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Event / できごと

ワトー『シテール島への船出』

Watteau's Embarkation for Cythera
AD1717年
重要度 4

概要

ルイ14世が死んで2年。ヴェルサイユの重さから、パリのサロンの軽さへ。恋人たちが愛の島を去る(着く、とも)。霧、絹、憂い。アカデミーは新しい部門「雅宴画(フェート・ギャラント)」を作って彼を入れた。ロココ。ワトーは結核で4年後に死んだ。36歳。ブーシェ、フラゴナール。革命が、それを軽薄だと言って捨てた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

アントワーヌ・ワトーAD1684年10月10日–AD1721年7月18日 · 描いた

本文

1709年、ワトーは25歳で、ローマ賞の2位。1712年、王立絵画彫刻アカデミーに「準会員」で入って、入会作を求められた。5年、出さなかった。1717年8月28日、出した。アカデミーはこの絵に、既存の部門(歴史画、肖像画、風景画、静物画…)のどれも合わないので、新しい部門を作った。「フェート・ギャラント(雅宴画)の画家」。ワトーのために作られた言葉。

『シテール島への巡礼』(アカデミーの記録の名。ルーヴル。129×194センチ)。ワトーはもう1点描いた(1718〜19年、ベルリン、シャルロッテンブルク宮殿。フリードリヒ大王が買った。人物が多く、船に天使が群がる。こちらを『シテール島への船出』と呼ぶこともある)。

シテール(キティラ)。ペロポネソスの南の島。ヴィーナスが海から生まれて上がった島。1700年頃のパリの劇で「シテール島への巡礼」は流行の題(ダンクールの喜劇、1700年)。

絵。右手前、ヴィーナスの像(薔薇の花輪、矢筒)。恋人たち、3組(同じ2人の3つの瞬間、と読む人がいる)。座っている男が女を口説き、女は扇で顔を隠しかけている。次の男が女を立たせている。次の2人が歩き出して、女が振り返っている。それから、下り坂の恋人たちの列、船(金色、キューピッドが飛ぶ)。左奥、霧の山、湖。夕方の光。

シテールへ行く(出発)のか、シテールから帰る(島にいて、去る)のか。1961年、レヴィが「これはシテールからの帰りだ」と論じた。ヴィーナスの像は島にあるもので、恋人たちは愛を得て、去る。夕方。振り返る女。憂い。以来、『シテール島からの出航』と呼ぶ人もいる。ワトーは題をつけなかった。

ロココ。「ロカイユ(貝殻、岩の飾り)」から。ルイ14世(1715年死)の重い古典主義(ヴェルサイユ、ル・ブラン)から、摂政オルレアン公の時代(1715〜23年)のパリの軽さへ。曲線、パステル、S字、非対称、小さい部屋、恋、芝居、中国、庭。ワトー、ブーシェ(1703〜70年、ポンパドゥール夫人の画家)、フラゴナール(1732〜1806年、『ぶらんこ』)。

ワトーは1721年7月、結核で死んだ。36歳。「私の絵を焼いてくれ」と友人に頼んだ(頼まなかった、とも)。人嫌いで、注文を嫌い、絵を売るのを嫌い、絵を人にやって、また取り戻した。「ワトーの絵の下には、憂鬱が流れている」(ゴンクール兄弟、1856年。彼らがワトーを「発見」した)。革命は、ロココを、貴族の軽薄として捨てた。ダヴィッド。1793年、ルーヴルのワトーは倉庫に入れられた。

ヴェルレーヌ『雅びなる宴(フェート・ギャラント)』(1869年)、ドビュッシー『月の光』(ヴェルレーヌから)。ワトーは19世紀の終わりに戻ってきた。

同じ時代のできごと

ラゴスとベニン湾の交易AD17〜19世紀先住民による西洋批評AD17世紀末〜18世紀初めカルロヴィッツ条約AD1699年1月26日元禄文化AD1700年頃広州の茶貿易1700年アシャンティ王国AD1701年赤穂事件1701年サンクトペテルブルクの建設AD1703年