シラー『群盗』初演
概要
22歳の軍医が、公爵の軍医学校で夜に書いた劇。兄弟の憎しみ、盗賊団の首領になった長男、自由と反逆。マンハイムの劇場で、客が叫び、失神し、抱き合った。「疾風怒濤」。公爵は「これ以上書くな」と言い、シラーは逃げた。フランス革命はシラーに名誉市民権を贈った。『ドン・カルロス』『ヴァレンシュタイン』『ヴィルヘルム・テル』『歓喜に寄す』。
場所
49.49°N 8.47°E · ドイツ
関わった人(1)
フリードリヒ・シラーAD1759年11月10日–AD1805年5月9日 · 書いた本文
ドイツ南西部のヴュルテンベルク公国を治めたカール・オイゲン公は、1770年に軍の孤児院を改め、士官や役人を育てる学校を作った。のちに「カール学院」と呼ばれる学校である。生徒は公爵の「息子たち」と呼ばれたが、実家に帰ることはほとんど許されず、手紙は検閲され、日課は細かく決められ、公爵自身がしばしば試験や授業に顔を出した。
フリードリヒ・シラーは1773年、13歳でこの学校に入れられた。初めは法学を、のちに医学を学んだ。卒業論文は何度も書き直しを命じられ、1780年にようやく卒業すると、シュトゥットガルトの連隊付きの軍医になった。月給は18グルデンで、暮らしは苦しかった。

学校にいるあいだ、シラーは禁じられた本をひそかに読んでいた。ウィリアム・シェイクスピア、ジャン=ジャック・ルソー、そして若いヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』。医学の勉強のかたわら、1770年代の終わりから一つの劇を書き進めた。それが『群盗』である。仲間を森へ連れ出して朗読したという話も伝わる。1781年、出版を引き受ける書店が見つからず、シラーは借金をして匿名で自費出版した。翌年の版の扉には、後ろ足で立つ獅子と「暴君に抗して」というラテン語が刷りこまれた。
この本を読んだマンハイムの国民劇場の支配人ダルベルクが上演を決めた。ただし条件をつけた。同時代の話のままでは危ないので、時代を15世紀の終わりに移し、刺激の強い場面をいくつか削らせた。

1782年1月13日、日曜日の夕方、マンハイムで初演の幕が上がった。作者のシラーは、公爵の許しを得ずに国境を越え、客席でこれを見ていた。
物語は、ある伯爵家の二人の息子をめぐって進む。弟フランツは醜く冷たく、自分が次男に生まれ、この顔を与えられたことを恨んでいる。兄カールは美しく情熱的で、大学の町で奔放に暮らしている。フランツは手紙を偽って父をだまし、カールを勘当させる。絶望したカールは仲間と盗賊団を作ってボヘミアの森へ入る。法は鷲の飛翔になるはずのものを、かたつむりの歩みにしてしまった、と彼は叫ぶ。だが盗賊団は罪のない人々を殺し、カールは自分が正義の側にいないことを思い知る。フランツは父を古い塔に閉じこめ、兄の許嫁アマーリアを奪おうとするが、良心の悪夢にさいなまれて自ら命を絶つ。カールは父を見つけるが、父は真相を知って息絶え、アマーリアはカールの手で殺されることを望む。最後にカールは、自分の首にかかった賞金を、11人の子を抱える貧しい日雇いの男に取らせるため、自分から捕まりに行く。

初演の客席の様子は、同時代の証言として伝わっている。劇場はまるで精神病院のようで、人々は目をむき、拳を握り、足を踏み鳴らし、かすれた叫びを上げた。見知らぬ者どうしが泣きながら抱きあい、気を失った女性が戸口へ運び出された、という。フランツを演じたのは、のちに俳優として名を上げるイフラントだった。
だが、作者の身には災いとなった。5月、シラーが再び無断でマンハイムへ出かけたことを知ったカール・オイゲンは、彼を14日間の営倉に入れ、医学以外のものを書くことを禁じた。劇の中の、スイスのグラウビュンデンを盗賊の巣のように言う一言に抗議が来たことが、口実の一つになった。

1782年9月22日の夜、シラーは友人の音楽家シュトライヒャーとともにシュトゥットガルトを逃げ出した。ちょうどロシアの大公の訪問を祝う催しで、町が祭りに沸いていた夜である。その後は偽名で隠れ住み、マンハイムの劇場の座付き作家を1年ほど務め、ライプツィヒやドレスデンの友人のもとへ移っていった。二度と公爵の国の軍医には戻らなかった。
『群盗』はドイツ各地で上演され、若者たちを熱狂させた。権威に逆らい、感情を爆発させるこの劇は、文学史で「疾風怒濤」と呼ばれる運動の頂点の一つに数えられる。1792年8月、フランス革命の議会はシラーにフランスの名誉市民の称号を贈った。名前の綴りは間違っていて、証書が本人の手に届いたのは何年も後だった。1847年にはジュゼッペ・ヴェルディがこの劇をもとにオペラを書き、ロンドンで初演した。

逃亡した若い軍医は、やがて歴史劇『ドン・カルロス』『ヴァレンシュタイン』『ヴィルヘルム・テル』を書き、ゲーテと並ぶドイツ文学の柱になった。彼の詩『歓喜に寄す』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番の終楽章で歌われている。そのすべての出発点が、軍の学校の夜に書かれ、マンハイムの客席を揺らしたこの一晩だった。