ペルシア戦争

概要
当時最大の帝国に、都市国家の寄り合いが勝った。ギリシアが自分たちを語りはじめる。
この物語について
当時最大の帝国が、小さな都市国家の寄り合いに、なぜ勝てなかったのか。そしてその勝利は、ギリシア人に何をもたらし、何を狂わせたのか。
紀元前6世紀の後半、西アジアには、それまでにない規模の国が生まれていた。ペルシアのアケメネス朝である。キュロス2世はメディアを倒し、前547年ごろには小アジアのリュディア王国を滅ぼし、バビロンを開城させた。その後を継いだ王たちはエジプトまでを従え、ダレイオス1世の時代には、帝国はインダス川からエーゲ海、ナイル川にまで及んだ。各地に総督を置き、税を集め、王の道と駅伝で命令を届ける。征服した民の神々や習慣には寛容で、この帝国は力だけでなく仕組みで広い土地をまとめていた。

これに対してギリシアは、一つの国ではなかった。山と海に隔てられた何百もの都市国家(ポリス)が、それぞれの法と軍を持ち、しばしば互いに争っていた。共通していたのは、言葉と神々、オリンピアの競技祭、そしてホメロスの詩くらいである。アテナイでは前508年ごろのクレイステネスの改革で、市民が民会で物事を決める民主政の骨格ができたばかりだった。スパルタは、少数の市民が多数の隷属民を支配する、軍事に特化した国だった。
火種は小アジアの西岸にあった。そこにはイオニア人と呼ばれるギリシア人の都市が並び、リュディアが滅んだあとはペルシアに従っていた。前499年、ミレトスの指導者アリスタゴラスの呼びかけで、これらの都市がペルシアに背いた(イオニアの反乱)。アテナイは20隻の船を送り、反乱軍は総督の都サルディスを焼いた。反乱は前494年、ミレトスの陥落で鎮められる。ヘロドトスによれば、ダレイオスはアテナイの名を聞くと、食事のたびに従者に「王よ、アテナイ人を忘れたもうな」と三度言わせたという。
前490年、ペルシアの遠征軍は海を渡り、アテナイの北東のマラトンの浜に上陸した。アテナイは急使をスパルタに送ったが、スパルタは祭りの期間中で、満月を過ぎるまで兵を出せないと答えた。アテナイの重装歩兵はおよそ1万、それに小さな都市プラタイアの兵が加わっただけで、ペルシア軍に立ち向かった。将軍ミルティアデスは陣の両翼を厚くして敵を挟み込み、勝利を収めた(マラトンの戦い)。ヘロドトスは、ペルシア側の死者を6400人、アテナイ側を192人と記している。勝利を知らせるために兵士が走り続け、伝えて息絶えたという話は、ずっと後の時代の作家が書いたもので、これが現代のマラソン競技の由来になった。

マラトンの敗北は、帝国にとっては辺境での小さなつまずきだった。ダレイオスは再びの遠征を準備するうちに死に、その子クセルクセス1世が後を継ぐ。この猶予のあいだに、アテナイの政治家テミストクレスは、ラウレイオンの銀山で見つかった新しい鉱脈の収益を市民に分けるのではなく、軍船を造るのに使うよう説いた。こうしてアテナイは、200隻ともいわれる三段櫂船の艦隊を持つことになる。この決断が、のちに戦争の行方を決めた。
前480年、クセルクセスは自ら大軍を率いて、ヘレスポントス海峡に船を並べた橋を架けて渡った。ヘロドトスは陸軍を170万と書いているが、これは補給を考えるとありえない数で、いまの研究者は数十万から十数万、あるいはそれ以下と見積もり、幅が大きい。ギリシアの諸都市の多くはペルシアに従うか、様子見を決め込んだ。抵抗を決めたのは、スパルタとアテナイを中心とする三十あまりの都市だった。
ギリシアの連合軍は、北から南へ下る道が海と山に挟まれて狭くなるテルモピュライで、敵を食い止めようとした。スパルタ王レオニダスは、自国の兵300と、ほかの都市の数千の兵とともに隘路を守り、二日にわたってペルシアの攻撃を退けた。だが地元の男が山越えの間道を敵に教え、背後に回られる。レオニダスは大半の兵を去らせ、スパルタ兵と、残ることを選んだテスピアイの兵などとともに戦い、全滅した(テルモピュライの戦い)。負け戦だったが、この戦いはのちに、自由のために命を捨てた物語として語り継がれる。

ペルシア軍はギリシア中部を抜けてアテナイに入り、アクロポリスの神殿を焼いた。アテナイの市民は、すでに町を捨てて近くの島々に逃れていた。テミストクレスは、神託の言う「木の壁」とは船のことだと解き、決戦の場を、本土とサラミス島のあいだの狭い海峡に選んだ。ヘロドトスによれば、彼は密かにペルシア王に使いを送り、ギリシア艦隊が逃げ出そうとしていると伝えて、敵を海峡に誘い込んだという。前480年9月、大きな船を自由に動かせない狭い海で、ペルシアの艦隊は大敗した(サラミスの海戦)。クセルクセスは海峡を見下ろす丘の上の玉座からこれを見ていたと伝えられる。
王は本国へ引き上げたが、将軍マルドニオスと陸軍はギリシアに残った。翌前479年、スパルタのパウサニアスが率いるギリシアの連合軍は、ボイオティアのプラタイアでペルシア軍と戦い、マルドニオスを討ち取った(プラタイアの戦い)。同じ頃、小アジアのミュカレでもギリシア軍がペルシア軍を破り、攻める側と守る側が入れ替わった。ペルシアがギリシア本土に大軍を送ることは、二度となかった。

なぜ大帝国は勝てなかったのか。答えは一つではない。遠い本国から大軍を運び、食べさせることは難しく、艦隊がなければ陸軍も補給を失った。重い鎧と長い槍で密集して戦うギリシアの重装歩兵は、狭い地形で強さを発揮した。そして、サラミスの海での勝利は、テミストクレスの読みと、アテナイが前もって艦隊を造っていたことによるところが大きい。ペルシアにとってギリシアは帝国の西の端の一部にすぎず、ギリシアの側にとっては、町と家族のすべてがかかった戦いだった。
勝利のあと、ギリシア人は自分たちを語りはじめる。前472年、アテナイでアイスキュロスの悲劇『ペルシア人』が上演された(アイスキュロス『ペルシア人』)。サラミスの敗報を聞くペルシアの宮廷を舞台に、負けた側の嘆きを描くこの劇は、現存する最古のギリシア悲劇である。作者自身もマラトンで戦った兵士だった。そしてペルシアの支配下にあった小アジアのハリカルナッソス生まれのヘロドトスは、この戦争がなぜ起きたのかを、ギリシアだけでなくペルシアやエジプトの風俗まで聞き集めて書いた(ヘロドトス『歴史』)。起きたことを調べて書くという意味の「ヒストリエ」は、のちに「歴史」を指す言葉になり、ヘロドトスは「歴史の父」と呼ばれる。自由な市民のギリシアと、王に仕える奴隷のペルシアという対比は、この頃から語られるようになり、後世の「西と東」の見方に長く影を落とした。

戦争はまた、ギリシアの中の力関係を変えた。前478年、ペルシアの再来に備えて、エーゲ海の都市がアテナイを盟主にデロス同盟を結んだ(デロス同盟の結成)。各都市は船か資金を出し、資金はデロス島の神殿に置かれた。だがアテナイはしだいに同盟を支配の道具に変え、前454年には金庫を自国に移して、その資金でパルテノン神殿を建てた。離脱しようとする都市は武力で抑えられた。救国の英雄テミストクレスは、のちに陶片追放でアテナイを追われ、最後はかつての敵ペルシアの王のもとに身を寄せて死んだ。
アテナイの膨張を恐れたスパルタとの対立は、前431年、ペロポネソス戦争となって爆発する。外の敵が去ったあと、ギリシア人は27年にわたって互いに戦い、アテナイは敗れた。その戦争の途中で、スパルタはペルシアから資金の援助を受けている。前4世紀の初めには、ペルシア王の仲立ちで結ばれた和約によって、小アジアのギリシア人の都市は再びペルシアの支配下に戻された。帝国を退けたはずの都市国家は、自分たちの争いのために、その帝国の力を借りることになった。

ペルシア戦争のあとの半世紀は、アテナイで民主政と悲劇と哲学が花開いた時代だった。だがその繁栄は、同盟の資金と、ほかの都市への支配の上に立っていた。大帝国に勝った誇りと、勝ったあとの驕り。ヘロドトスが書き残したこの戦争の物語は、自由とは何か、勝者はその後どうふるまうのかという問いとともに、いまも読まれている。
この物語が起きた場所
筋(61)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ギリシア諸ポリス国? – BC338年(カイロネイアの戦い)アテナイ・スパルタ・テーバイなどの都市国家。互いに争い続け、カイロネイアでマケドニアに屈した。
- クノッソスの宮殿できごと紀元前19世紀城壁を持たない宮殿。海が壁だったと考えられている。文字(線文字A)はいまも読めない。クノッソス
- ミュケナイの興りできごと紀元前16世紀線文字Bは解読され、ギリシア語だと分かっているクレタと違って城壁と武器だらけの遺跡。線文字Bは解読され、ギリシア語だと分かっている。ミュケナイ
- ドーリア人の移動できごとBC1100年頃ヘラクレスの子孫の帰還ミケーネの宮殿が焼けたあと、北からギリシア語の別の方言を話す人々が来た、とギリシア人は伝えた。「ヘラクレスの子孫の帰還」。スパルタとクレタとロドス。本当に移動があったかは、いまも決着していない。暗黒時代の始まり。スパルタ
- イオニア植民できごとBC1000年頃哲学と歴史はここからミケーネが崩れたあと、アテナイを経由してギリシア人が小アジアの西岸に渡った。ミレトス、エフェソス、スミルナ、12の都市。ホメロス、タレス、ヘロドトスはここから出た。ギリシアの哲学と歴史は、本土でなく、この植民市で始まる。ミレトス
- ホメロス人物紀元前8世紀頃 – ?「ギリシア人」という自意識のもとになった詩『イリアス』『オデュッセイア』の作者とされる。実在したかどうかも含めて議論がある。
- 第1回オリンピア競技できごとBC776年(伝承)ギリシア人が共通の年代の起点として用いた。以後4年ごとに開かれる。オリュンピア
- 『イリアス』『オデュッセイア』の成立できごと紀元前8世紀頃口誦で伝えられた叙事詩が文字になった。ギリシア人が共有する物語の土台になる。トロイア
- ギリシア人のクマエ植民できごとBC750年頃ラテン文字の元エウボイア島のギリシア人がナポリ湾の北に街を建てた。イタリア本土で最初のギリシア植民市。ここからエトルリア人とローマ人がアルファベットを学んだ。ラテン文字はクマエのギリシア文字から来ている。クマエ
- 第一次メッセニア戦争できごとBC8世紀後半スパルタのあの生き方はこの征服の結果スパルタが西隣のメッセニアを20年かけて征服し、住民をヘイロタイ(隷属農民)にした。以後スパルタ市民は、その反乱を抑えるために軍事に専念する。スパルタ

- リュクルゴスの制できごとBC7世紀頃(伝承)スパルタの生き方を定めたとされる立法者土地を等分し、貨幣を鉄に限り、7歳から集団で育てる。スパルタの生き方を定めた立法者の名で伝わるが、その人がいたかどうかは分からない。スパルタ
- アルキロコス人物BC680年頃 – BC645年頃罵り詩の創始者パロス島。貴族の父と奴隷の母。傭兵、恋、罵倒、盾を捨てた話。イアンボス(罵り詩)の創始者。婚約を破棄した相手の父と娘を詩で罵り、一家が首を吊ったと伝わる。戦死した。殺した男はデルフォイで「詩神の僕を殺した」と追い返された。
- ビュザンティオンの建設できごとBC657年(伝承)盲人の街の向かいメガラの植民者が、ボスポラスのヨーロッパ側に街を建てた。神託は「盲人の街の向かい」と言い、先に対岸に建てた者は盲人だとされた。黒海と地中海の間の、金角湾。千年後、コンスタンティヌスが首都にする。コンスタンティノープル
- アルキロコスの詩できごとBC650年頃盾は茂みに貴族と奴隷の子で、傭兵で、盾を捨てて逃げたことを自分で詩にした。「盾は茂みに置いてきた。また買えばいい」。ホメロスの英雄の裏側を、一人称で、韻律を変えて歌った最初の人。日食の詩は、BC648年4月6日の日食で年代が分かった。パロス島
- ペリアンドロスのコリントスできごとBC627年暴君と賢者僭主の父の跡を継ぎ、コリントスを海の街にした。地峡に船を陸で運ぶ道を敷き、植民市を送り、詩人を招いた。七賢人に数えられ、妻を殺して死体を犯し、母と寝たと言われた。「暴君の見本」と「賢者」が同じ人につけられた。コリントス

- ペイシストラトス人物BC600年頃 – BC527年アテナイの僭主アテナイの僭主。三度政権を取り、二度追われた。農民の味方で、法は変えず、祭りを大きくした。息子の代に憎まれ、その追放のあとにクレイステネスの改革が来る。
- ペリアンドロス人物? – BC585年船を陸で運ぶ道コリントスの僭主。ディオルコス(船の陸送路)を敷き、コルキュラとポテイダイアに植民し、アリオンを招いた。妻メリッサを殺し、その息子を憎み、コルキュラの少年300人を去勢のためリュディアへ送った。七賢人の一人でもある。「練習がすべて」。
- クレイステネス人物BC570年頃 – BC508年頃名門アルクメオン家の出。僭主を追い出したあと、血縁の集団を解体して地域で組み替えた。抽選と陶片追放を制度にし、民主政の骨格を作った。
- ペイシストラトスの僭主政できごとBC561年民主政の前の、人気のある独裁自分で自分を傷つけて護衛を求め、その護衛でアクロポリスを取った。二度追われ、三度目に定着する。農民に金を貸し、祭りを大きくし、ホメロスを整えさせた。民主政の前の、人気のある独裁。アテナイ
- アケメネス朝ペルシア国BC550年 – BC330年エジプトからインダスまでを収めた最初の世界帝国。ギリシアへの遠征に失敗し、最後はアレクサンドロスに滅ぼされた。
- ダレイオス1世人物BC550年 – BC486年帝国を州に分けて統治の形を整え、王の道を敷いた。ギリシア遠征はマラトンで挫折する。
- レオニダス1世人物BC540年頃 – BC480年テルモピュライの隘路で寡兵を率いて戦い、退かずに戦死した。
- ポリュクラテスのサモスできごとBC530年頃魚の腹から戻った指輪兄弟を殺して僭主になり、100隻の船で海を支配した。トンネルと防波堤と神殿。運が良すぎるのを恐れて指輪を海に捨てると、魚の腹から戻った。エジプト王は同盟を切った。ペルシアの総督に騙されて磔にされた。ピュタゴラスは彼を嫌って島を出た。サモス

- アイスキュロス人物BC525年頃 – BC456年マラトンで戦った悲劇詩人マラトンとサラミスで戦った兵士で、悲劇の父。役者を二人にして対話を作った。墓碑には戦ったことだけが刻まれ、劇のことは書かれなかった。禿げた頭を石と間違えた鷲が亀を落として死んだ、という話がある。
- カンビュセスのエジプト征服できごとBC525年聖牛を刺したキュロスの息子がペルシウムでファラオを破り、エジプトを取った。ヘロドトスは彼が聖牛アピスを刺し、王の墓を暴き、狂ったと書く。エジプトの碑文は彼をファラオの名で刻む。砂漠で5万の軍が消えたという話は、いまも探されている。ペルシウム
- テミストクレス人物BC524年頃 – BC459年頃銀山の収益を軍船に注ぎ込み、サラミスでペルシア艦隊を破った。のちに追放される。
- カンビュセス2世人物? – BC522年狂ったと書かれた王キュロスの長子。エジプトを取り、ヌビアとシワの遠征に失敗した。ヘロドトスは聖牛を刺し、妹を妻にして殺し、狂ったと書く。帰る途中、弟の名を騙る男が王を名乗り、自分の剣で腿を傷つけて死んだ。ダレイオスがそれを継いだ。
- ポリュクラテス人物? – BC522年磔にされた僭主サモスの僭主。100隻の五十櫂船。海賊で富み、アナクレオンを宮廷に置き、エウパリノスに山を貫く水道を掘らせた。エジプトのアマシスが「運が良すぎる」と友情を切った。指輪の話。ペルシアの総督オロイテスに金で釣られてマグネシアで磔にされた。
- クセルクセス1世人物BC518年頃 – BC465年父の雪辱を期してギリシアへ大軍を送ったが、サラミスで艦隊を失った。
- ダレイオスのスキタイ遠征できごとBC513年鳥と鼠と蛙と矢ボスポラスに船の橋を架け、ドナウを渡って草原に入った。スキタイは戦わず退き、井戸を埋め、草を焼いた。王は鳥と鼠と蛙と矢を贈られた。「鳥のように飛び、鼠のように潜り、蛙のように跳ばなければ、矢に射られる」。帰った。イストロス(ドナウ河口)
- クレイステネスの改革できごとBC508年民主政の骨格がここで組まれる血縁の集団を解体し、10の地域に組み替えて代表を出させた。抽選で選ばれる評議会と、追放を投票で決める仕組み。民主政の骨格がここで組まれる。アテナイ
- イオニアの反乱できごとBC499年アテナイ人を忘れるなミレトスの僭主アリスタゴラスがナクソス遠征に失敗し、ペルシアに罰される前に反乱を起こした。アテナイが20隻、エレトリアが5隻送り、サルディスを焼いた。ダレイオスは「アテナイ人を忘れるな」と毎晩言わせた。BC494年、ミレトスが落ちた。6年後、マラトン。ミレトス
- ソフォクレス人物BC497年頃 – BC406年ペリクレスと並んで将軍になった90年生きて123の劇を書き、7つが残った。将軍にも選ばれ、ペリクレスと並んで働いた。晩年に息子から老耄を訴えられ、書きかけの『コロノスのオイディプス』を読んで退けたと伝わる。
- ペリクレス人物BC495年頃 – BC429年アテナイ民主政の全盛期を導き、パルテノン神殿を建てた。ペロポネソス戦争の初期に疫病で没する。
- マラトンの戦いできごとBC490年アテナイ重装歩兵がペルシア軍を撃退した。第一次ペルシア戦争の帰趨を決める。マラトン

- ヘロドトス人物BC484年頃 – BC425年頃この戦争を書き残したペルシア戦争を書き残した「歴史の父」。見聞を集めて因果を語る形を作った。
- テルモピュライの戦いできごとBC480年8月レオニダス率いる寡兵が隘路でペルシアの大軍を数日食い止め、全滅した。テルモピュライ

- サラミスの海戦できごとBC480年9月狭い海峡に誘い込んでペルシア艦隊を破った。ギリシアの独立が守られる。サラミス

- プラタイアの戦いできごとBC479年陸戦でもペルシアを破り、ギリシア本土からペルシア軍が退いた。プラタイア

- ミュカレの戦いできごとBC479年8月攻める側と守る側が入れ替わったプラタイアと同じ日、と伝える。ギリシア艦隊がサモスの対岸に上陸し、ペルシアの残った艦隊を陸で破って船を焼いた。イオニアの都市が再び反乱した。ペルシア戦争の終わり。翌年、デロス同盟。攻める側と守る側が入れ替わった。ミュカレ
- デロス同盟の結成できごとBC478年備えの同盟が、やがてアテナイの帝国に変わるペルシアへの備えとして結ばれたが、やがてアテナイの帝国に変わっていく。アテナイ
- アイスキュロス『ペルシア人』できごとBC472年負けた側の目で海戦を描いたサラミスから8年、自分も戦った作者が、負けたペルシアの側から海戦を描いた。現存する最古の悲劇で、実在の事件を扱った唯一のもの。勝った街で、負けた者の嘆きを上演した。アテナイ
- ニキアス人物BC470年頃 – BC413年月食で27日銀山の奴隷1000人で富んだ。慎重で、迷信深く、ニキアスの和約を結んだ。シケリア遠征に反対して指揮官にされ、月食で27日撤退を遅らせ、捕えられて処刑された。トゥキュディデスは「ギリシア人の中で、最も不幸に値しない人」と書いた。
- クリティアス人物BC460年 – BC403年神は賢い人間の発明プラトンの母の従兄弟。ソクラテスの弟子。詩人、悲劇作家、「神は賢い人間の発明」と書いた。三十人の首領。テラメネスを毒杯に送った。ムニキアでトラシュブロスと戦って死んだ。ソクラテスの裁判で「彼はクリティアスの師だった」と言われた。
- アルキビアデス人物BC450年 – BC404年最も美しい男ペリクレスの養子、ソクラテスの弟子、アテナイで最も美しい男。シケリア遠征を煽り、召還されてスパルタに逃げ、スパルタ王の妻に子を産ませ、ペルシアに逃げ、アテナイに戻って将軍になり、また追われ、フリギアで矢に射られた。『饗宴』で酔って登場する。
- ペロポネソス戦争できごとBC431年外の敵が去ったあと、内輪で30年戦ったアテナイとスパルタが27年戦い、ギリシアの都市国家は疲弊した。トゥキュディデスが同時代史として書き残す。アテナイ
- ヘロドトス『歴史』できごとBC430年頃なぜ戦争が起きたのかを調べて書いた最初の書。「歴史」という言葉の出所になる。ハリカルナッソス

- アテナイの疫病できごとBC430年ペリクレスが死んだペロポネソス戦争の2年目、城壁の中に避難民が詰め込まれたところへ来た。ペリクレスも死ぬ。トゥキュディデスが自分も罹った上で症状を書き残した。アテナイ

- ソフォクレス『オイディプス王』できごとBC429年頃疫病の街で上演された疫病の街を救うため、王が先王殺しの犯人を探す。探すほど自分に近づく。アリストテレスが悲劇の手本にし、フロイトが名前を借りた。疫病の直後のアテナイで上演された。アテナイ

- スファクテリアの戦いできごとBC425年スパルタ人が降伏したピュロスの島にスパルタの重装歩兵420人が閉じ込められた。クレオンが「私なら20日で」と言い、デモステネスと軽装兵で島を取った。スパルタ人292人が降伏した。「スパルタ人は降伏しない」が崩れた。捕虜を返してもらうために、スパルタは和を求めた。スファクテリア

- アンフィポリスの戦いできごとBC422年戦争を続けたい二人が同じ日にトラキアの街をめぐって、スパルタのブラシダスとアテナイのクレオンが戦い、両方とも死んだ。戦争を続けたい二人が同じ日に消えて、翌年ニキアスの和約。アリストファネスは『平和』でその年を祝った。和約は6年しか持たなかった。アンフィポリス
- クレオン人物? – BC422年皮なめし業者の子皮なめし業者の子。ペリクレスの死後、民会で最も声の大きい男。ミュティレネの成年男子の処刑を通し、翌日覆された。スファクテリアで約束通り勝った。アリストファネスが『騎士』で「パフラゴニア人」と描いた。アンフィポリスで逃げて死んだ。トゥキュディデスは彼を憎んで書いた。
- ブラシダス人物? – BC422年私は解放者だスパルタで最初に演説の上手い将軍。ヘイロタイ700人を兵にしてトラキアへ歩いた。「私は解放者だ」。アンフィポリスをトゥキュディデスの艦隊が着く前に取った。トゥキュディデスはそれで追放されて『歴史』を書いた。アンフィポリスの人は彼を建設者として祭った。
- エパメイノンダス人物BC418年頃 – BC362年スパルタ不敗の評判を終わらせた斜線陣でスパルタの無敵神話を破り、ギリシアの覇権を一時テーバイに移した。
- シケリア遠征できごとBC415年石切り場で4万人アルキビアデスが煽り、ニキアスが反対して、ニキアスが指揮させられた。134隻。出航の前夜にヘルメス像が壊され、アルキビアデスは召還されてスパルタへ逃げた。2年、シラクサを囲んで、港に閉じ込められ、陸で逃げて、4万の軍が崩れ、7000人余りの捕虜が石切り場に入れられた。アテナイはここから負けた。シラクサ

- アルギヌサイの海戦できごとBC406年ソクラテスだけが反対したアテナイが奴隷まで乗せた150隻で勝った。嵐で25隻の乗員を救えなかった。民会は6人の将軍をまとめて死刑にした。その日の議長がソクラテスで、一人だけ違法だと反対した。翌年、艦隊は指揮官を失ったまま、アイゴスポタモイへ。アルギヌサイ
- アイゴスポタモイの海戦できごとBC405年笛の音で壁が壊されたヘレスポントスの砂浜。アテナイの180隻が5日、同じ浜で兵を上陸させて食事をしていた。リュサンドロスは5日目に来た。170隻を浜で取った。海の戦いではなかった。翌年、アテナイが降った。壁は笛の音で壊された。27年の戦争の終わり。アイゴスポタモイ
- 三十人政権できごとBC404年8か月で1500人リュサンドロスが立てた30人の寡頭。クリティアス、ソクラテスの元弟子。8か月で1500人を殺し、財産を取り、市民を3000人に絞った。トラシュブロスがピュライから戻ってペイライエウスで戦い、クリティアスが死んだ。民主政が戻り、4年後にソクラテスを裁いた。アテナイ

- リュサンドロス人物? – BC395年生きて神になった貧しい家。ペルシアの王子キュロスと組んで金を得た。アイゴスポタモイ。アテナイを降し、三十人を立て、諸都市に十人の寡頭を置いた。サモスでは神として祭られた。生きている人で最初。スパルタの王たちに疎まれ、ハリアルトスで死んだ。
- デモステネス人物BC384年 – BC322年アテナイ最後の声後見人に財産を奪われ、法廷で取り戻すために弁論を学んだ。口に小石を含み、波に向かって叫んだと伝わる。フィリッポスに14年反対し、カイロネイアで盾を捨てて逃げ、アレクサンドロス死後の反乱で追われ、神殿で毒を飲んだ。
- レウクトラの戦いできごとBC371年斜線陣でスパルタの重装歩兵を破り、その無敵の評判が終わった。レウクトラ

重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
考えることの歴史6件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。表現の歴史5件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。主権はだれのものか3件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。ローマ人の物語2件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。アレクサンドロスの東方遠征2件を共有 / 20歳で王になった男が、11年でギリシアからインダス川まで到達した。そして32歳で死ぬ。古代オリエント2件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。文明のはじまり2件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史2件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。海の歴史1件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。大学の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 東京大学の公開講座や放送大学の動画から、歴史の項目に当たる講義を選んで付けた。研究者が自分の専門を語る、長めの講義が中心になる。