『変身』

概要
「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めると、ベッドの中で自分が巨大な虫に変わっているのに気づいた」。1912年に3週間で書いた。保険局の役人で、夜に書き、ほとんど出版せず、友人ブロートに「原稿は焼け」と遺言した。ブロートは焼かなかった。『審判』『城』。「カフカ的」。理由の分からない官僚の迷路。20世紀の言葉になった。
場所
50.08°N 14.44°E · チェコ
関わった人(1)
フランツ・カフカAD1883年7月3日–AD1924年6月3日 · 書いた本文
フランツ・カフカは1883年、オーストリア=ハンガリー帝国のボヘミアの都プラハで、ドイツ語を話すユダヤ人の商人の家に生まれた。町の多数派はチェコ語を話すチェコ人で、ドイツ語を話す人々は少数派、そのなかでもユダヤ人はさらに少数派だった。父ヘルマンは、田舎の貧しい生まれから身を起こし、小間物の卸の店を構えた、体が大きく声の大きい男だった。繊細で体の弱い息子は、父の前でいつも萎縮していた。のちにカフカは、父に宛てて長い手紙を書き、自分がどれほど父を恐れて育ったかを綴ったが、その手紙は父に渡されなかった。
カフカは大学で法律を学び、1908年から、労働者が職場でけがをしたときの保険を扱う半官半民の役所に勤めた。工場の事故を調べ、保険料の等級を決める報告書を書く仕事で、職場では有能な役人として評価され、昇進もした。勤めは昼過ぎに終わり、彼は午後に眠り、夜更けから明け方まで小説を書いた。書くことこそが自分の生きる意味だと考えながら、勤めを辞めることも、両親の家を出ることもなかなかできなかった。

1912年の夏、カフカは友人マックス・ブロートの家で、ベルリンから来ていたフェリーツェ・バウアーという女性に出会い、秋から熱心に手紙を書きはじめた。この年の9月、彼は一晩で短編『判決』を書き上げ、初めて自分の書き方を見つけたと感じていた。11月17日、日曜日、ベッドの中で彼は新しい話を思いついた。その日のフェリーツェへの手紙に、苦しくて寝床にいたときに思いついた小さな話を書き留めるつもりだ、それは心の底から自分を責めさいなむ話だ、と書いている。それから3週間ほど、夜ごとに書き続け、12月の初めに書き上げた。途中で勤めの出張が入って中断したことを、彼は、結末が損なわれたと悔やんだ。
物語は、こう始まる。ある朝、グレゴール・ザムザが落ち着かない夢から目を覚ますと、自分がベッドの中で一匹の巨大な虫に変わっているのに気づいた。グレゴールは布地を売り歩く外回りのセールスマンで、父の事業の失敗で背負った借金を返すために、嫌な仕事を続け、両親と妹を養っていた。虫になって彼がまず心配したのは、朝の汽車に乗り遅れることだった。様子を見に来た会社の支配人は、部屋から出てきたグレゴールの姿を見て逃げ出す。
それからグレゴールは、自分の部屋に閉じ込められて暮らす。食べ物を運んでくれるのは妹のグレーテだけで、母は息子の姿を見て気を失う。かつて家族を養っていた彼は、いまでは家の恥であり、重荷になった。父は再び働きに出て、彼に林檎を投げつけ、そのひとつが背中にめり込んで腐っていく。家計を助けるために3人の下宿人が置かれ、ある晩、妹が下宿人たちの前でヴァイオリンを弾くと、グレゴールはその音に引き寄せられて部屋から這い出してしまう。下宿人たちは怒って出ていくと言い出し、妹はついに、あれをどうにかして追い払わなければならない、あれが兄さんだなんて思うのはもうやめなければ、と言う。その夜、グレゴールは静かに息を引き取る。翌朝、通いの女中が死骸を見つけて片づける。家族は久しぶりに休みを取り、電車で郊外へ出かける。両親は、いつのまにか娘が美しく成長していることに気づき、そろそろ良い婿を探してやらなければと考える。物語はそこで終わる。
グレゴールが変わったものは、ドイツ語で「ウンゲツィーファー」と書かれている。害虫や、汚らわしい生き物を指す言葉で、もとは神へのいけにえにできない不浄な動物という意味を持っていた。甲虫のように描かれる場面はあるが、何の虫なのかははっきり書かれていない。本が出るとき、カフカは出版社に手紙を送り、表紙に虫そのものを描いてはいけない、遠くからでも見せてはいけない、と頼んだ。実際の表紙には、開いた戸口の暗い部屋を背に、両手で顔を覆う男の姿が描かれた。
『変身』は1915年10月に文芸雑誌に載り、同じ年の11月に、ライプツィヒの出版社から薄い一冊の本として出た。カフカが生きているあいだに出版したのは、こうした薄い本が7冊ほどにすぎない。長編の『失踪者』(のちに『アメリカ』の題でも出る)、『審判』、『城』は、どれも書き上げられないまま、机の引き出しにしまわれていた。
1917年、カフカは結核にかかった。フェリーツェとは二度婚約し、二度とも婚約を解いた。1922年に役所を退職し、晩年は若い女性ドーラ・ディアマントとベルリンで暮らしたが、病は喉に進み、1924年6月、ウィーン近郊の療養所で40歳で亡くなった。ブロートには、日記も原稿も手紙も、自分の遺したものはすべて読まずに焼いてほしいと書いたメモを残していた。
ブロートはその頼みに従わなかった。生前にカフカから同じことを言われたとき、自分は決して焼かないと答えていたのだという。彼は1925年に『審判』、1926年に『城』、1927年に『アメリカ』を出版した。1939年3月、ナチ・ドイツの軍がプラハに入る前夜、ブロートはカフカの原稿をトランクに詰めて、プラハを出る最後の列車の一つに乗り、パレスチナへ逃れた。プラハに残ったカフカの3人の妹は、のちにナチの手で殺された(ホロコースト)。

戦後、カフカの作品は世界中で読まれるようになった。理由も知らされないまま逮捕され裁かれる男、呼ばれているのにどうしてもたどり着けない城、ある朝突然、家族の重荷になってしまう息子。英語には「カフカ的」という形容詞が生まれ、出口の見えない役所の手続きや、不条理で人を押しつぶす仕組みを指す言葉になった。社会主義のチェコスロヴァキアでは長く「退廃的」な作家として遠ざけられていたが、1963年にプラハ近郊で開かれたカフカをめぐる学会は、のちのプラハの春につながる雪解けの兆しの一つとされている。
ただ、カフカの作品は暗いだけのものではない。ブロートは、カフカが仲間の前で自分の作品を朗読しながら、笑いがこみ上げてきて先を読めなくなったことがあると伝えている。グレゴールが虫になってまず汽車の時刻を心配する場面にも、ぞっとするような笑いがある。同じころ、ダブリン生まれのジョイスは別のやり方で小説の形を壊していた(『ユリシーズ』)。『変身』は、その短さと読みやすさのために、20世紀の文学の入口として、いまも多くの国で最初に手に取られるカフカの作品である。