足利義政
概要
8代将軍。8歳で家督を継ぐと決まり、13歳で将軍になって、政治から早く離れた。後継をめぐる争いと、守護の対立が応仁の乱(1467〜77年)になった。乱の間も、彼は花見と作庭と唐物の収集を続けた。京が焼けた後、東山に山荘を建てて移り、そこで座敷飾りと茶と立花の作法を整えさせた。政治の失敗と、文化の達成が、同じ人の中にある。
関わったできごと(2)
応仁の乱1467年 · 将軍銀閣と東山文化AD1482年 · 建てた本文
足利義政は1436年1月20日、室町幕府の6代将軍足利義教の子として京都に生まれた。母は日野重子。父の義教は、くじ引きで将軍に選ばれ、反抗する者を容赦なく罰した強権の将軍だったが、1441年、播磨の守護赤松満祐の屋敷に招かれた宴の席で殺された(嘉吉の乱)。義政が5歳のときである。兄の義勝が幼くして7代将軍となったが、わずか10歳で急死し、弟の義政が跡を継ぐことになった。1449年、13歳で8代将軍に就いた。

幼い将軍のもとで、政治の実権は、管領を務める有力な守護大名たちや、母の重子、側近たちが握った。成長した義政は、自ら政治を動かそうとした時期もあったが、守護大名たちの家督争いに場当たり的に口を出しては、かえって争いをこじらせた。1455年には、日野家から富子を正室に迎えた。
1459年から61年にかけて、長雨と日照り、疫病が重なる寛正の大飢饉が起きた。京都には地方から飢えた人々が流れ込み、鴨川の河原は死者で埋まった。願阿弥という僧が粥を施して人々を救おうとした。その最中にも、義政は将軍の邸宅の造営を進めていた。後花園天皇は漢詩を贈り、民が飢えて苦しんでいるのに、都に咲き誇る花は誰のためのものか、と義政を諫めたという。
義政には長く男子が生まれず、1464年、出家していた弟の義視を還俗させて後継ぎに定めた。ところが翌年、富子が男子の義尚を産んだ。後継ぎをめぐる対立に、畠山家と斯波家の家督争い、そして幕府の実力者細川勝元と山名宗全の主導権争いが絡み合い、1467年、京都を舞台に応仁の乱が始まった。東西に分かれた大名たちの軍勢は、11年にわたって京都の町で戦い、寺社も屋敷も町家も焼け野原になった。乱の間も、義政は酒宴や花見を続けたと記録されている。将軍として乱を収める力を持たず、収めようとする意志にも欠けていた、と後世の多くの人は評した。

1473年、細川勝元と山名宗全が相次いで世を去ると、義政は将軍職を9歳の義尚に譲った。乱は1477年に勝敗のつかないまま終わり、大名たちはそれぞれの国へ帰っていった。将軍の権威は地に落ち、各地では実力のある者が上の者を倒す下剋上の時代、戦国の世が始まろうとしていた。
政治から身を引いた義政が、残りの情熱を注いだのが、京都の東山の山荘だった。1482年に造営を始め、翌年にはまだ工事の続く山荘に移り住んだ。費用は、乱で疲れた諸国の大名や民に負担させたもので、評判は悪かった。それでも、ここで生まれたものは、日本の文化に長く残った。義政は、同朋衆と呼ばれる芸能や目利きに通じた側近たち、能阿弥や相阿弥らを重く用い、中国から渡ってきた絵画や陶磁器などの名品、いわゆる唐物を集め、その鑑定と座敷への飾り方の作法を整えさせた。庭づくりでは、身分の低い河原者の出身ながら名人とうたわれた善阿弥とその一族が重く用いられた。

山荘の持仏堂である東求堂には、同仁斎と呼ばれる四畳半の書斎がある。床に畳を敷き詰め、付書院と違い棚を備えたこの小さな部屋は、のちの書院造の原型とされ、いまの日本の和室の床の間や違い棚のもとになったと言われる。こうした茶や生け花、香、連歌などを含む文化は、東山文化と呼ばれる(銀閣と東山文化)。祖父の義満が築いた北山の金閣(北山文化と金閣)のきらびやかさに比べ、簡素で落ち着いた美しさを特徴とし、のちの侘び茶(村田珠光と侘び茶)にもつながっていく。
1489年、近江の大名を討つため出陣していた義尚が、陣中で23歳の若さで亡くなった。義政は再び政治の表に引き戻されたが、翌1490年1月27日、54歳で世を去った。山荘の観音殿、のちに銀閣と呼ばれる建物は、その前年に骨組みが組み上がったばかりで、完成を見ることはなかった。山荘は義政の死後、遺言によって禅寺に改められ、慈照寺となった。

義政は長く、政治では無能な将軍、文化では第一級の目利きと、二つの評価を並べて語られてきた。近年では、乱の後の幕府の儀礼を整え直したことや、東山の造営が荒れた京都を立て直す営みの一つでもあったことに目を向ける研究もある。戦乱の世を前にして、静かな四畳半の美を育てた人だった。