言葉のいらない案内
概要
東京オリンピックには、日本語も英語も読めない選手や観客が、世界中から来る。案内をどう書くか。美術評論家の勝見勝のもとに若いデザイナーたちが集まり、競技と、食堂やトイレや更衣室などの施設を、文字を使わない記号で表した。施設の記号だけで三十九種類になった。大会のあと、デザイナーたちは作者の名を求めず、記号を誰でも使えるものとして手放した。ウィーンで生まれた、数を絵で見せる考え方が、道案内の記号になり、次の大会へ、そして駅や空港へと広がっていった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1964年10月、東京でオリンピックが開かれた(東京オリンピック)。アジアで初めての大会である。準備の段階で、組織委員会は一つの問題に気づいていた。世界中から選手、役員、記者、観客がやってくる。その多くは日本語が読めない。英語やフランス語を読めない人も多い。それなのに、東京の町の案内は、ほとんど日本語だけだった。食堂はどこか、トイレはどこか、更衣室や救護所はどこか。言葉で書いても、届かない人がいる。
大会のデザインのまとめ役を任されたのは、美術評論家の勝見勝だった。勝見は、デザインは個人の作品である以前に社会の道具である、と考える人で、戦後の日本のグラフィック・デザインの議論を引っ張っていた。大会の公式ポスターや紋章は亀倉雄策が手がけ、勝見のもとには、ほかに若いデザイナーたちが集められた。田中一光、福田繁雄、のちに画家として知られる横尾忠則らを含む、10人あまりである。

彼らが作ったのは、文字を使わない記号、いまでいうピクトグラムだった。まず、競技の記号がある。走る人、泳ぐ人、球を蹴る人、自転車をこぐ人。体の動きを、頭と手足の単純な形で描き分けた。そして、施設の記号がある。食堂、トイレ、更衣室、電話、救護所、郵便、手荷物の預かり所。施設の記号だけで39種類になった。男女の別を示すトイレの人の形も、このとき作られた記号の一つとして知られる。
考え方は、はっきりしていた。形をできるだけ減らす。線の太さや角の丸みをそろえ、どの記号も同じ家族に見えるようにする。そして、どの国の人が見ても、同じ意味に受け取れるようにする。特定の国の習慣や文字に頼る形は避けた。その下敷きになっていたのは、1920年代のウィーンでオットー・ノイラートたちが作った、数を絵で見せる方式(数を絵で見せる)だった。勝見は戦前からこの方式に注目していた。ウィーンでは統計の数を見せるために生まれた記号の考え方が、東京では道案内の記号になった。

大会のあと、記号の扱いが問題になった。デザイナーたちには、自分の作品として権利を持つこともできた。勝見は、これは社会に返すべきものだと呼びかけた。デザイナーたちはそれに応じて、作者としての名前と権利を求めない、という書面に署名したと伝えられる。記号は、誰でも自由に使えるものとして手放された。
手放された記号は、広がっていった。1968年のメキシコ大会も独自の記号を作り、1972年のミュンヘン大会では、ドイツのデザイナー、オトル・アイヒャーが、縦・横・斜めの線だけで人の形を組み立てる、より整った記号の体系を作った。アイヒャーの記号は、その後の空港や駅の案内に大きな影響を与えた。以後のオリンピックは、大会ごとに自分たちの記号を作るのが当たり前になった。

日本の町にも、記号が増えていった。駅、空港、病院、デパート、観光地。1970年の大阪万博でも、案内の記号が使われた。日本で生まれた記号が世界に出ていった例もある。緑の地に、白い戸口へ向かって走る人の形を描いた非常口の記号である。1970年代の大きな火災をきっかけに、誰にでも分かる非常口の表示が求められ、1980年代の初めに日本で公募と選考を経て作られた。この記号は、のちに国際的な規格にも採り入れられた。
字が読めない人は、字を習っていない人だけではない。旅に出れば、誰でも字が読めない人になる。ピクトグラムは、その人のための文字である。中世の日本には、絵を見せながら地獄や極楽を語って歩いた尼僧たちがいた(熊野比丘尼の絵解き)。その絵は、語る人がいて初めて意味が通じた。ピクトグラムは、語る人がいなくても意味が通じるように作られた。そのために、形を極限まで削ぎ落としたのである。

もっとも、記号は万能ではない。同じ形でも、国や世代によって違う意味に取られることがある。トイレの男女の形は、服装の習慣に頼っているという指摘もある。記号は使われながら、少しずつ描き直されてきた。
2021年、新型コロナウイルスの流行で1年延期され、観客を入れずに開かれた東京大会(無観客の東京オリンピック)の開会式では、演者たちがおよそ50の競技のピクトグラムを次々と体で演じてみせた。57年前の東京で生まれた仕事が、そうやってもう一度、世界中の人に思い出された。