南唐の滅亡
概要
十国で最も豊かで文化の高い国が、宋に囲まれて1年で降った。王の李煜は詞人。開封に連れて行かれ、「故国は月明かりの中、振り返るに忍びない」と書き、太宗が毒を送った。42歳。詞が、宴の歌から、亡国の嘆きになった。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
李煜(南唐後主)AD937年–AD978年8月13日 · 最後の王本文
907年に唐が滅びると、華北では五つの王朝が短い間に入れ替わり、南では十ほどの国が並び立った。五代十国の時代である(五代十国)。戦乱の続く華北を逃れて、多くの文人や職人が南へ移った。その南の国々の中で、最も広く、最も豊かで、文化の高かったのが、長江の下流、金陵(いまの南京)を都とした南唐だった。
南唐を建てたのは李昪である。もとは楊氏の呉の国で実権を握った権臣の養子で、徐知誥と名乗っていたが、937年に呉の位を奪い、のちに姓を李に改めて唐の皇室の血を引くと称し、国の名も唐とした。唐の後継ぎを名乗ることで、華北の王朝に対する正統を主張したのである。二代目の李璟は、詞をよくする風雅な君主だった。だが956年から、華北の後周の世宗が攻め込み、南唐は長江の北の淮南の地を奪われた。李璟は皇帝の称号をやめて「国主」と名乗り、後周の暦を使って臣従した。
961年、李璟の死を受けて、六男の李煜(南唐後主)が24歳で後を継いだ。兄たちが早く死んだための即位で、本人は政治よりも、詩や詞、書、画、音楽を愛した。最初の妻の大周后は琵琶の名手で、唐の玄宗の時代の名高い舞曲「霓裳羽衣曲」の、失われかけていた楽譜をよみがえらせたと伝えられる。彼女が若くして死ぬと、李煜はその妹を後の妻とした。南唐の宮廷は、紙や墨、硯の名品を生み、画家たちが活躍する、華やかな文化の中心だった。
その間に、華北では960年に趙匡胤(宋の太祖)が宋を建てていた(宋の成立)。宋は南の国々を一つずつ併合していき、李煜は毎年多くの貢ぎ物を宋へ送り、自ら「江南国主」と名乗りを下げて、ひたすら恭順の姿勢を示した。だが974年、宋の太祖が都の開封へ来るよう命じると、李煜は病を理由に応じなかった。行けば二度と戻れないと分かっていたからである。
宋はこれを口実に、将軍の曹彬に10万ともいわれる軍を与えて南へ向かわせた。南唐は、長江という天然の堀に守られていると信じていた。だが南唐の科挙に落ちて宋に寝返った樊若水という男が、采石の川辺で釣りをするふりをして、川幅をひそかに測っていたとされる。宋軍はその測量をもとに、采石で船をつないで長江に浮橋を架け、大軍を渡した。南唐の人びとは、川に橋を架けるなど聞いたことがないと笑っていたという。
宋軍は金陵を囲んだ。李煜は重臣の徐鉉を開封へ送り、南唐には何の罪もない、と攻撃の中止を訴えさせた。太祖は、もう議論はいらない、天下は一つの家である、自分の寝台の脇で他人が高いびきをかいて寝ているのを許せようか、と答えたと伝えられる。包囲は1年近くに及び、975年の暮れ、金陵は落ちた。李煜は家族と臣下を連れて降伏した。
開封に連れて行かれた李煜は、太祖から「違命侯」、すなわち命令に背いた侯という屈辱的な位を与えられた。翌年、太祖が死んで弟の太宗が継ぐと位は上げられたが、虜囚の身であることに変わりはなかった。李煜はこの時期、失われた国を思う詞を次々に書いた。その一つ「虞美人」は、春の花と秋の月はいつ終わるのか、と始まり、昨夜も小さな楼に東の風が吹いた、故国は月明かりの中、振り返るに忍びない、と続く。尽きることのない愁いを、東へ流れる春の長江の水にたとえて結ぶ。
978年7月7日、自らの誕生日の夜に、李煜は死んだ。数え年で42歳だった。宋の時代の随筆には、旧臣たちとの宴でこの詞を歌わせたのが太宗の耳に入り、毒の薬を下賜されたと記されている。ただし、それが事実かどうかは確かめられない。
詞は、もともと酒宴で歌姫が歌う、恋や別れの歌の歌詞だった。李煜は、国を失った君主の悲しみという、それまでの詞になかった深い思いをそこに込めた。近代の学者王国維は、李煜によって詞の見る世界が初めて大きくなり、楽人の歌から士大夫の文学に変わった、と評している。政治家としては国を守れなかったが、詞人としては、宋の時代に花開く詞の文学の扉を開いた人だった。南唐が滅びた後も、李煜の詞は中国で広く愛唱され、その最後の一句は、いまも多くの人が口ずさむことができる。