出雲阿国
概要
出雲大社の鍛冶の娘で、社殿の修理の勧進で踊りに出た、と伝える。確かなことは、1603年に京で「かぶき踊り」をしたと日記にあること。男装。茶屋遊びの寸劇。名古屋山三郎の亡霊が出る演目。江戸城でも踊った。いつ死んだか分からない。出雲に帰って尼になった、とも。歌舞伎の始めの人は、女だった。
関わったできごと(1)
出雲阿国のかぶき踊りAD1603年(慶長8年) · 踊った本文
出雲阿国について、同じ時代の確かな記録に残っていることは、驚くほど少ない。生まれた年も、死んだ年も、本名も分からない。分かっているのは、16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて、出雲から来たという「国」という名の女が京で踊り、新しい芸能を始めて大評判になったということである。その芸能が、のちの歌舞伎になった。

いちばん古い手がかりは、1582年の奈良の寺の記録『多聞院日記』である。春日社で「ややこ踊り」を踊った少女たちの記事があり、そのうち11歳の「クニ」が阿国だとすれば、1572年頃の生まれになる。ただ、この記事は加賀から来た子だとも読めて、阿国と同じ人かは確かでない。ややこ踊りは、幼い少女が小歌に合わせて踊る、当時はやった芸だった。
確かな記録として残るのは、1600年、公家の西洞院時慶の日記である。京の近衛家の屋敷で、出雲の「クニ」がややこ踊りを演じたと書かれている。この年の秋に関ヶ原の戦いが起きる(関ヶ原の戦い)。続いて1603年、徳川家康の周辺の出来事を記した『当代記』に、出雲の巫女で名を国という者が「かぶき踊り」というものを始め、京に上って大いに人気を集めた、とある。同じ記事は、国が男の姿をして刀を差し、茶屋の女と戯れる様子を演じたと伝えている。同じ年の5月には、宮中の女院の御所でも踊った記録がある。1603年は、家康が征夷大将軍になって江戸に幕府を開いた年である(江戸幕府の成立)。

「かぶく」とは、傾く、つまり常識から外れた身なりやふるまいをすることを言う。戦国の世の名残で、京の町には派手な着物を着て長い刀を差し、奇抜なふるまいで人目を引く「かぶき者」と呼ばれる若者たちがいた。阿国は自ら男装してこのかぶき者に扮し、茶屋に遊びに行って遊女と戯れるさまを、歌と踊りと寸劇で演じた。茶屋の女の役は、女装した男の役者が演じていたとされる。女が男を演じ、男が女を演じる、性の入れ替わった舞台だった。京の北野神社の境内や四条河原に舞台を設けて演じ、身分を問わずに見物人が押し寄せた。
阿国の舞台を描いたとされる絵がいくつか残っている。京都国立博物館の『阿国歌舞伎図屏風』には、刀を肩にかけ、首から十字架のような飾りを下げた男装の阿国が描かれている。キリスト教の宣教師が京にも出入りしていた時代で(ザビエルの来日)、十字架は信仰というより南蛮の流行を取り入れた装身具だったと考えられている。そばには猿若と呼ばれる道化の役者がいて、舞台の周りには町人も武士も女性も集まっている。

阿国の伝説の中で、最もよく知られているのが名古屋山三郎との関係である。山三郎は蒲生氏郷に仕えた美男のかぶき者で、1603年、仕えていた森家の内紛で斬り殺された。のちの物語では、山三郎は阿国の恋人あるいは夫で、阿国の踊りを指導し、死後は阿国が舞台に山三郎の亡霊を呼び出して、ともに踊る演目を作ったとされる。絵入りの物語『かぶき草紙』にも、念仏踊りを踊る阿国の前に山三郎の亡霊が現れる場面が描かれている。ただし、二人が実際に恋仲だったことを示す同じ時代の記録はなく、後世に作られた話だと考えられている。
出自についても、出雲大社に仕える鍛冶の中村三右衛門の娘で、大社の巫女として社殿の修理費を集める勧進のために諸国を回って踊った、という話が伝わる。『当代記』が出雲の巫女と書いているのは確かだが、それが本当の身の上だったのか、権威づけのための名乗りだったのかは分からない。
1607年、阿国は江戸城で、勧進能が催された際に踊ったと『当代記』は伝える。これが同じ時代の記録に阿国の名が見える最後とされる。その後の消息は分からない。晩年は出雲に帰って尼になったとする伝承があり、出雲大社の近くには阿国の墓と伝えられるものがある。京の大徳寺の塔頭にも墓があるという言い伝えがある。没年についても1613年とする説から1650年代とする説までさまざまで、阿国の名を継いだ2代目がいたのではないかという説まである。
阿国の成功を見て、遊女屋の女たちを集めた一座が次々と生まれ、女歌舞伎として全国に広まった。だが、舞台が遊女の客寄せになり、風紀を乱すとして、幕府は1629年に女性が舞台に立つことを禁じた。代わりに前髪の美少年が演じる若衆歌舞伎がはやったが、これも同じ理由で1652年に禁じられた。残ったのは、前髪を剃った成人の男性だけが演じる野郎歌舞伎だった。女性の役は男性が演じるほかなくなり、ここから女方(女形)の芸が磨かれていく。やがて歌舞伎は、近松門左衛門らの作品を得て、物語を演じる本格的な演劇に育っていった(『仮名手本忠臣蔵』の初演)。

歌舞伎は、女性が始めた芸能でありながら、400年近く男性だけが演じる芸能になった。京都の四条大橋の東のたもと、かつて阿国が舞台を構えたとされる四条河原の近くには、歌舞伎の誕生から400年を記念して2003年に建てられた阿国の像が立っている(出雲阿国のかぶき踊り)。