できごと

ワトー『シテール島への船出』

The Embarkation for Cythera
AD1717年
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ネーデルラント連邦共和国大英帝国スウェーデン帝国ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国エジプトオーストリア帝国フランス王国スペインモロッコAlgiersイギリスアイルランド王国TunisBrandenburgヴェネツィア共和国NaplesTripolitaniaCyrenaicaプロイセンAD1717年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1717年の版図を描いています(27勢力)。

概要

ルイ14世が死んで2年。ヴェルサイユの重さから、パリのサロンの軽さへ。恋人たちが愛の島を去る(着く、とも)。霧、絹、憂い。アカデミーは新しい部門「雅宴画(フェート・ギャラント)」を作って彼を入れた。ロココ。ワトーは結核で4年後に死んだ。36歳。ブーシェ、フラゴナール。革命が、それを軽薄だと言って捨てた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

アントワーヌ・ワトーAD1684年10月10日–AD1721年7月18日 · 描いた

本文

アントワーヌ・ワトーは1684年、フランドルに近いフランス北部の町ヴァランシエンヌで、屋根職人の子として生まれた。18歳ごろパリへ出て、はじめは安い宗教画の複製を描く工房で働き、やがて劇場の装飾画家や、リュクサンブール宮殿の美術品を管理する画家のもとで学んだ。ルーベンスの絵を間近に見て、色と筆の運びを身につけたとされる。1709年、ローマ留学の資格をかけた王立絵画彫刻アカデミーの競技に出て2位になったが、ローマへは行けなかった。

1712年、ワトーはアカデミーに準会員として受け入れられた。正会員になるには、入会作品を一点納めなければならない。ところがワトーは、それを5年も出さなかった。アカデミーから何度も督促を受け、ようやく1717年8月28日に納めたのが、のちに『シテール島への船出』と呼ばれる絵である。

ヴァトー『シテール島への巡礼』、1717年、ルーヴル美術館。恋の短さを象徴するとされる作品
ヴァトー『シテール島への巡礼』、1717年、ルーヴル美術館。恋の短さを象徴するとされる作品Wikimedia Commons Jean-Antoine Watteau · Public domain

アカデミーには、絵の格付けがあった。最も高いのが神話や歴史を描く歴史画で、そのあとに肖像画、風俗画、風景画、静物画が続く。ワトーの絵は、そのどれにもうまく収まらなかった。アカデミーの記録には、はじめ「シテール島への巡礼」と書かれ、それが消されて「雅宴(フェート・ギャラント)」と書き直されている。着飾った男女が野外で恋を語らい、音楽や芝居に興じる場面を描く絵。ワトーのために、新しい呼び名が作られたのである。

シテール(キティラ)は、ペロポネソス半島の南に浮かぶ島で、海の泡から生まれた愛の女神ヴィーナスが流れ着いた場所とされる。1700年ごろのパリの劇場では、恋人たちがこの愛の島へ巡礼に出る、という趣向の芝居や歌が流行していた。ワトーは劇場の世界に親しく、その題材を絵に取り込んだ。

ワトー『シテール島への船出』の後年の作例(1718〜19年頃、ベルリン)
ワトー『シテール島への船出』の後年の作例(1718〜19年頃、ベルリン)Wikimedia Commons Jean-Antoine Watteau · Public domain

絵は横2メートル近い大きさで、いまはルーヴル美術館にある。右手前の木陰に、薔薇の花輪をかけたヴィーナスの像が立つ。その前に三組の男女がいる。一組目の男は座り込んだ女に熱心に語りかけ、二組目の男は女の手を取って立たせようとし、三組目の二人はすでに歩き出していて、女は名残惜しそうに後ろを振り返る。その先には、坂を下って水辺へ向かう恋人たちの列があり、金色の船のまわりを小さな愛の神々が舞っている。遠くには霞む山と水が広がり、全体が夕方のような柔らかな光に包まれる。三組は別々の恋人ではなく、同じ二人の三つの瞬間を順に描いたものだ、と読む人もいる。

この絵は、恋人たちが愛の島へ旅立つところなのか、それとも島での時を終えて帰るところなのか。長いあいだ「船出」と受け取られてきたが、1961年、美術史家マイケル・レヴィは、ヴィーナスの像があるのだからここはすでに島の上であり、恋人たちは島を去ろうとしているのだ、と論じた。夕暮れの光と、振り返る女の姿に漂う名残惜しさも、その読み方を支える。以来、どちらと見るかで意見が分かれている。ワトー自身は題を付けなかった。

ワトーによる『シテール島への船出』の初期作(1709〜10年、フランクフルト)
ワトーによる『シテール島への船出』の初期作(1709〜10年、フランクフルト)Wikimedia Commons Antoine Watteau (*1684; †1721) · Public domain

ワトーはこの主題をもう一度描いている。1718年から翌年ごろの作品で、人物や愛の神の数が増え、全体に華やかになっている。この二枚目はのちにプロイセンのフリードリヒ大王の手に渡り、いまはベルリンにある。

ワトーの絵が生まれたのは、ルイ14世が1715年に死んだ直後だった。太陽王の宮廷は、ヴェルサイユの壮大で重々しい古典主義を好んだ。王が死に、幼いルイ15世の摂政となったオルレアン公は、宮廷をパリへ戻した。貴族たちは都の邸宅の小さな客間に集い、会話と恋と芝居を楽しんだ。そうした空気から、曲線と淡い色を好み、親しく軽やかなものを愛する新しい様式が生まれる。のちにロココと呼ばれる様式で、名は岩や貝殻をかたどった装飾(ロカイユ)に由来する。ワトーの雅宴画はその始まりに位置し、ブーシェやフラゴナールへと受け継がれていった。

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Wikimedia Commons Jean-Antoine Watteau · Public domain

ワトー自身は気難しく、人付き合いを嫌い、一つの場所に長く落ち着かなかったと伝えられる。若いころから胸を病み、1720年にはロンドンへ渡って医師にかかったが、よくならなかった。パリに戻ると、友人の画商ジェルサンの店のために看板の絵を描いている。1721年7月、パリ近郊のノジャンで死んだ。36歳だった。

ロココの軽やかさは、やがて批判の的になる。啓蒙思想家たちは道徳を説かない絵を退け、フランス革命の時代には、貴族の退廃を表すものとみなされた。古典主義の画家ダヴィッドの弟子たちが、ルーヴルにあったこの絵にパン屑を投げつけて的にした、という話も伝わる。ワトーが再び高く評価されるのは19世紀の半ばからで、ゴンクール兄弟が、彼の絵の底に流れる憂愁を見いだした。詩人ヴェルレーヌは1869年に詩集『雅びなる宴』を出し、その中の一篇「月の光」は、のちにドビュッシーのピアノ曲の題にもなった。恋の楽しさと、それが終わることへの予感。その二つを同時に描いたことが、300年後のいまもこの絵を古びさせていない。

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