
概要
誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。
この物語について
いま私たちは、世界のどこかで起きたことを、数秒で知り、自分でも世界に向けて発信できる。それはいつから、どういう仕組みで可能になったのか。
長いあいだ、遠くへ言葉を届けられるのは、写本を抱える僧院と、飛脚や早馬を持つ王だけだった。活版印刷は本とビラを安くし、ルターの論題は数週間でドイツじゅうに広まった。新聞が生まれ、読む人々が「世論」になった。
十九世紀、電信は言葉を馬より速くし、写真と映画は出来事を目に見せた。二十世紀、ラジオとテレビは一つの声を国じゅうの居間に同時に届けた。それは国民をまとめる道具にも、独裁者の宣伝の道具にもなった。
インターネットは、受け取るだけだった人々を、送り手に変えた。誰でも書ける百科事典、動画の共有、SNS。検閲は難しくなったが、根拠の無い噂も同じ速さで広がる。
この物語は、届ける技術と、それを握ろうとする力と、握らせまいとする人々を並べたものになる。
この物語が起きた場所
筋(41)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 『直指』の印刷できごとAD1377年金属活字清州の興徳寺で、白雲和尚の編んだ禅の語録を、金属活字で刷った。現存する世界最古の金属活字本。グーテンベルクの78年前。下巻1冊がフランス国立図書館にある(1887年に駐朝公使コランが持ち帰り、1950年に寄贈された)。朝鮮では1234年に金属活字で刷った記録があり(現物は残らない)、1403年からは国家が鋳字所を置いた。開城
- グーテンベルクの活版印刷できごとAD1455年頃本が安くなる書物が手写しから機械の複製になった。考えが広がる速さが根本から変わる。

- 95か条の論題できごとAD1517年10月31日数週間でドイツじゅうにルターの問いかけが印刷術に乗って広がり、西方教会が割れた。宗教改革の始まり。ヴィッテンベルク

- 定期刊行の新聞の始まりできごとAD1605年定期に出る新聞毎週おなじ日に、遠くの出来事が同じ紙面に並ぶ。顔も知らない何万人が、同じ朝に同じことを読む。国民という感覚は、この習慣の上に育った。ストラスブール
- 書いた人の権利できごとAD1710年書いた人の権利印刷が始まってから二百年、本の権利を持っていたのは書いた人ではなく、出版の組合だった。組合が登録した者だけが刷れる仕組みで、王にとっては検閲の道具でもある。その独占が切れたとき、議会が新しい法を作った。1710年のこの法は、権利の持ち主を著者だと書いた最初の法とされる。期限も決めた。十四年、生きていればもう十四年。それを過ぎれば誰でも刷ってよい。永久ではないことが肝心だった。書いた人に報いることと、知識を世の中に返すことを、期限で折り合わせる。いまの著作権の骨組みは、ここでできた。ロンドン
- 『百科全書』できごと1751年知識を束ねて広める20年かけて全28巻。知識を教会と王の手から取り上げて並べ直す仕事で、たびたび発禁になっている。パリ

- シャップの腕木通信できごとAD1794年腕木で言葉を送る塔の上に、動く腕木を組んだ装置を置く。腕の角度の組み合わせで196通りの符号を作り、望遠鏡で次の塔から読み取って、送り継ぐ。革命政府が採用し、1794年、リールからパリへ、オーストリア軍から町を奪還した知らせが、一時間ほどで届いた。ナポレオンが全土に広げ、最盛期には534の塔が5000キロを結んだ。天候と昼間に縛られ、内容は暗号だったので、送る側と受ける側しか意味が分からない。電信が来て、40年で消えた。パリ
- 貸本屋できごとAD1808年(文化5年)借りて読む本は高い。木版で刷り、紙も墨も手間も高くつく。江戸の庶民が読んでいたのは、買った本ではなく借りた本だった。貸本屋は背丈ほどの本を風呂敷に包んで背負い、得意先の家を順に回る。読み終えたころにまた来て、次を置いていく。文化5年、江戸には六百五十軒を超える貸本屋があり、客は十万人を超えたと見られている。同じ一冊が何十人もの手に渡るので、刷った部数より読者はずっと多い。滝沢馬琴の長い物語が続きものとして成り立ったのは、この仕組みがあったからになる。東京
- 写真の発明できごとAD1839年8月19日出来事を写すニエプスが1826年に8時間の露光で窓の外を写し、その死後、共同研究者ダゲールが銀を蒸着した銅板を使う方法を完成させた。露光は数十分。フランス政府が特許を買い上げ、この日、科学アカデミーで公開して「世界への贈り物」とした。同じ頃イギリスのタルボットが、紙の陰画から何枚でも焼く方法を作っていた。一点物か複製か。写真術は後者を選び、それが絵画と記憶と証拠のあり方を変えた。パリ
- ペニー・ブラックと郵便改革できごとAD1840年5月6日誰でも手紙を出せるそれまでの郵便は、受け取る側が距離に応じて払った。高額で、受取拒否が多く、集金の手間が費用の大半を占めていた。ローランド・ヒルは、費用を分析して、距離はほとんど関係ないことを示した。かかるのは仕分けと配達である。だから、全国どこでも重さだけで決め、前払いにし、支払いの証拠として紙片を貼る。1オンスまで一ペニー。世界初の切手。10年で郵便物は5倍以上になり、識字と教育と、庶民の手紙の習慣が広がった。ロンドン
- モールスの電信できごとAD1844年5月24日言葉が馬より速くなるワシントンの最高裁の部屋からボルティモアまで60キロ。「What hath God wrought(神は何を成し給うたか)」。画家のモールスが、点と線の符号と、電磁石の受信機で。10年で全米に電線、1858年に大西洋ケーブル(3週間で切れた。1866年に成功)。情報が人より速く動く最初。株価、ニュース、戦争の命令、時報。ワシントンD.C.
- ロイターの伝書鳩できごとAD1850年速さを売る通信社ベルリンとパリの間に電信線が引かれたが、アーヘンとブリュッセルの約120キロが繋がっていなかった。この空白を、ポール・ロイターが鳩で埋めた。ブリュッセルの株価を薄い紙に書いて鳩に付け、二時間でアーヘンへ運び、そこから電信でベルリンへ送る。郵便列車より数時間速い。翌年、線が繋がって鳩は不要になったが、彼はロンドンへ移り、通信社を作った。情報が速く着くことに、それ自体の値段が付くと分かった時期である。アーヘン
- 大西洋横断電信ケーブルできごとAD1866年大洋の向こうと同じ日に1858年、最初のケーブルが繋がり、ヴィクトリア女王とブキャナン大統領が挨拶を交わした。98語の送信に16時間かかり、3週間で切れた。1865年、グレート・イースタン号(当時ずば抜けて巨大な失敗作の客船)が敷設船に転用され、途中で切断。1866年、成功し、落とした前年のケーブルも拾い上げて繋いだ。ロンドンとニューヨークの間の情報の伝達が、10日から数分になった。市場と外交と新聞が、同じ日を共有し始めた。セントジョンズ

- 横浜毎日新聞の創刊できごとAD1871年1月28日日本語の日刊紙1871年1月28日(明治3年12月8日)、横浜で、日本語で書かれた初めての日刊の新聞『横浜毎日新聞』が創刊された。それまでも幕末の外国人の新聞や、翻訳の新聞はあったが、毎日出る日本語の新聞はこれが初めてだった。和紙ではなく洋紙に、木版ではなく鉛の活字で刷った。開港の町の商人たちのために、船の出入りや物の値段を載せた。数年のうちに東京でも日刊紙が次々に生まれ、新聞は、政府を論じ、民権を唱える場になっていく。横浜
- 讒謗律と新聞紙条例できごとAD1875年6月28日新聞を取り締まる1875年6月28日、明治政府は、人を悪く言い立てることを罰する讒謗律と、新聞と雑誌を取り締まる新聞紙条例を定めた。自由民権運動の高まりのなかで、新聞は政府の役人を激しく批判していた。条例は、政府を倒すことや法を守らないことをそそのかす記事を罰し、社主や編集の責任者を定めさせた。一年足らずのうちに、多くの記者が牢に入れられ、罰金を科された。新聞は、記者が捕まったときに代わりに牢に入る「身代わりの編集長」を置いて対抗した。東京
- ベルの電話できごとAD1876年3月10日ボストンの下宿の一室。聾者の教師だったアレクサンダー・グラハム・ベルが、隣の部屋の助手に言った。「ワトソンくん、来てくれ。用がある」。硫酸をこぼしたから、という話が伝わる。3日前に特許を取っていた。同じ日に、イライシャ・グレイが同じ原理の書類を出していた(数時間の差、と言われる)。1877年、ベル電話会社。1915年、ニューヨークとサンフランシスコ。ボストン
- 言文一致できごとAD1887年話すように書く明治まで、日本語の書き言葉は話し言葉と別物だった。漢文訓読体、候文、雅文。二葉亭四迷は『浮雲』を書くとき、どう書けばよいか分からず、坪内逍遥に相談した。「三遊亭円朝の落語通りに書いてみろ」と言われた。速記された落語の本が売れていた時代である。「だ」で終える文体ができた。山田美妙は「です」、尾崎紅葉は「である」。学校教育と新聞と、そして活版印刷が、これを全国の標準にした。話すように書く、という当たり前が、作られたものである。東京
- リュミエールの映画上映できごとAD1895年12月28日動く写真グラン・カフェの地下「インドの間」。入場料1フラン。33人。『工場の出口』『列車の到着』『水をかけられた散水夫』。50秒ずつ、10本。列車が向かって来て、客が逃げた、と伝える。シネマトグラフ。撮影機で映写機で焼付機。リュミエール兄弟は「未来のない発明」と言った。翌年、世界中で興行し、日本には1897年。パリ
- イエロー・ジャーナリズムできごとAD1898年2月15日新聞が戦争を煽る1890年代のニューヨークでは、ピュリツァーの『ワールド』とハーストの『ジャーナル』が、部数を競って、犯罪、醜聞、大きな見出し、色刷りの漫画で読者を奪い合っていた。人気の漫画の黄色い服の少年から、この手の新聞は「イエロー・ジャーナリズム」と呼ばれた。1898年2月15日、キューバのハバナの港でアメリカの軍艦メイン号が爆発して沈むと、両紙はスペインの仕業と決めつけて書き立て、「メイン号を忘れるな」と叫んだ。原因ははっきりしないまま、アメリカはスペインとの戦争に踏み切った。ニューヨーク
- 最初のラジオ放送できごとAD1920年11月2日一つの声を同時にウェスティングハウス社の技師が、大統領選挙の開票を電波に乗せた。局名KDKA。聴取者は数百人。無線は、それまで船と船、軍と軍が一対一で交わすものだった。これを、名も知らぬ多数へ一方的に送る(放送する)という考え方が生まれた。5年で全米に500局。音楽と、野球と、そして広告。政治家の声が、家の中に入った。ヒトラーもローズヴェルトも、この装置を使った。ピッツバーグ
- 映画がしゃべるできごとAD1927年10月6日それまでの映画は声が無く、字幕と、映画館で弾かれる伴奏と、日本では弁士の語りで観た。1927年10月6日、ニューヨークで公開された『ジャズ・シンガー』は、歌の場面と数か所の台詞に、フィルムに合わせた音をつけていた。主演のアル・ジョルソンが、まだ何も聞いちゃいないよ、と語りかけると、客席は沸いた。数年のうちに、映画は音の出るものになる。声の悪い俳優は消え、弁士と楽士は職を失った。ニューヨーク
- 炉辺談話できごとAD1933年3月12日大統領が居間に話しかける就任直後、ローズベルトは取り付け騒ぎを止めるために全国の銀行を閉めた。閉めたままでは終わらない。開けたときに、また人が押しかければ同じことになる。彼はラジオで、銀行に預けた金がどこへ行っているのかを、演説の口調ではなく、台所で話すような言葉で説明した。使った語の八割は、英語でもっともありふれた千語の中にあったという。翌日、多くの銀行が開いたが、行列はできなかった。名づけたのは放送局の側で、「炉辺談話」と呼ばれた。政治の言葉が、広場から家の中へ移った。ワシントンD.C.
- 国民受信機できごとAD1933年国が握ったラジオ1933年、政権を取ったナチスは、宣伝相ゲッベルスのもとで、安いラジオの受信機を作らせた。「国民受信機」である。値段はふつうのラジオの半分ほどで、月賦でも買えた。受信できる局は限られ、遠くの外国の放送は入りにくい作りだった。数年のうちにドイツの家庭のラジオは大きく増え、ヒトラーの演説は国じゅうの居間に流れた。戦争が始まると、外国の放送を聞くことは罪になり、重い刑が科された。新しいメディアを、国が丸ごと宣伝の道具にした例である。ベルリン
- ラジオドラマ「宇宙戦争」できごとAD1938年10月30日ラジオの恐慌は新聞が作った1938年10月30日の夜、アメリカのラジオで、オーソン・ウェルズの劇団が、H・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』を、音楽の番組に臨時ニュースが割り込む形のドラマにして放送した。火星人がニュージャージーの村に降り立ち、軍を破って進んでくる。翌日の新聞は、全国が恐慌に陥ったと書き立てた。のちの研究では、実際に聞いていた人は少なく、騒ぎの多くは新聞が大げさに書いたものだったとされる。ラジオに広告を奪われつつあった新聞が、ラジオの危うさを言い立てたのだった。ニューヨーク
- 玉音放送できごとAD1945年8月15日天皇の声を初めて聞くポツダム宣言の受諾が決まった8月14日の深夜、宮内省で天皇の朗読が二度録音された。それを奪って放送を止めようとする将校たちが宮城に押し入ったが、円盤は隠されて運び出された。15日正午、全国のラジオが鳴った。多くの国民が天皇の声を聞くのは、これが初めてである。文語で、雑音が多く、「降伏」の語は出てこない。共同宣言を受諾すると述べただけなので、放送のあとにアナウンサーが意味を説明しなければならなかった。戦争の終わりが、声で伝えられた。東京
- 外れた見出しできごとAD1948年1948年のアメリカ大統領選で、主要な調査機関はそろって共和党のデューイの勝利を予測した。差が大きいと見て、調査は投票日の何週間も前に打ち切られている。当選確実と信じた新聞は、開票を待たずに一面の見出しを組んだ。「デューイ、トルーマンを破る」。実際に勝ったのはトルーマンで、彼はその新聞を掲げて笑う写真を残した。標本の割り当てを調査員の裁量に任せていたことも偏りを生んだ。以後、確率に基づく抽出が主流になり、直前まで調査を続けることが基本になる。シカゴ
- テレビ放送の始まりできごとAD1953年2月1日街頭テレビ1953年2月1日、NHKが東京でテレビの本放送を始めた。受信の契約は千件ほどで、受像機は給料の何年分もした。夏には民放の日本テレビが開局し、駅前や公園に大きな受像機を置いた。街頭テレビである。力道山のプロレスや野球の中継に、数千人が群がった。1959年の皇太子の結婚の中継を前に受像機が爆発的に売れ、テレビは十年足らずで家の居間の中心になる。人びとは同じ時刻に同じ映像を見る経験を共有するようになった。東京
- ケネディ暗殺できごとAD1963年11月22日衛星で届いた悲報12時30分、オープンカーで。教科書倉庫の6階から3発。オズワルドは2日後に警察の地下でルビーに撃たれた。ウォーレン委員会は「単独犯」。国民の6割はいまも信じない。ザプルーダーの8ミリフィルム、26秒。1992年の法で文書は公開されることになり、まだ全部ではない。ダラス

- ARPANETの最初の通信できごとAD1969年10月29日二文字で止まった最初の通信UCLAのクラインロックの研究室から、スタンフォード研究所へ。「LOGIN」と打つつもりで、「L」「O」で相手のコンピュータが落ちた。「LO」。最初のメッセージ。1時間後、つながった。国防総省の高等研究計画局の金で、パケット交換(データを小さく分けて別々の道で送る)。1971年、電子メール。1973年、TCP/IP。1983年、インターネット。1989年、ウェブ。ロサンゼルス
- ペンタゴン・ペーパーズできごとAD1971年6月13日政府の秘密を新聞が載せる1971年6月13日、『ニューヨーク・タイムズ』は、国防総省がまとめたベトナム戦争の秘密の報告書の中身を載せはじめた。歴代の政権が、勝てる見込みが乏しいと知りながら戦争を広げ、国民に偽ってきたことが記されていた。報告書を持ち出したのは、作成にかかわった分析官ダニエル・エルズバーグである。ニクソン政権は掲載の差し止めを求めて裁判を起こしたが、最高裁判所は、政府が事前に報道を止めることは許されないとして、新聞の側を勝たせた。ワシントンD.C.
- ウォーターゲート事件できごとAD1974年8月9日記者が大統領を辞めさせる1972年6月、ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党の本部に、盗聴器を仕掛けようとした男たちが捕まった。ただの侵入事件に見えたが、新聞記者たちが金の流れを追うと、大統領の再選委員会とホワイトハウスにつながった。大統領ニクソンが執務室の会話を録音していたテープが、裁判所の命令で提出され、もみ消しの指示が明らかになる。1974年8月9日、ニクソンは任期の途中で辞任した。大統領も法の下にあることが示された。ワシントンD.C.
- MTVの開局できごとAD1981年8月1日1981年8月1日の午前0時すぎ、アメリカのケーブルテレビで、歌に合わせて作った映像を一日じゅう流す局MTVが放送を始めた。最初に流れたのは、バグルスの「ラジオ・スターの悲劇」である。歌は耳で聞くものから、目で見るものになった。見栄えのする歌い手や、映像に凝るイギリスのバンドが売れはじめる。一方で開局のころの局は、黒人の歌い手の映像をほとんど流さず、ロックの局だと説明した。1983年、マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」が流れはじめたことで、その壁は崩れていった。ニューヨーク
- 「離散家族を探します」できごとAD1983年6月30日テレビが家族を探す朝鮮戦争の休戦から三十年、韓国の放送局KBSは、戦争で生き別れた家族を探す番組を一晩だけ生放送するつもりだった。申し込みの電話が鳴りやまず、局の前の広場には、探している人の名前と特徴を書いた紙を持つ人々が集まり、壁も地面も紙で埋まった。放送は延長を重ね、11月14日まで百三十八日、四百五十三時間に及んだ。画面に映った人と、テレビの前の人が、互いの顔や幼いころの話で確かめ合い、一万百八十九の家族が再会した。北に残された家族は、この番組では探せなかった。汝矣島(ヨイド)
- World Wide Web の誕生できごとAD1989年誰でも読めるページCERNで提案された仕組みが、誰でも情報を出せる世界を作った。印刷術以来の変化になる。ジュネーヴ
- リンクで順位をつけるできごとAD1998年リンクで順位をつけるウェブのページが爆発的に増え、欲しい情報を探すのが難しくなっていた。スタンフォード大学の大学院生ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは、多くのページからリンクされているページほど重要だ、という考えで検索の順位をつける方法を作った。学術論文の引用の数え方に似ている。1998年、二人は会社を作り、借りたガレージで事業を始めた。やがて検索に添える広告が巨大な収入になる。何を知るかの入口を、一つの会社の計算が握るようになった。メンローパーク(カリフォルニア)
- 誰でも書ける百科事典できごとAD2001年1月15日誰でも書ける百科事典専門家が書き、査読してから載せる無料の百科事典の計画は、一年かけても記事がわずかしか増えなかった。2001年1月15日、ジミー・ウェールズとラリー・サンガーは、誰でもその場で書き換えられる仕組みで、別の百科事典を始める。間違いはすぐ入り、すぐ直される。数年で既存の百科事典を記事の数で追い越した。広告を載せず、寄付で運営されている。書き手の多くは名前も知られない人びとである。知識の作り方の、新しい形が生まれた。サンディエゴ
- 実名でつながるできごとAD2004年2月4日実名でつながる2004年2月4日、ハーヴァード大学の学生マーク・ザッカーバーグは、同じ大学の学生が実名と顔写真で互いのページを見られるサイトを始めた。すぐに他の大学に、やがて世界じゅうの誰にでも広がる。友人の近況が次々に流れてくる画面は、利用者の関心を引きつけ続けるように計算され、その関心が広告の売り物になった。利用者は二十億人を超える。選挙への干渉や、偽りの情報や、民族への憎しみを広げる道具にもなったと批判されている。ケンブリッジ(マサチューセッツ)
- YouTubeの開設できごとAD2005年放送局を通さない映像2005年、カリフォルニアで、決済の会社ペイパルにいた三人の若者が、誰でも動画を載せて、誰でもブラウザで見られるサイトYouTubeを作った。最初の動画は、動物園の象の前で共同創業者が話す19秒のものだった。回線が速くなり、デジタルのカメラが安くなった時代に、動画を放送局を通さずに世界に届ける道が開けた。翌年、グーグルが買い取る。個人が作った動画が、テレビの番組と同じように、あるいはそれ以上に見られるようになり、動画で稼ぐ人も現れた。サンマテオ
- スマートフォンの登場できごとAD2007年6月29日ポケットの中の画面電話とネットとカメラが一枚のガラスになった。10年で世界の半分がそれをポケットに入れる。人が何を見て何時間を使うかが、この板で決まるようになった。クパチーノ
- アラブの春できごとAD2010年12月17日(チュニジアでの発端)携帯で撮った映像が政権を揺らす露天商の焼身自殺をきっかけに、チュニジア・エジプト・リビア・イエメンで政権が倒れた。民主化に落ち着いたのはチュニジアだけで、シリアは内戦になる。チュニス

- 答えてくれないできごとAD2020年代電話調査に応じる人の割合は、1970年代には七割を超えていた。いまは数パーセントである。固定電話が減り、知らない番号に出なくなり、勧誘と区別が付かない。答えてくれた少数が全体と似ているなら問題はないが、答える人と答えない人で意見が違えば、結果は歪む。調査の側は、補正の重みを増やし、インターネットの調査を併用し、統計の技法で埋める。ただし、補正が強くなるほど、結果は調査者の想定に近づく。人の考えを数で知るという営みが、いま難しくなっている。ロンドン
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
技術と産業22件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。誰が書き残したか8件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。冷戦のあと6件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。表現の歴史6件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。二つの大戦5件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。交易路とお金5件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。冷戦4件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。考えることの歴史4件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。明治3件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。都市の歴史3件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。主権はだれのものか3件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。『想像の共同体』で読む歴史3件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。宗教改革と科学革命2件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。朝鮮半島2件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙2件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。教育の歴史2件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。帝国と独立1件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。キリスト教のひろがり1件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。確かめるという方法1件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史1件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で読む歴史1件を共有 / 資本主義を生んだのは強欲ではなく、救われているか分からない不安だった、という100年前の論文。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。