ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
概要
5歳から作曲し、35年で600曲を超えた。宮廷に仕えず自分で稼ぐ音楽家という生き方を試み、うまくいかなかった。
所属
神聖ローマ帝国関わったできごと(1)
モーツァルトの死とレクイエムAD1791年12月5日 · 当人本文
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月、アルプスの北の町ザルツブルクに生まれた。ザルツブルクは大司教が治める小さな国で、父レオポルトはその宮廷の楽団のヴァイオリン奏者だった。レオポルトはヴァイオリンの教本を書いて評判をとった教育熱心な音楽家で、7人生まれた子のうち育ったのは、姉のナンネルと末のヴォルフガングの二人だけだった。

姉の鍵盤の練習を聞いて、3歳ほどの弟は自分で和音を探し始めたという。5歳で小さな曲を作り、父がそれを書き留めた。父はこの才能を世に見せることを、自分の使命と考えた。1762年、6歳の息子と11歳の娘を連れてミュンヘンとウィーンを回り、ウィーンでは女帝マリア・テレジアの前で演奏した。翌年からは3年半をかけてドイツ、パリ、ロンドンを巡る大旅行に出た。鍵盤を布で覆って弾く、言われた音を当てる、初めて見た楽譜を弾くといった芸も披露し、天才少年は見世物としても喝采を浴びた。ロンドンでは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの末の息子ヨハン・クリスティアンに可愛がられ、その軽やかな作風から多くを学んだ。
10代の前半には父とイタリアを三度旅し、オペラを書いて上演した。ローマでは、システィーナ礼拝堂でしか歌われず楽譜を外に出すことが禁じられていた合唱曲を、一度聞いただけで宿で書き取ったと、父の手紙が伝えている。教皇からは勲章を授かった。

だが、成長した天才は、もう珍しくなかった。ザルツブルクに戻ったモーツァルトは、新しい大司教コロレドの宮廷楽師として仕えたが、田舎の宮廷の勤めに満足できなかった。21歳のとき、よい職を求めて母とともにマンハイムやパリへ旅立ったが、職は得られず、1778年、母はパリで病死した。
1781年、大司教に従ってウィーンに来ていたモーツァルトは、扱いをめぐって大司教と激しくぶつかり、辞職を願い出た。願いはなかなか受け取られず、最後には大司教の側近に文字どおり足で蹴り出された、と父への手紙に書いている。25歳だった。父の反対を押し切って、モーツァルトはウィーンにとどまった。宮廷や教会に雇われずに、自分の腕で稼ぐ音楽家として生きる道を選んだのである。翌年、下宿先の娘コンスタンツェ・ウェーバーと、これも父の反対を押し切って結婚した。

ウィーンでの最初の数年は、うまくいった。オペラ『後宮からの誘拐』が当たり、自分で演奏会を開いて、自作のピアノ協奏曲を自ら弾いた。貴族の予約を集めて開く演奏会には多くの客が入り、弟子を取り、楽譜を出版社に売った。収入は宮廷楽長の給料をはるかに上回る年もあった。先輩のヨーゼフ・ハイドンとは親しく交わり、彼に捧げた6曲の弦楽四重奏曲を聞いたハイドンは、レオポルトに、あなたの息子は私が直接に、あるいは名前で知っている中で最も偉大な作曲家だ、と語った。
1786年、台本作家ダ・ポンテと組んだオペラ『フィガロの結婚』がウィーンで初演された。召使いが主人の企みを出し抜く筋は、身分の秩序をからかうものでもあった。ウィーンでの評判はほどほどだったが、プラハでは熱狂的に迎えられ、翌年その町のために『ドン・ジョヴァンニ』を書いた。1787年、皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトを宮廷の室内作曲家に任じたが、仕事は舞踏会の曲を書くことで、給料も前任者より少なかった。

1780年代の終わり、暮らしは苦しくなった。オスマン帝国との戦争で貴族たちが都を離れ、予約の演奏会が開けなくなった。病気がちの妻の療養や、身分にふさわしい暮らしを保つための出費もかさんだ。友人に宛てて、借金を頼む手紙が何通も残っている。それでも、1788年の夏には、最後の三つの交響曲をわずか2か月ほどで書き上げている。
1791年、最後の年は、驚くほど多くの仕事に満ちていた。町の芝居小屋のために、歌と台詞のまじるドイツ語の歌芝居『魔笛』を書き、大衆の喝采を浴びた。新しい皇帝がボヘミアの王として戴冠する祝いのためのオペラを書き、クラリネットのための協奏曲を書いた。そして、名を伏せた依頼主から頼まれた死者のためのミサ曲、レクイエムに取りかかったが、秋に病に倒れた(モーツァルトの死とレクイエム)。12月5日、モーツァルトは35歳で亡くなった。レクイエムは未完のまま残され、弟子が補って完成させた。

死因ははっきりしない。記録には熱と発疹を伴う病とあり、リウマチ熱や腎臓の病など、さまざまな説が出されている。宮廷楽長のサリエリが毒を盛ったという噂は、死後まもなく流れ、のちにプーシキンの劇や映画『アマデウス』の題材となったが、根拠は無い。遺体は、当時の皇帝の定めに従って、簡素な葬儀のあと町はずれの墓地の共同の墓に葬られた。墓の正確な位置は分かっていない。
生涯に書いた作品は、交響曲、オペラ、協奏曲、室内楽、教会音楽と、ほとんどあらゆる分野にわたり、600曲を超える。19世紀にケッヘルという学者がそれを年代順に整理して番号を付け、いまもその番号で呼ばれている。雇い主を持たずに自分の作品と演奏で生きるというモーツァルトの試みは、彼自身の生涯では実を結ばなかった。だが、その道は次の世代のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって受け継がれ、作曲家が芸術家として自立する時代へとつながっていった。