ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂
概要
高利貸しの息子が父の罪を償うために建てた礼拝堂に、ジョットがキリストとマリアの生涯を描いた。平面の聖像が、重さと影と表情を持った。「ユダの接吻」の二人の目。絵画がここから変わったと、ヴァザーリは書いた。
場所
45.41°N 11.88°E · イタリア・ヴェネト州
関わった人(1)
ジョットAD1267年頃–AD1337年1月8日 · 画家本文
北イタリアの大学町パドヴァに、古代ローマの円形闘技場の跡がある。1300年、その土地を、エンリコ・スクロヴェーニという裕福な男が買い取った。エンリコの父レジナルドは、金を貸して利子を取ることで財をなした人物だった。当時の教会は利子を取ることを罪としており、ダンテ・アリギエーリは『神曲』(『神曲』)の地獄篇で、高利貸したちが燃える砂の上に座る場面を描いている。その中に、青い身ごもった雌豚の紋章のついた財布を首から下げた男が出てくる。スクロヴェーニ家の紋章である。
エンリコは、闘技場の跡地に建てた屋敷の隣に、聖母マリアに捧げる礼拝堂を建てた。父の罪を償い、自分と家族の魂の救いを願うためだったと考えられている。礼拝堂は1303年に建て始められ、1305年3月25日、受胎告知の祝日に献堂された。完成が近づくと、近くのエレミターニ修道院の修道士たちが、礼拝堂が私的な祈りの場にしては大きすぎ、鐘まで備えようとしていると苦情を申し立てた記録が残っている。

礼拝堂の壁一面に絵を描いたのが、フィレンツェの画家ジョットである。礼拝堂は装飾の少ない長方形の簡素な建物で、ジョットは内部の壁を三段の帯に分け、縦横に区切った四角い画面を並べた。一番上の段には、マリアの両親ヨアキムとアンナの物語とマリアの生涯を、その下の二段にはキリストの生涯と受難を描いた。全部で40近い場面が、左右の壁をめぐりながら、物語の順に続いていく。最も下の段には、灰色の濃淡だけで彫刻のように描いた七つの徳と七つの悪徳の擬人像が向かい合う。入口の側の壁には、大きな最後の審判がある。その中で、エンリコ自身が礼拝堂の模型を聖母に差し出している。天井は一面の深い青に塗られ、金の星がちりばめられている。
それまでのイタリアの絵画は、ビザンツの聖像画の伝統に従っていた。人物は金色の背景の前に平たく立ち、決まった姿勢で正面を向いていた。ジョットの人物には、衣の下に体の重さと厚みがあり、地面にしっかりと立っている。背景には岩山や建物が描かれ、人物はその空間の中で互いに向き合い、身振りと表情で感情を伝える。

「ユダの接吻」の場面では、裏切り者のユダが黄色い外套でイエスを包み込むように抱き寄せ、二人の横顔が間近で向き合う。まわりでは兵士たちの松明と棍棒が空を埋め、ペテロが剣で兵士の耳を切り落としている。「キリストの哀悼」では、十字架から降ろされたイエスの体をマリアが抱きかかえて顔を寄せ、天使たちは空で身をよじって泣いている。画面の手前には、こちらに背を向けて座る二人の人物が描かれている。顔の見えない人物を絵の最も手前に置くことで、見る者はその背後から、悲しみの輪に加わることになる。
同時代の人々は、ジョットの絵に驚いた。ボッカッチョは『デカメロン』の中で、ジョットが描いたもので本物と見まちがえないものはなかったと書いた。14世紀の終わりの画家チェンニーノ・チェンニーニは、ジョットは絵画をギリシア風からラテン風に変え、現代のものにしたと記している。16世紀にヴァザーリは『芸術家列伝』で、ジョットを長く失われていた自然な描き方をよみがえらせた画家として描いた。のちのイタリア・ルネサンスの盛期につながる絵画の転換点として、この礼拝堂は位置づけられている。

「東方三博士の礼拝」の場面では、幼子イエスの上に、尾を引く星が描かれている。1301年に現れたハレー彗星を、ジョットが見て描いたのではないかと考えられている。1986年にハレー彗星に近づいたヨーロッパの探査機は、このことにちなんで「ジョット」と名づけられた。
礼拝堂の壁画は、湿気や外気、見学者の吐く息によって傷みが進んできた。いまは見学者が前室で空気を整えてから、人数と時間を区切って入る仕組みになっている。2021年、スクロヴェーニ礼拝堂は、パドヴァに残る14世紀のほかのフレスコ画群とともに世界遺産に登録された。