マニプルのポロ
概要
馬に乗って杖で球を打つ遊びは、ペルシアから中国まで古くから行われていたが、多くの土地では廃れていた。インド東北のマニプルでは、小柄な馬に乗って球を追う競技が、人々の暮らしの中に生きていた。隣のアッサムで茶園を営むイギリス人たちは、マニプルの人々の試合を見て夢中になり、1859年、シルチャルに最初のポロのクラブを作った。やがて規則が書かれ、騎兵の将校たちがそれを本国へ持ち帰る。イギリスの上流の競技として知られるポロは、植民地の辺境で、土地の人々から学んだものだった。
場所
24.83°N 92.78°E · インド・アッサム州
本文
馬に乗り、杖を振って球を打つ。この遊びは古く、広い。ペルシアでは「チョウガーン」と呼ばれ、王や貴族が腕を競った。サファヴィー朝のイスファハーンの大きな広場には、いまも石の門柱が残り、ここで球が打たれたと伝えられる。唐の都でも宮廷の人々が打ち、玄宗も好んだと記録にある。日本にも「打毬」として伝わり、平安の宮中で行われた。だが近世までに、多くの土地でこの遊びは儀式や記憶の中へ退き、日々の暮らしからは消えていた。
例外が、インド東北の山あいにあった。山に囲まれた王国マニプルである。ここには小柄で丈夫な土地の馬がいて、その馬に乗って球を追う「サゴル・カンジェイ」という競技が、王から村人まで、暮らしの中に生きていた。名は土地の言葉で、馬と球と杖を表すとされる。都インパールの競技場は、世界で最も古いポロの競技場の一つと言われる。競技の起こりを神々に結びつける伝承もあり、ただの娯楽ではなく、祭りや王権とも深く結びついていた。
19世紀の半ば、マニプルの西隣、いまのアッサム州南部にあたるカチャール地方には、イギリス人が茶の園を開いていた。中国から茶を買うだけでなく、自分たちの支配する土地で茶を作ろうとした時代である(広州の茶貿易)。カチャールの中心の町シルチャルには、戦乱や移住でマニプルから移ってきた人々が住み、そこでも競技が続けられていた。辺境に赴任した軍人や茶園の経営者たちは、その試合を見て夢中になった。
中心になったのは、土地の部隊にいた若い将校ジョゼフ・シェラーと、カチャールの長官ロバート・スチュワートである。1859年3月、スチュワートの屋敷に茶園の人々が集まり、ヨーロッパ人のための最初のポロのクラブが作られたとされる。打ち方も馬の扱いも、マニプルの人々から習った。馬も、最初は土地の小柄な馬を使った。シェラーはのちに「イギリスのポロの父」と呼ばれるようになる。
遊びは辺境から都会へ移った。1862年にはカルカッタにもクラブができ、いまも続く最古のポロのクラブとして知られる。北西の山地、ギルギットやバルティスタンでも、土地の人々が同じような競技を続けていた。「ポロ」という名は、球を意味するバルティ語から来たというのが通説である。インドに駐屯する騎兵や歩兵の将校たちのあいだで競技は広がり、馬術の訓練にもなるとして歓迎された。
本国に届いたのは1869年ごろである。オールダーショットの駐屯地で、騎兵連隊の将校たちが、インドでの試合を伝える記事を読んで真似をしたのが始まりと伝えられる。最初は人数も道具もまちまちで、「馬上のホッケー」と呼ばれた。1870年代にはロンドンのハーリンガムのクラブが規則をまとめ、それが各地の基準になっていく。1876年にはアメリカに持ち込まれ、イギリス系の牧場主たちを通じてアルゼンチンにも根づいた。アルゼンチンはやがて世界でいちばん強い国になる。
ポロは上流の競技になった。一試合の中で何度も馬を替えるため、一人が何頭もの馬を持たなければならない。厩舎と広い芝の競技場も要る。マニプルでは村の若者が自分の馬で打っていた遊びが、ロンドンやニューヨークでは、富と家柄を示す場になった。オリンピックでも20世紀の前半に何度か行われている。
イギリスの上流の競技として知られるポロは、植民地の辺境で、土地の人々から学んだものだった。クリケット(クリケットの決まり)は本国で決まりが作られ、帝国の各地へ運ばれた。ポロは逆に、植民地から本国へ運ばれた。帝国の中で、遊びは両方向に動いていた。ただ、規則を書き、名前を残したのは運んだ側である。マニプルの人々が自分たちの競技を「ポロの源流」として語り直し、国際試合を開くようになるのは、ずっと後のことになる。