概要
8代将軍。8歳で将軍職に就き、政治から早く離れた。後継をめぐる争いと、守護の対立が応仁の乱(1467〜77年)になった。乱の間も、彼は花見と作庭と唐物の収集を続けた。京が焼けた後、東山に山荘を建てて移り、そこで座敷飾りと茶と立花の作法を整えさせた。政治の失敗と、文化の達成が、同じ人の中にある。
関わったできごと(2)
応仁の乱1467年 · 将軍銀閣と東山文化AD1482年 · 建てた本文
1436年、京都。6代将軍足利義教の子。母は日野重子。1441年、父義教が赤松満祐に暗殺された(嘉吉の変。宴に招かれて、その席で殺された)。兄の義勝が7代将軍になり、10歳で急死した。
1449年、13歳で8代将軍。実際の政治は、管領(畠山、細川、斯波)と、母日野重子、乳母の今参局、そして妻の日野富子が動かした。
1459〜61年、寛正の大飢饉。長雨と台風と疫病。京都に流民が集まり、鴨川に死体が積まれた。願阿弥という僧が施粥をして、2か月で8万2000人分を配った。その最中、義政は花の御所の造営と、庭の石の運搬を続けていた。後花園天皇が漢詩で諫めた。「残民争って採る首陽の蕨、処々炉を閉ざして竹扉を鎖す。詩興吟staff(詩を吟じる気にもならない)……満城の紅緑、誰が家にか肥ゆる」。義政は造営を止めた。
後継。子がなく、弟の義視を還俗させて後継に決めた(1464年)。翌年、富子に男子(義尚)が生まれた。富子は義尚を立てたい。畠山と斯波の家督争い、細川勝元と山名宗全の対立が、それに絡んだ。
1467年、応仁の乱。京都で東軍(細川、16万)と西軍(山名、11万)が戦った。11年。京の市街が焼けた。義政は、乱の間、酒宴と花見と作庭を続けた、と記録される。ある夜、御所で酒宴を開いていたとき、戦場から帰った武士が「今日も多くが死んだ」と報じた。義政は「そうか」と言って、酒を続けた、という話が伝わる。
1473年、山名宗全と細川勝元が相次いで死んだ。同じ年、義政は将軍職を9歳の義尚に譲った。乱は1477年に終わったが、勝敗はつかなかった。守護は自分の国へ帰り、そこで下剋上が始まった。
1482年、東山の造営を始めた。46歳。財源は、酒屋・土倉役、諸国への段銭、そして守護への賦課。飢饉と戦乱の直後に、である。日野富子は、彼に金を貸して、利息を取った(彼女は米の投機と、京の七口の関所の関銭で、巨富を築いた)。
1483年、東山殿へ移った。政治から完全に離れた。
彼が集め、定めさせたもの。唐物(宋元の絵画、青磁、天目、香炉、花入)。その目録と鑑定基準(『君台観左右帳記』。能阿弥・相阿弥の編)。座敷の飾り方(床、違い棚、書院にどう置くか)。香の作法。立花。そして茶。
同仁斎(東求堂の四畳半)。付書院と違い棚。ここで、彼は茶を点て、香を聞いた。この部屋の形が、日本の座敷の原型になった。
1490年1月27日、死んだ。55歳。銀閣(観音殿)は、その前年に上棟して、完成前だった。
歴史の評価。「将軍として無能」「文化人として第一級」。この二つが、ずっと並べて言われてきた。近年、彼が乱の後の朝廷と幕府の儀礼を整え直したこと、東山の造営が京都の復興の一環でもあったこと、を評価する見方もある。
いずれにせよ、いまの日本の家の床の間と違い棚と障子は、彼が住んだ四畳半から来ている。