方不明が多い。1996年に全斗煥は死刑判決を受け(翌年、無期懲役で確定)、1997年に特赦された。光州
- 「離散家族を探します」できごとAD1983年6月30日一晩の番組が、百三十八日の再会の場になった朝鮮戦争の休戦から三十年、韓国の放送局KBSは、戦争で生き別れた家族を探す番組を一晩だけ生放送するつもりだった。申し込みの電話が鳴りやまず、局の前の広場には、探している人の名前と特徴を書いた紙を持つ人々が集まり、壁も地面も紙で埋まった。放送は延長を重ね、11月14日まで百三十八日、四百五十三時間に及んだ。画面に映った人と、テレビの前の人が、互いの顔や幼いころの話で確かめ合い、一万百八十九の家族が再会した。北に残された家族は、この番組では探せなかった。汝矣島(ヨイド)
- 六月民主抗争できごとAD1987年6月29日それ以来大統領は国民が選ぶソウル大生朴鍾哲が拷問で死に、延世大生李韓烈が催涙弾で死んだ。6月、全国で数百万。ソウル五輪の前年。与党の盧泰愚が大統領直選を受け入れた。「6・29宣言」。憲法が変わり、それ以来大統領は国民が選ぶ。漢城(ソウル)
- 慰安婦の証言できごとAD1991年8月14日戦争中、日本軍は各地に慰安所を設け、朝鮮半島をはじめアジアの各地から集められた女性たちが、兵士の相手をさせられた。戦後、長いあいだ、その経験は語られなかった。1991年8月14日、韓国の金学順が、元慰安婦として初めて名乗り出て証言する。各地で名乗り出る人が続いた。1993年、日本の政府は、軍の関与と強制性を認めて謝罪する談話を出す。一方で、連行の強制をめぐる議論は続き、日韓のあいだの大きな争点になっている。ソウル
- 道の名の住所できごとAD2014年1月1日住所を変えることは、植民地の名残を外すことでもあった韓国の住所は、日本の統治下の1910年代、土地調査事業で土地に振られた番号にもとづいていた。税と登記のための番号で、家を探すには向かない。町が大きくなり、道が引き直されると、地番はますます並びがばらばらになった。韓国は道に名前を付け、道の起点から建物に番号を振る仕組みに切り替えることにした。法律は2006年に作られ、切り替えを延ばした末、2014年1月1日から道の名の住所だけを使うことになった。人々は長年使ってきた住所を手放すのを嫌がった。住所を変えることは、植民地の名残を外すことでもあった。漢城(ソウル)
- セウォル号の沈没できごとAD2014年4月16日2014年4月16日、仁川から済州島へ向かう旅客船セウォル号が、韓国南西の海で傾き、沈んだ。修学旅行の高校生を中心に、三百人を超える人が死ぬ。船内では、その場を動くなという放送が繰り返され、船長と乗組員の多くは先に逃げた。船は積める荷の量を大きく超えて貨物を積み、改造で重心が上がっていた。救助の遅れと、責任をあいまいにする政府の対応に、国民の怒りが向かった。安全より利益を優先する社会が問われた。珍島沖(位置は特定されていない)
- ろうそく集会と大統領罷免できごとAD2017年3月10日ろうそくの広場が大統領を退かせた2016年秋、韓国の大統領朴槿恵が、公職に無い長年の知人に国の政策や人事に口を出させ、財閥から金を集めさせていたことが明らかになった。毎週末、ソウルの光化門の広場に、ろうそくを手にした人びとが集まり、その数は延べで一千万を超えたとされる。国会は大統領の弾劾を可決し、2017年3月10日、憲法裁判所は全員一致で罷免を決めた。暴力も衝突もほとんど無いまま、市民の集まりが現職の大統領を退かせた。ソウル
- 韓国の非常戒厳できごとAD2024年12月3日民主の仕組みが一夜の試練を越えた2024年12月3日の夜、韓国の大統領尹錫悦は、突然テレビで非常戒厳を宣布した。軍の部隊が国会に向かい、政治活動を禁じる布告が出される。だが議員たちは塀を乗り越えて議場に集まり、市民が兵士の前に立ちはだかった。宣布から二時間半ほどで、国会は戒厳の解除を求める決議を可決し、大統領は数時間のうちに戒厳を解いた。大統領は弾劾され、のちに罷免される。四十年近く前に独裁から抜け出した民主の仕組みが、一夜の試練を乗り越えた。ソウル
- 乙支文徳人物七度負けて誘い込んだ隋の陣に偽って降り、敵の飢えを見て戻り、七度負けて誘い込み、清川江で30万を潰した。隋の将軍に送った五言詩が残る。「戦勝の功すでに高し、足るを知って止まるを願う」。生まれも死にも記録がない。
- 衛満人物髷を結って朝鮮の服燕の人。漢の高祖のとき燕王盧綰が匈奴に逃げ、衛満は千人余りで東へ。髷を結って朝鮮の服を着、準王に西の守りを任され、漢が攻めてくると偽って都に入り、王になった。中国の亡命者が朝鮮の王になったことを、朝鮮の史書は長く嫌った。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
日本の古代11件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史8件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。インドと仏教5件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。冷戦5件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。中国の王朝5件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。主権はだれのものか5件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。技術と産業4件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。冷戦のあと4件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。言葉と文字の歴史4件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。草原の帝国3件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。交易路とお金3件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。差別の歴史3件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。明治2件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。二つの大戦2件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。武士の700年2件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。女性の権利2件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。帝国と独立2件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。表現の歴史2件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史2件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。メディアの歴史2件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。都市の歴史1件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。民族移動の時代1件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史1件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『大分岐』で読む歴史1件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史1件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『リオリエント』で読む世界経済1件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。海の歴史1件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。