村田珠光
概要
奈良の検校の家、と伝える。11歳で称名寺に入り、還俗し、京で大徳寺の一休宗純に参禅した。一休から圜悟克勤の墨蹟を与えられた、という話が伝わる(茶掛けの始まりとされる)。四畳半の茶室。唐物と和物を取り合わせる。「心の文」(弟子古市播磨への手紙)に「月も雲間のなきは嫌にて候」。
関わったできごと(1)
村田珠光と侘び茶AD1490年頃 · 始めた本文
村田珠光は、室町時代の中ごろに奈良で生まれ、のちに侘び茶と呼ばれる茶の湯の流れを開いたとされる人である。1423年の生まれと伝えられる。その生涯を伝える史料は少なく、多くは彼の死後百年近くたって、千利休の弟子山上宗二がまとめた『山上宗二記』などの茶書による。宗二はその中で、珠光を茶の湯の開山と呼んだ。
伝えによれば、父は村田杢市という、検校の位を持つ盲人だったという。ただしこの伝承の確かさは高くない。奈良の町の人の出であったことは、ほぼ確かとされる。珠光は11歳で奈良の浄土宗の寺、称名寺に入ったが、のちに寺を出た。『山上宗二記』は、寺の勤めを怠って追い出されたと書いている。
当時の茶には、大きく二つの姿があった。一つは、将軍や大名の屋敷の書院で、中国から渡ってきた唐物の名品の茶碗や花入れや絵を飾り、それを鑑賞しながら茶を点てさせる上流の茶である。道具の目利きや飾り付けは、同朋衆と呼ばれる専門の人々が担った。もう一つは、茶の産地を飲み当てて賭け物を争う闘茶で、武士から町衆まで広く楽しまれた。茶は寄り合って騒ぐ遊びでもあった。
珠光は京に出て、こうした茶の世界に入った。将軍足利義政の同朋衆で、唐物の鑑定と飾り付けの第一人者だった能阿弥に学び、能阿弥の推挙で義政の茶の師になった、という話が後の茶書にある。だがこれを裏づける同時代の記録はなく、茶の湯の権威づけのために作られた話と見る研究者が多い。
もう一つの名高い伝えは、禅僧一休宗純との関わりである。一休は、後小松天皇の落胤とされ、大徳寺の住持に就いても短い間で去り、酒を飲み、盲目の女性と暮らして、形ばかりの権威を痛烈に罵り続けた僧だった。珠光はこの一休のもとで禅を学び、修行を認められた証しとして、中国の宋代の禅僧圜悟克勤の書を与えられたという。珠光はそれを茶の座敷の床に掛けた。これが茶席に禅僧の書を掛ける習わしの始まりだと言われる。この書は、のちに筒に納められたまま海を流れ、浜に流れ着いたという言い伝えから「流れ圜悟」と呼ばれ、いまに伝わっている。ただし、一休から珠光へという伝来も、茶書の伝えに頼るもので確かではない。茶と禅は一つの味であるという「茶禅一味」の考えも、この伝えから育った。
珠光自身の言葉として確かなものは、一通の手紙しか残っていない。弟子の古市播磨に宛てた、いわゆる「心の文」である。古市は奈良の有力な武士で、派手な茶会を催したことでも知られた。珠光はこの弟子に、この道でいちばん悪いのは、心の慢心と我執である、と書いた。上手な者をねたみ、初心の者を見下すことを戒め、和物と漢物の境をまぎらかすことが何より肝要だと説いた。さらに、初心の者が備前や信楽の焼き物を持って、冷えて枯れた境地などと言うのはもってのほかだ、とも書いている。素朴な和物の美しさは、唐物の名品をよく知り、修行を重ねた者がたどりつく境地であって、最初から気取るものではない、というのである。そして手紙は、心の師とはなれ、心を師とするな、という古人の言葉で結ばれる。
ほかにも珠光の言葉として伝わるものがある。能の世界の書き物には、月も雲間のないのは嫌だ、という珠光の言葉が書きとめられている。満月が雲一つない空に輝くより、雲の間に見え隠れするほうがよい、という美意識である。藁ぶきの粗末な家に名馬をつないでおくのがよい、という言葉も伝わる。粗末な座敷に名物を置く、その取り合わせのほうが心に響くというのである。
珠光の茶室は四畳半だったと伝えられる。広い書院で大勢を相手にする茶から、狭い座敷で主と客が向き合う茶へ、という転換がそこにある。彼が好んだとされる道具にも、その美意識が表れている。「珠光青磁」と呼ばれる茶碗は、中国の青磁のうち、色が冴えず黄ばんだ地味な品で、それまで名品とはされなかったものだった。完全でないもの、目立たないものに美を見いだす目が、ここに働いている。
珠光の生きた時代は、応仁の乱で京が焼け、将軍の権威が地に落ちていく時代だった。一方で、義政の東山の山荘に代表される文化(銀閣と東山文化)が育ち、町の人々が文化の担い手として力をつけていった時代でもある。奈良の町に生まれた珠光の茶は、その流れの中にあった。

珠光は1502年に死んだ。80歳ほどだった。茶の湯は、養子の宗珠や、十四屋宗伍、宗陳らの弟子に受け継がれた。堺の商人の家に生まれた武野紹鴎がこの系統から学び、さらにその弟子の千利休が侘び茶を大成する(侘び茶の大成)。利休が茶の湯の祖として語られるとき、その源には、四畳半を選び、和物と漢物の境をまぎらかせと書いた奈良の町人がいる(村田珠光と侘び茶)。